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【冒頭2万字大公開】大人気タイBLドラマは原作もすごいぞ…!『Lovely Writer』

2021年のU-NEXTタイドラマ視聴者数No.1、あの大人気ドラマ『Lovely Writer The Series』の原作小説が日本語訳で登場!
別ジャンルを書きたいのにBLでヒットしてしまった小説家と、現役大学生の超絶イケメン俳優。逃げ腰の小説家にぐいぐい迫る年下俳優という物語の面白さは勿論のこと。
〝カップル営業〟といわれる、ドラマの外でも主演カップルが仲の良い姿を見せてファンサービスすることもあるタイBLドラマ界の制作関係者同士の恋愛と葛藤を描いた(そしてドラマにもした)作品でもあります。

今回は主人公二人が出会う、ドラマでも印象深いシーンまでをドーンとご紹介。ぜひご覧ください。

装画:KAMUI 710 装丁:コガモデザイン

■著者紹介

Wankling(ワーンクリン)
BL作家。女性。大学では日本語を専攻。学生時代から小説の執筆を始める。家にこもって過ごすこととゲームをすることが好き。これまで発表した作品に『ハニーミニスカート』『14日間の夏休み』などがある。最新作は『Apple Cider M.:匂いだけ』。本書が初の邦訳作品となる。

■訳者紹介

宇戸 優美子(うど・ゆみこ)
1989年バンコク生まれ。明治学院大学ほか非常勤講師。著書に『しっかり学ぶ!タイ語入門』(大学書林)、編訳書に『シーダーオルアン短編集 一粒のガラス』(大同生命国際文化基金)、訳書にPatrick Rangsimant『My Ride, I Love You』(KADOKAWA)がある。

■あらすじ

出版社の編集長に頼まれて書いたBL小説がヒットして、ドラマ化することになった小説家のジーン。渋々出席したキャストオーディション会場で、ジーンはなぜかナップシップという若手人気俳優から目が離せなくなってしまう。ナップシップはその圧倒的な魅力で審査スタッフも魅了し、満場一致で攻め役に合格。その後、撮影関連の現場でナップシップのマネージャーになっていた大学時代の友人タムと再会し喜んだのも束の間。ある日突然タムから「しばらくお前のところでナップシップを泊めてくれ」と頼まれた。断り切れなかったジーンは〝一カ月間だけ〟ナップシップと暮らすことになって――!?


■本文


 カウント 0
 
〝物語はここから始まった……〟
 僕はいつも使っているMacBookのキーボードの上で指を動かしていた。しかし車のエンジン音が近づいてくるのが聞こえたとき、その指を一瞬とめた。このあたりはかなりかんせいな場所で、すこしでも音がすると、耳をそばだてなくてもそれが聞こえた。
 窓際の円形のハイテーブルのところに座っていた僕は、無意識に顔を引きつらせながら、その車が通り過ぎていってくれることを願った。
 なんとかもう一度精神を集中させ、目の前のキーボードに向かおうとした。そのとき……。
 
