纏綿たりて可憐

 わたしは文学をやりたかった。あの時代の滔々とした語りのような文章をやりたかった。彼らはどうしてあのような文章を書きおおせたか。わたしにはわからない。それはなぜかと問えば、答えは読んでいないからという至極単純なものであるのでその堂々たる虚言には恐れ入る。況やおのれのことである。

 鍵盤をたたく指は止まらぬか。その流れる音が塞き止めらるることはあるか。もちろんある。あるけれど、それは畢竟おのれのためであるから責める相手は自らのうちにしかいない。鏡に向かって責め立ててやってもただ虚しいばかりである。そこに実像は存在しえず、なればその根源も水に浮かぶ月の有様ですらあろう。

 このごろ読んだものといえば、永井荷風の『冬日の窓』と坂口安吾の『堕落論』の二つのみである。これは短編で、読書する体力の落ち切ってしまったわたしには随分やさしかった。中身までやさしいわけではないが、それであってもやさしかった。なぜか。一つに新字新仮名で読んだからというのがある。そして一つにエッセイであるということがある。要はこの二つであろう。あまり好い読み方ではないようにも思えるが、先ずは読むということが大事だから、そこはあまり気にすることでもない。そういう開き直りがある。それだけ我ながら読書のための体力の減退というのは深刻であった。

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