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【試し読み】『Tonhon Chonlatee』(Nottakorn著/ファー訳)

(イラスト:鈴倉温 デザイン:コガモデザイン)

■著者紹介

Nottakorn(ノッタコーン)
1993年バンコク出身。大学卒業後、執筆活動を始める。動機は読書が好きだから。これまでに20作品以上の著作がある。『Tonhon Chonlatee』は2020年にドラマ化された。

■訳者紹介

ファー
日本人。東京外国語大学タイ語学科を卒業後、バンコクで5年間会社員生活を送る。日本帰国後フリーランスでタイ語通訳・翻訳業を営む。

■あらすじ

ずっと想いを寄せていたトンホンが、恋人と別れた! 大学進学を目前に控えたタイミングでチョンラティーは二歳上の幼馴染のトンホンと再会し、失恋で傷ついた彼の側にいることに。今後はずっと一緒にいたいから、絶対にゲイだとバレるわけにはいかない。寮の同室で暮らせるようになって、大学内でも〝トンホンの弟〟として一番近くにいられるけれど、片思いはどんどん欲深くなってトンホンを手に入れたいと思ってしまう。隣で眠るトンホンにキスをしてみたり葛藤しながらも幸福感を味わっていたが、ある夜、トンホンはなぜかチョンラティーの素肌に触れてきて――!? 純情と欲情が入り交じる青春初恋BL人気作の日本語翻訳版!

■本文

プロローグ

「いい天気だ」
 きゃしゃな腕がベランダと寝室の間のガラスの引き戸を開けると、チョンラティーの形のいい唇から思わず声が漏れ出た。
 今朝は本当に天気がいい。
 やわらかい光と海からの爽やかな潮風が、この部屋の主であるチョンラティーの気持ちを穏やかにしてくれる。元々今日の気分はよかったが、ますますご機嫌な気持ちになる。
 兄のように慕っている隣家のトンと同じ大学に合格したとわかってからこの一週間、チョンラティーはバカみたいに浮かれていた。
 なぜならチョンラティーは幼いころからずっと、トンに淡い恋心を抱き続けていたのだから。離れたところからそっと見守ることしかできない片思いではあったけれど。
 まだ覚醒しきらない体を伸ばしながら、朝の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。そして大学の入学当日のことを妄想したところで、チョンラティーは思わずニヤけてしまった。
 数年前、トンがバンコクに引っ越して以来彼の姿を見ていないけれど、これからはまた彼と接触するチャンスもあるだろう。こっそり彼がバスケをプレーする姿を覗き見していた子供のころのような機会がきっと。
(だって、近いうちに僕たちは再会するんだもんね)
 切れ長の目と鋭い視線、男らしいワイルドな顔つき、そして……胸に描かれたいかりのタトゥー。
 チョンラティーは彼の姿に想いをせた。
「かっこいいな……」
 思わず口元から笑みがこぼれる。チョンラティーは体の向きを変えると、部屋の中へ戻って行った。淡いベージュの壁紙の自室は、家具も勉強机も統一感を持たせた色味のものを配置していて、落ち着いた雰囲気にしてある。
 チョンラティーは勉強机の上に置いていたノートパソコンを手にすると、そのまま柔らかいベッドの上に腰かけた。
 おおでもなんでもなく、気づけばトンのことを考えている。同じ大学で学ぶことが決まってからは、彼のことを呼吸する度に考えてしまう。だからこのワイルドなイケメンのフェイスブックを毎日チェックしてしまうのは、もう仕方がないことなのだ。
 今朝もいつもと同じようにチョンラティーはフェイスブックの自分のページから、検索バーを開いた。文字入力をしなくても検索履歴で最初に上がってくるトンの名前をちゅうちょせずにクリックする。
 ……ほとんど更新されてない。いつもはトンの恋人のタグが付けられた投稿があがっているのに。それを見るといつも胸が痛む。ずっと片思いしていた相手が他の人のものになっているのを目の当たりにするのはつらい。しかも、相手はものすごい美人なのだ。
(片思いで十分だなんて言ったくせに、彼女と自分を比べちゃうなんて……)
 チョンラティーは頭を振って、そんな自分の考えを素早く振るい落とした。
 それからは画面をスクロールしてトンの写真を見続けた。どの写真が一番好きか考えてみたが、なかなか選べない。ただ一番感動した写真はたぶん、半裸のトンが胸のタトゥーと割れた腹筋をさらしてバスケをしている写真だろう。
 周囲よりも際立ってかっこいい男がそこにいた。
(あれ!? アンプ先輩とのツーショット写真はどこに消えた?)
 チョンラティーは美しく整ったアーチ状の眉根を寄せて、もう一度画面をスクロールさせた。
 アンプというのはトンが付き合っている彼女の名前だ。普段であれば目障りなほどたくさんのツーショット写真が投稿されているのに、今朝は写真がない……おかしい。一度気づいた違和感にチョンラティーの好奇心は刺激された。これはもう、頭脳は大人な少年探偵のように調べるしかない。
 そうして調べていくと、最終的な答えに行きついた。トンの恋人であるアンプ先輩のフェイスブックに違う男との写真が投稿されていたのだ。そして改めてトンのプロフィールを見返したチョンラティーは、その内容が更新されていることに気がついた。

