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わたしにとっての神社を改めて考えてみた


 我が家のすぐ近くには寺がない。氏神であるという神社が一社、すこし歩いたところに在るばかりである。
 「氏神である」というのは、実感はまったくなく、まあ家の近所だし初詣は生まれてこの方ここ・・であるというくらいの認識だったが、鳥居横に置かれた金属の柱に書いてあったからそうなのだと素直に受け入れていた。それくらいの認識だった。(ちなみに、この柱は二、三年ほど前の台風かなにかで撤去されていまはもうない。たしかそう。)
 とにかく大学生前にやっと外出の意思を持つまで、寺社への関わりをこの氏神さんへの毎年の初詣以外にろくに持たなかったのである。

 そのためわたしにとって、神社とは訪ねるところである。訪ねる意思がなければ、関わる機会は一向に巡ってくることがない。意思を持たなければ、友人の家を訪ねる機会が巡ってこないのと同様に。
 いままで観光名所であるという以外にろくに考えてこなかったが、改めて考えてみると、自分が神社についてこのような認識を無意識の底に持っていたことに気づいた。

 寺は仏像などが祀られているところであり、そこにどなたかはいらっしゃらず、ただなにか「おもい」や物があるところである。
 神社は神様がお住まいになっているところ、すなわち神の家である。
 寺社について、それぞれそういう認識がある。

 どうやらわたしは神社についてよそのお家、それも親しくないお家という認識であるらしい。
 しかしその一方で、神はいないと無意識に思っている。これは神が留守にしているという意味で、神にとっての神社とは家は家でも別荘なのではないかというものだ。自分が神社へ参拝することは、留守のお家を訪ねて見学させていただいているのだと認識しているようだった。……自分が不敬極まりないから逃げ道をつくっているとも言えるかもしれない。

 ちなみに、「らしい」とか「ようだ」とか、先ほどからどうにも他人事のような書き方であるのは、我ながらそんなことを考えていたのかという新鮮な驚きに見舞われているからである。あしからず。

 神は人の心にいる。
 わたしはとにかくあらゆることに対して不敬で、寺社についても見えないものへの敬いの心をろくに持てずに、見えるものであるところの建物ばかりに感心している。神の家だと思っていても、やはりそれは歴史的建造物であるという認識が強い。綺麗な建物だな、と留守中のお宅を見学させていただいているのである。すくなくともわたしにとって、祈る神は心の中にいて、空気中や天などにおわす見えないもので、目の前の社に宿っているわけではないのだ。
 つまるところ、やはりわたしにとって、神とはそこにいない。しかして見えないものは、人の心にいるのだ。

 ──ということを、神社・・について考えての結論とするのは、いささかズレているような気もするし実際ズレているのであろうが、自分の無意識にあった認識について知ることができたから満足である。

 ここで一首。

 神さまは人の心のなかにいて
 みえないものは大抵そうです

 ありがとうございました。これにておしまい。

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