 ピンポーン。
 
 どうやら今日はあまりついていないらしい。
 僕は一度手のひらを開いてから、握り込んだ。そして握ったこぶしをまた開く。顔を上げ、首をうしろにそらし、不機嫌なまま目を閉じた。いらちを感じながらも、その感情をどこにぶつければいいのかわからず両手で自分の頰をぴしゃりと叩いた。
「ジーン先生!」
「…………」
「ジーンノン先生! いるんでしょ。開けてくださいよ!」
 あの、クソやろう。
 僕は大きなため息をつき、めがねを外して椅子から降りた。
 僕はまっすぐ玄関まで歩いていって、いくつも取りつけられている鍵を一つずつ開け、最後にドアチェーンを外した。
 重厚な木製の玄関ドアを開けると、そこには朝から僕の邪魔をしにきた、かなり背の低い小柄な人物が立っていた。
「ヒン、おまえな……」
「ジーン先生、おはようございます」
「なにしにきたんだよ。今週いっぱいはそのアホ面を見せにくるなって言っただろ」
 文句を言われたヒンは、にこにこしながら手を合わせた。
「すみませんって。でも、ほんとに急用なんですよ」
「俺の原稿より大事な急用がどこにあるんだよ。今回の原稿、五カ月で上げろって、おまえが言ったんだろ。昨日やっと下調べが終わって、ちょうど書き始めようとしてたところだったのに」
「もう、そんなに怒んないでくださいよ。ほんとに大事な急用なんです」
「…………」
「ほんとです。誓います」
「噓だったら、ナイフで刺してやるからな」
「もう、ほんとですってば。でも人によって見方は変わるものですからね。僕にとっては急用ってことです」
 僕は二本の指を立てて、目の前にいるこいつのキョロキョロした目を突いてやりたくなった。
 だが結局、僕の原稿に関する用事で来たのだろうと思い、仕方なくヒンを家の中に入れることにした。
 ヒンは僕の気が変わってしまうのを恐れたのか、僕のあとについてサッと中に入り、ドアを閉めながらすばやく靴を脱いでいる。
 僕はリビングのソファにどさっと腰を下ろした。目の前のローテーブルは、山のように積み重ねられた本と、鉛筆やボールペンで文字が書かれた紙に埋もれてカオスな状態になっていた。そこにはぐしゃぐしゃに丸められた紙や破かれた紙、さらにパンくずの残った皿やコーヒーの汚れがついたカップまで一緒になっている。
 僕は手を伸ばしてそのコーヒーカップを持ち上げた。
「コーヒー」
「いつものラテですね」
 奴はそう言うと、ローテーブルの上にあった食器類をすべてキッチンのシンクに運んでいった。
 僕はその背中をしばらくながめてから、目の前の乱雑に散らかったものの山に視線を戻した。
 それは僕が深夜までここに座って格闘していた証だ。作業が一段落し、ようやく休むことができたのは、たしか夜の三時を過ぎてから。目覚まし時計でふたたび目を覚ましたのが朝の九時で、それから食べものをすこし口に入れ、そしてノートパソコンを開いて仕事に取りかかろうとしていたところにヒンが現れたのだ。
 僕の仕事は〝小説を書くこと〟だ。
 そう、小説家である。
 三、四年ほど前に大学を卒業したあと、僕は自分の専攻に合った企業にたくさん応募書類を出していた。けれど就職活動を進めるうちに、自分は毎日同じことをルーティーンでやらされたり、規則に縛られたり、枠にはめられたりするのが苦手なタイプの人間だと気づいた。それで僕は、もっと自分に合った仕事を探すことにした。
 そのころ、フリーランスという働き方が人気になりつつあった。締め切りさえ守れば、いつどこで仕事をしてもいいし、何時に寝てもいい。そこで僕はまず、フリーランスとしてグラフィック関係の会社にもぐり込むことにした。
 そこでの仕事は退屈ではなかったが、あまり安定しなかった。なんとか働き方と収入のバランスを取ろうと模索したが、どうにもうまくいかなかった。
 そんなあるとき、食事中のひまつぶしにSF映画を見たあとで、僕はふと、自分にもなにか面白い話がつくれないだろうかと思った。
 実際、僕は映画を観るのが好きで、ありとあらゆるジャンルの映画を観ていた。とくにエイリアンやモンスターが人間を食べるといったジャンルの映画は、大ヒット作から信じられないレベルのB級作品までカバーしているほどだ。
 そんなわけで、試しにSF風のファンタジー小説を書いて有名なウェブサイトにアップしてみたところ、驚くほどの高評価がついた。読者の大半はラブコメ小説を好む傾向があったにもかかわらずだ。
 僕はそのときに、キーボードを打って頭の中にあるイメージを文章にするのが楽しいことに気づいた。そしてそれが、フリーランスや一般的な会社員のように背中を丸めながら働くよりも、ストレスがすくないということにも気づいてしまった。
 そんなわけで、社会人二年目にはそれまでの仕事を辞め、僕は専業作家としてやっていくことにした。
 二十五、六歳と年を重ねたいま、あとさき考えずに仕事を辞めた当時のことを振り返ると、僕は自分自身に説教をかましてやりたくなる。
 僕はなぜあんなに自信満々でいられたのか。作家になっても、まったく本が売れずに生き残ることができなければ、僕はえ死にしていてもおかしくなかったはずだ。けれど頭の中にいるもう一人の僕が、いつも自分を正当化していた。「おまえは運がいいから大丈夫。飢え死にしたりはしないさ。実際、小説は売れてるんだから!」と。
 結局、僕はそれ以来、ファンタジー小説とホラー小説を交互に書き続けていた。
 僕の人生はハッピーなものになった。だが……ハッピーだったのはわずか二年間だけ。
 いまから五カ月前、突然編集長から電話があり、そこで長話を聞かされた。
 長々とした前置きのあとで、編集長はブックフェアのためにいつもと違うジャンルの原稿を書いてほしいと言ってきたのだ。ブックフェアはもうすぐなのにいい原稿が一つもなくて困ってる、ジーンならきっと書ける、うちの上司も賛成してるからと言われた。
 それは要するに……僕にBLボーイズラブ小説を書いてほしいという話だった。