──居住地 バンコク タイランド
──フリー
──×××がフォロー中

(フリー……フリー……フリー!!!)
 ノートパソコンをベッドサイドに置くなり、チョンラティーは喜びのあまり思わず小躍りした。
 そうするうちに今の自分がどんな顔をしているのか気になって背後にある鏡を振り返ると、そこにはにやけた半笑いの自分がいた。少なからず、おかしな顔をしている。でも今の自分の表情なんて、どうだっていい。
 だって──。
「母さん、トンがフリーになった!」

 

第1章

「母さん、トンがフリーになった!」
「何よ、チョン。そんな大きな声を出して。ビックリしたじゃない」
「だって、トンがフリーになったんだよ!?」
「それで?」
「だって母さん! トンがフリーだよ。片思いの相手が誰かのものでなければ、罪悪感を持たずに想っていられるでしょ」
 指でスマホをスクロールしている母親の顔を見ながら、チョンラティーは理由を説明した。
 チョンラティーは母とふたりでこの大きな家に暮らしていた。父親が幼いころに亡くなったこともあってか、チョンラティーは母親とは普通の親子以上に仲がよかった。だからトンに片思いしていることも含めて母には何でも話すことができた。
「知ってるわよ。トンのお母さんのターイと話したから。今回はきっぱりと別れたみたいね。ターイさんがトンは荒れてるって言ってたわ。だって……七〜八年付き合っていたそうよ」
「かわいそうに。おばさんに伝えて。トンを連れてきてくれたら、僕が慰めてあげるって」
 チョンラティーは母ナームのそばの椅子に座ると、目の前の皿に盛られたリンゴを食べ始めた。
「おばさんに、トンを麻袋に詰めてこっちに送ってって伝えてよ」
「本人と会ってもその調子でね、チョン。あと二、三日したらトンは隣の家に帰ってくるから」
(え、なに!? もしトンが今の僕に会ったら、僕がゲイだってバレちゃうじゃん!!!)
 母から聞かされた衝撃的事実に、チョンラティーは食べかけのリンゴをテーブルの上に落としてしまった。
 薄茶色の大きな目で、その発言の主を見つめる。
「母さん、今、何て言った?」
「トンが戻ってくるって言ったのよ。だってあの子の家でしょ。なにをそんなに驚くことがあるの?」
「母さん、それ本当のこと言ってるんだよね? だましてないよね?」
 チョンラティーは動揺していた。
「騙すわけないでしょ。でもトンは今のあんたに会ったらきっと驚くでしょうね。ピンクのカチューシャを頭から外しなさい。リボンが顔よりも大きいじゃない」
「でも可愛かわいいでしょ?」
 チョンラティーは椅子から立ち上がると、近くにあった手鏡を手に取り、そこに映る自分の姿を見た。
 トンと何年も会わないうちに、自分はすっかり変わってしまっていた。以前はどこにでもいるごく普通の男の子だったはずなのだ。そのころはまだ自分が男を好きだと自覚していなかった。
 けれどトンがバンコクに進学してしばらく経ったころ、自分は女性に興味を持てないのだと周囲にカミングアウトすることになった。以来今日まで、それは変わらない。
 チョンラティーは普段メガネではなくコンタクトレンズをつけているので、丸くて大きな瞳がいつも彼を可愛らしく見せていた。小ぶりな鼻に小さな唇、白くて透明感のある肌。特に女性らしい服装をしていなくても、全体的に見れば中性的な印象を与える。
「母さんは、トンが僕を見たらゲイだと気づくと思う?」
「わからないと思うわよ。だって何年も会ってないでしょ」
「トンが今の僕を受け入れられないんじゃないか、自分がトンに近寄れないんじゃないかって心配だよ。僕はべつに、多くは望まない。トンに片思いしてる僕を側にいさせてくれればそれでいいんだ」
「私の息子は控えめなのね。もし私なら全力でぶつかるけど。成功するか失敗するかは後から考えればいいじゃない。私はこの方法で父さんを口説いたのよ」
「それは母さんのやり方でしょ。僕とは違う。そんなことよりも、話なんかしてる場合じゃないよ!髪を切りに行ってくる。このまま伸ばしているとますます女の子っぽく見えるから」
 そう言うとチョンラティーは大きなリボンの付いたパステルピンクのカチューシャを外した。手で髪をいて落ちてきた前髪をかきあげると、満面の笑みを浮かべて立ち上がった。
「どの車で出かけるの?」
「ピンクミルク号だよ」
 ピンクミルク号というのは、チョンラティーの愛車であるパステルピンクのフォルクスワーゲン ニュービートルのことだ。
「スピード出し過ぎないでね。危ないから」
「うん。わかってる」

