哲学の定義(走り書き)

哲学の定義が怪しいので、古典的な定義をメモしておく。

プラトンによる哲学の定義

フィロソフィー、すなわち「知を愛すること」をする学問。
プラトンは『ゴルギアス』や『プロタゴラス』で繰り返すように、
ソフィストが教える弁論術の対義語として哲学を構想した。

そのため、哲学の定義はなにかをするものというより、
「ソフィストのものとは違うもの」として定義された。

この定義をアリストテレスが継承し、
またアリストテレスに習う形でカントなどのいわゆる哲学者もまた、
このような営みを哲学とみなした。

イソクラテスによる定義

フィロソフィーと同じ言葉を使用。
ただイソクラテスはプラトンの定義に加え、
考えたことを実践することを要求している。
この意味でイソクラテスの哲学は現代的な学問のうち、
倫理学や政治学、修辞学を含む。
実際、イソクラテスは現代のコミュニケーション論で注目されている。

哲学とはなにかという問い

哲学を学んでいる人でも、哲学を学んでいない人でも
哲学があること、そしてその線引きが存在することを疑わない。
しかし2つ気になる部分がある。

  1. あるものが哲学であるという線引きがあいまい

  2. またそれが哲学であるという根拠を示すことができない

この問題は哲学の提唱者プラトンまで遡ることができる。
プラトンの定義自体が「哲学とは、弁論術ではない」程度のものでしかなかった。
プラトンの時代、現代に存在する学問が存在しない。
たとえば経済学はアダム・スミス以来の新しい学問であるし、
功利主義も近代の賜である。
プラトンの時代、弁論術ぐらいしか哲学と比較できるものは存在しなかった。
現代はそうもいかない。

それゆえ、私が書かねばならないのは
それが哲学かそうでないのかというのは、それ自体十分な検討の対象である、ということである。

慣例的に哲学を提唱したプラトン、その弟子のアリストテレスが哲学者であり、彼らが語る「哲学」が哲学なのはあまり疑う必要はないだろう。

他方、同時代に哲学を提唱したイソクラテスはなぜ哲学者として扱われず「思想家」として扱われることがあるのか、
またキケロやセネカはしばしば哲学者と想定されるがその根拠は何なのかという部分は、必要であればもちろん考察されるべきだろう。

「よく知らないが、”先生が言うには”それは哲学ではない。だから哲学ではない」という区別をするのは、学問という世界であまりに狭い。

参考文献
柿田英樹『倫理のパフォーマンス イソクラテスの哲学と民主主義批判』彩流社 2012年
廣川洋一『イソクラテスの修辞学校 西欧的教養の源泉』講談社 2005年
納富信留『ソフィストとは誰か?』筑摩書房 2015年
プラトン著作