 
 大音量で音楽をかけながら、派手な車がチョンブリ県のビーチ沿いを走っていた。車の持ち主もご機嫌な様子で曲に合わせて歌いながらハンドルを握っている。
 チョンラティーは、この道から見える景色が好きだった。片側は海が光を受けてキラキラと輝いているし、反対側を見れば、たくさんの店が立ち並んでいて活気に満ちあふれている。
 本当なら今日は、家でごろごろしながら韓流ドラマを見るつもりだった。
 しかしあと二、三日でトンが帰ってくると聞いたからにはこのままではいられない。髪を切りフェイシャルマッサージをして、新しい服を買うことに決めた。
 そしてそれに無理やり付き合わされるのは、他の誰でもない、親友のゲムだった。
 チョンラティーはとある家の門の前に車を停めると、エンジンは切らずにゲムに電話した。するとすぐにその家からきゃしゃな女の子が出てきて、ピンクミルク号の助手席に座った。
「思いついたらいきなり誘うんだから。メイクが間に合わないところだったじゃん。ねえ、チョンってばどうしてメガネかけてるの? メガネをかけたらセクシーじゃないって言ったでしょ?」
 シートベルトを締めながら、いつもはコンタクトなのに今日に限ってメガネ姿のチョンラティーを見て、ゲムは不思議そうな顔をした。
「あたしだってコンタクトをした方が可愛く見えるってわかってる。だからこそ大切な人が現れるまで、メガネをかけて隠しておかなくちゃいけないの。ガードは固くしておかなくちゃね」
「誰? チョンラティー坊やの大切な人って」
「そんなのひとりしかいないよ。たくましくて胸にいかりのタトゥーを入れてる人」
「トンがチョンラティーの大切な人なの? でも他の人の旦那でしょ? 聞くけど、いつになったら片思いをやめて恋人を作るの? あんただって超顔がいいし、家もお金持ちじゃん。なんで他の人のものになってる男にこだわるの?」
「もう彼女とは別れたんだよ。トンの母さんがそう言ってたし、トンのフェイスブックのプロフィールも『フリー』に変わってた」
「じゃあ、さっさと口説けば?」
「バカ言わないで! トンは女の子が好きなんだよ?」
「もう! 今はそんな時代じゃないよ。女が好きだったとしても男を好きにならないとは限らないんだから。あんたってばこんなに整った顔をしてるくせに、貢いでばっかりだよね」
「あたしが貢いでばかりだなんて何を根拠に言ってるの? 貢いだことなんてない。トンにプレゼントを贈った以外、他の男にプレゼントをしたことなんてないもん」
「推しのコンサートやファンミのチケットにはすぐお金出すじゃん。トンへのプレゼントを買う時よりも簡単に財布を開くでしょ」
「ああ……その話は後にして」
 チョンラティーはハンドルから片方の手を離すと、ずり落ちたメガネを指で押し上げた。そのまま彼の運転する車は角を曲がり、ショッピングモールの入り口に入った。
「トンを口説くべきよ」
「そんな勇気ないよ……」
 ゲムの言葉に、チョンラティーは首を振った。
「そんなんじゃどうしようもない……ねえ、真面目に聞くけどチョン。男はたくさんいるのに、なんであの人にこだわるの?」
「……わからない」
 言いながら、ゲムの質問の答えになってないなと思った。チョンラティーはそれ以上語らず、ただ笑みを浮かべながら自分の記憶を辿ってみた。
 ふたりの家は隣同士。トンの母親は元々チョンブリ県の出身で、チョンラティーの母親の親友だった。だから当然のように子供である自分たちも友達になって、幼いころから一緒に遊んでいた。その後トンはバンコクに引っ越したから、今ではたまに行き来をするぐらいになってはいるけれど。
 トンとは二歳しか離れていなかったので、幼稚園から小学校まで同じ学校に通っていた。
 彼は昔からかっこよかった。同年代の中では特別体の大きな方だったこともあり、気づけばトンはガキ大将ポジションに収まっていた。
 子供のころのトンとの思い出は感動の連続だ。自分より体が大きい相手にいじめられた時も、可愛らしい顔立ちが原因でいじめられた時も、いつだってトンは自分の代わりにいじめっ子たちに仕返しをしてくれた。
 そんなことが何度かあって、それ以来誰もチョンラティーに手を出すことはなくなった。
 家族ぐるみで一緒に旅行に行った時も、トンには助けてもらった。旅行先で走り回っていたチョンラティーがハチに足を刺され、歩けなくなってしまったことがあったが、そのときもトンが彼をおぶって両親のところへ連れ帰ってくれたのだ。
 その他にも数えきれないほどたくさんの思い出が、チョンラティーの胸には層をなして刻まれている。そのすべてのよい思い出が、この片思いの原動力だ。
「チョン、ちょっとチョンってば! あそこがいてる。停められるよ」
「あー……」
「またボンヤリして」
「ごめん。なんか考えごとしちゃって……ゲムは何か買うの? あたしはバンコクの寮に持って行くものも見てみる」
「うーん、私は特に買うもの決めてないけど見てみる。それで? あんたはどこの寮に住むの? チョンと同じ大学に行けなくてほんと残念だわ……一緒なら部屋をシェアできたのに」
「まだ決まってないけど、母さんにはトンと同じ寮に住みたいって言っておいた。空室があるかわからないけど」
「なんで彼とルームシェアしないの? そうすればトンを襲うチャンスがあるかもしれないじゃん……って、あら、ヤダ。私、何を言ってるんだろ」
「……ああ、それいい考えだね。ゲム」
 チョンラティーは車を降りてから、自分の後ろを歩いている親友を振り返った。そしてふと何かを思いついたように胸に手を当ててうっとりした表情を浮かべた。
「朝、目覚めたら、トンが旦那になってるんでしょ?」
「あんたにそんな勇気があるの?」
「そんなのあるわけないってわかるでしょ。でも一緒に住めたら、もっとトンの近くにいられるんだよね」
「とはいえ、いきなり恋愛対象が男だってバレないようにしないとね」
「うーん」
「私が彼女のフリをしてあげようか?」
「しなくていいよ、天罰がくだるから。それよりねえ、ゲム。あの男の人トンに似てる」
 チョンラティーは目を細めて、カフェにいる体の大きな男性を見つめた。ジュースが飲みたくて、こっちに来たけれど、店に入ろうとしたそのときにちょうどこちらに顔を向けている大柄な彼に目が釘付けになった。
 鋭い目つき、筋の通ったきれいな鼻、思わずキスしたくなるような形のよい唇。
 毎日写真を見ているのだから間違えるはずがない。あれは、しょうしんしょうめい本物のトンホンだ。
 視線の先にいる実物の彼は本当にイケメンで、すごく男性的な魅力に溢れている。筋肉質な体にジャストサイズの白いTシャツとシンプルなジーンズ。そして足元は高級なスニーカーだ。
 その一方で、今の自分の姿はというと、韓国風のオーバーサイズのピンクのTシャツにショートパンツ。前髪をめているのはマイメロディの髪留め。チョンラティーはこんな自分をなかなか可愛いと思っていた。
(違う! 違う! 違う! 今の状態の自分をトンに見られてはいけない。このタイミングで再会すべきじゃない)
「トンが帰ってくるのは二、三日後だって母さんが言ってたのに……やだ、ゲム。あたしはこれじゃダメ」
 チョンラティーはうつむきながら、ゲムの腕を掴んで引き寄せた。そうして、少し離れたところからいぶかしげな表情でこちらを見ているトンのことをこっそりと盗み見た。
 こっちを見ないで。今は絶対に見つかっちゃダメ。
「チョン。私をどこに引っ張っていくの?」
「ここにはいられない。とりあえず逃げよう」
「何なのよ!」
 ゲムはチョンラティーに引きずられながら、ずっと大声で文句を言っていた。トンの視線から逃げ続け、非常階段にたどり着くと、疲れきったチョンラティーは階段に座り込み……ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返した。
「本物のトンだ……写真よりもずっとイケメンだよ、ゲム」
「どの人? 私は見る暇もなかった」
「白いTシャツで、怖い顔の人」
「ああ……」
 ゲムはカフェでのことを思い出しながら声をあげた。顔は見ていないけれど、その人の特徴をなんとなく思い出したようだ。
 たとえ目が悪くても、あれほどの背の高さであればさすがに目に付くだろう。
「あんたたちって電信柱と背の低い道路標識みたいだね」
「トンがあんなに背が高くなってるなんて思わなかった」
 チョンラティーは乱れた呼吸を整えようと深呼吸しながら、繋いでいるゲムの小さな手を掴んで、自分の胸に押し当てた。
 心臓がまるでライフルを連射でもしているかのように激しく脈打っている。
「あたしの心臓の動きがやばい」
「だからあんたは逃げたの?」
「違う。走ったのは、トンにこの姿を見られたくなかったから。頭にマイメロディ付けてるし、服装も少しあざといもん。トンに見つかっちゃったかな? もし見られてたら、次会う時にどんな顔をすればいいかわからない」
「ゲイだとバレるのをどうして怖がるの?」
「トンが引っ越す前は、あたしはまだゲイじゃなかったでしょう。男が好きだと自覚したのは彼が引っ越してからのことだし」
「あんたが変わったと知られたくなくて、彼に顔向けできないと思ってるわけ?」
「うん、まあそんな感じ」
「それでどうするつもりなの? 彼はもう帰ってきたんだよ」
「最初に決めた通り、髪を切りに行くよ。男性的な短い髪にして、男性的な印象になる服も買って、家に帰る前に着替える。一緒に服を選んでよ、ゲム。着替えも必要だから何着か買おう」
「いいよ。でも少し休ませて。さんざん引きずり回されたんだから」
「あたしも死にそう……まだ息が苦しい」
 ふたりは目を合わせ、親友同士らしく同じタイミングで大きなため息をついた。
 トンに見せるために、男らしいチョンラティーに変身しなくては。

 

 フォルクスワーゲン ニュービートルは、高級車ばかり並んでいるガレージの中に静かに収まった。
 チョンラティーは自分の家がかなり裕福であることを知っていた。自分たちの一族は県内でいわゆる権力者の側にいる。そのこともあって、家もかなり大きい。
 しかし今日ほどこの家を大きく感じたことはない。というよりも、自分の体がどんどん縮んでしまったように感じていた。それはもしかしたら家の前にある車が停まっていたからかもしれない。
 ……そう、これはトンの車だ。先ほど母から、トンが我が家に手土産持参で訪ねてきたとラインがあったのだ。母はそのまま夕食に誘ったそうだ。
 自分の家に忍び足で入るだなんて、誰かに見られたらおかしな光景に見えるだろう。客間からときどき漏れてくる話し声を聞くと、自分でもとてもドキドキしているとわかった。
 チョンラティーは壁に貼りついて、しばらくじっとしていた。まだ中に入る勇気がない。
 自分に馴染んでいない服装をもう一度確かめてみた。今回もまたオーバーサイズの服だけど、今まで着ていた明るい色合いからグレー、黒、白のモノトーンのシンプルな色合いに変えた。上着と同じ色の黒い長ズボンに短く切り揃えられた髪と合わせると、自分でもとても見栄えがいいと思ったし、元々着ていた服よりは少し男性的になって礼儀正しそうに見える。ただ、どれだけ頑張っても可愛らしいイメージからは逃れられないのだけれど。
 チョンラティーは深呼吸をして心を落ち着けた。
「チョン……帰ってきたならおいで。そこで何をこそこそしているの?」
 聞き慣れた声に呼ばれ、チョンラティーは顔をしかめた。
 母さんはなぜそんなに急いで呼ぶんだ? まだ心の準備ができていないのに。
 緊張のあまり、手が冷たくなってきた。それでも変に思われたくないので、返事をしてリビングに入った。
「はい」
 勢いよくリビングへ入ったはいいけれど、トンと目を合わせるのが怖くて、気づけばチョンラティーは自分の足元を見つめていた。
「これがチョンラティー? ずいぶん大きくなったな。昔の姿が思い出せないぐらいだ。でもおばさんに似て小柄だね」
「ああ……こんにちは、トン」
 ソファーに座っている長身のトンに向かって手を合わせて礼をしている間に、頭のてっぺんからつま先までをくまなく見られているのを感じた。トンの低音ボイスに胸がぎゅっと詰まったけれど、我に返ったチョンラティーは、ようやくそこでハッキリと彼の姿を見ることができた。
 ついさっき偶然ショッピングモールで見かけて逃げてしまったばかりだけれど。チョンラティーはどうかトンがピンクのTシャツの小柄な子を思い出さないようにと願う。
「あまりご飯を食べないから大きくなれなかったのかもね。トンはこの子のことを覚えている? 子供の時はいつも後ろにくっついて歩いていたでしょ?」
「子供のころの顔はよく覚えています。でも今は……外で会ったらたぶん気がつかないかもしれないな」
 そう言ってトンはチョンラティーに笑いかけたが、その笑顔は少し無理をしているように見えた。きっと彼は失恋したばかりだから、陽気に笑ってなんていられないのだろう。
「この子可愛いでしょ? あげるわよ」
「はい?」
「ちょっ、母さん!」
 チョンラティーはその場で動けなくなってしまった。言葉の真意を問いただそうとしてメガネ越しに母親のことをにらみつける。
(あげるって? 何をあげるの?)
「言い忘れていたけれど、チョンはトンと同じ大学に入るの。この子の面倒を頼むわね。あと一か月もしたら新学期なのに、この子ったらまだ寮を決めてないのよ。トンの寮に空いている部屋はない? あなたと同じ寮に住んでくれたら離れていても私も安心なんだけど。私たちずっと二人暮らしだったでしょ。この子が一人暮らしをするのは心配で……」
(さすが、母さん。お願い、トンの近くにいられるようにうまく協力して!)
「空き部屋があるかはわかりませんが、母がチョンを僕と同じ部屋に住まわせてみたらどうかと言っていました。部屋が広いから一学期の間ぐらい僕と部屋をシェアしたらいいんじゃないかと。母はいつも自分勝手にいろんなことを決めてしまう性格なんですよ。もしチョンが僕と一緒に住んだら窮屈じゃないかな?」
(ターイおばさん、最高だよ。愛してる!)
「窮屈じゃないです!」
 思わず大声で答えてしまっていた。ターイおばさんまでもが僕をトンと同居させようとしているのを聞いてしまっては、湧き上がる高揚感を抑えられそうになかった。
「とってもありがたいです。僕も一人暮らしはとても不安だったので」
「それなら、そういうことでいいかしら。チョンは一学期の間はトンと一緒に住んで、慣れてきたらまた考えればいいわ。それよりお腹はいた? お手伝いさんが何を作っているか見てくるから、あなたたちは話をしてなさいな。食事の支度ができたら、人に呼びに来させるから」
「はい」
 何年も会うことのなかった片思いの相手に会って、まだ興奮が抑えられない。そんなチョンラティーのすぐ側に母がやってくると、近くにいるトンに聞かれないようにそっとささやいた。
「私とターイが道を作ってあげたんだから頑張ってね。男、チョンラティー。絶対に逃がしちゃダメよ」
「なあ、チョン。おまえと会うのは久しぶりだけど、どうして背があまり伸びてないんだ?」
「……ああ。トンの背が高過ぎるんじゃないの?」
 ふたりきりになった部屋の中で、すぐ目の前にトンが立っていた。こうして向かい合っているだけで息が止まりそうになるというのに、何の前触れもなくトンはチョンラティーの頭に手を載せ、背の高さを確かめてきたのだ。
 こんなに至近距離まで接近されたら気絶してしまう……。
 しかも、ふたりきりになった途端、トンは自分のことを「俺」と言ったので、その言い方にさらにワイルドな男っぽさを感じてしまった。
(もっと好きになっちゃうじゃん……)
「べつに高過ぎるってことはない。俺の友達はみんな俺ぐらい身長があるし。俺の彼女だっておまえよりは背が高い……いや、違った。もう元カノだ」
 元カノの話をした途端、トンの顔が悲しそうに歪{ゆが}んだことに気がついた。やはりまだ別れたばかりだから、フリーの立場に慣れていないようだ。
 チョンラティーが今すべきことは、浮かれた自分の気持ちを鎮めて話題を変えることだった。
「ここまで運転してきて疲れてない?」
「少しな。ナーンから長距離を運転してきて、まっすぐここに来た。友達とナーンに遊びに行ったんだ」
「僕はナーンに行ったことないな」
 チョンラティーはひと呼吸おいて話を続けた。
「最初、母さんからトンは二、三日後に帰ってくると聞いてたから、もう家に帰ってきたと母さんからラインが来た時はちょっとびっくりしたよ」
 本当はちょっとなんてものではない。それこそ幽霊でも見たのかというぐらいの衝撃だったという方が正しい。
「俺はどこに行けばいいかわからないから、この家で心を癒やすことにしたんだ。海とか自然のあるところに行けば気も晴れるはずだからな」
「うん」
「俺と同室で本当に居心地悪くないんだな?」
「大丈夫だよ」
「きつかったら言えよ。俺は他人と同居する生活に慣れている。変わり者の友人とも一緒に住めたぐらいだからな。それにしても、おまえの家はかなり変わったな。何年も帰ってきてなかったから驚いた」
「うん。本当に何年も会ってなかったね。ターイおばさんが母さんを訪ねてくるばかりで。なんでトンとおじさんは来ないんだろうって毎回思ってた」
「学校の長期休暇になるといつも、親父に海外に連れて行かれてたんだ。でもこの休みは心を癒やすために来た。失恋したからな」
「そのうちにきっと気分もよくなるよ」
「明日から毎日、子供のころみたいに俺の家に話をしに来いよ。そうすればあいつのことを思い出さずに済む」
「ここにはあまりカオ(彼女)がないんだよ。あるのは川とチョンラティーだけ」
 そう口にすると、楽しそうにトンが笑った。せっかく散髪してセットした髪の毛が、彼の大きな手によってぐちゃぐちゃにかき回された。
「ぐちゃぐちゃだ。髪を切ったばかりなのに」
「だっておまえがおかしいから」
「僕の何がおかしいの?」
「気にするな。まあ、いいってことだ」
 トンはさんざんチョンラティーの髪をかき回した後で、今度は優しく頭をでた。
 楽しそうな笑みを浮かべる彼の口元で、並びのきれいな白い歯がひときわ輝いて見えた。
(ああ……もう、ダメだよ、ダーリン……。こんな風に優しく髪を撫でられて笑いかけられたりしたら、もう……ダメだって……)


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