「ジーン先生、コーヒー入りましたよ」
 目の前に差し出されたコーヒーカップを見て、僕は我に返った。手を伸ばしてそれを受け取り、カップのふちに口をつけながら「ありがとう」と言った。
「原稿中にお邪魔して、すみません」
「ああ」
「実は、『バッドエンジニア』のキャスティングの件なんですけど……」
「…………」
 僕は思わずコーヒーをこぼしそうになったが、カップの取っ手をつかみ直し、なんとかこらえた。
「ほら、先生の最初のBL小説ですよ。『バッドエンジニア』」
「バカ。自分の小説のタイトルくらい覚えてるよ。何回も言うな」
 そう言うと、奴は笑った。僕をリラックスさせるためにわざとふざけているのだろうと思ったが、いまの僕には逆効果でしかない。
「すみませんって。とにかく、先生の作品の登場人物たちのオーディション、無事に一次選考が終わりましたよ」
「…………」
 僕はぶすっとしたまま、なにも言わずにただ眉をひそめた。
 編集長からBL小説を書いてほしいと頼まれたときのことに話を戻そう……。
 編集長は僕に、最近はBL小説が非常に人気なのだと力説した。僕が籍を置いている出版社はファンタジーやホラー、ラブロマンス、ライトノベル、そして中国語や英語からの翻訳小説を含め、幅広いジャンルの本を出版していた。だから、BLをあつかう部門があると言われても、なにも不思議ではなかった。
 とはいえ……正直なところ、なんでBL小説を読んだことすらない普通の男にそんな話を持ってくるんだ、といぶかしまずにはいられなかった。
 僕だって最初は抵抗した。絶対に無理、絶対にありえない、それが僕の答えです、と伝えた。
 そのときの僕はまだひよっこだったけれど、自分の小説は売れているのだから断る権利くらいあるはずだと思っていた。だが出版社というのは、僕だけと仕事をしているわけではない。もし次の原稿を受け取ってもらえなければ、困るのはむしろ僕の方だ。それで僕は結局白旗を上げ、編集長の頼みを引き受けることにした。
 編集部のプロジェクトとしてブックフェアの企画を進めていたが、適切な作家を見つけられていないと編集長はしきりにぼやいていたし、いつも世話になっている編集長の頼みをに断るのはしのびなかった。
 僕の小説の文章をとくに気に入ってくれていたらしい編集長は、プロット案を送ってきて、それを元に書いてみてほしいと言ってきた。さらには研究用のBL小説とマンガのセットまで送りつけてきた。その中には、タイだけでなく海外の作品も含まれていた。
 ここまで整えられてしまったら、もう逃げられない。
 念のため断っておくと、僕は別に、それらの本で読んだ男性同士の関係を毛嫌いしていたわけではない。恋愛小説の一種で、一つのジャンルだと思っていた。そしてそれは、いままでそのジャンルを読んだことのない僕のような作家に、新たな視点を与えてくれるものでもあった。
 とはいえ、読むことは楽しめてもそれを書けと言われると……自分にはとてもできそうになく、あまりにも未知の領域だと感じていた。
 だが、結果はこれだ。僕は他の原稿をいったん休み、編集長の依頼どおりにBL小説を書き始めることになった。四章まで書き終えたところで、僕はクールな感じのタイトルをつけてその原稿を送った。しかし返信のメールには、タイトルを『バッドエンジニア』に変えると書かれていた。
 僕の考えていたタイトルとは全然雰囲気が違っていた。
 にもかかわらず……なぜかその作品は人気を博し、ドラマ化されることになったのだ。編集長は大喜びで、僕が受け取る報酬もおのずと増えた。
 そして、BL小説でのペンネームの方が有名になった結果、僕はそのジャンルで書き続けなければならなくなったのである。
「先生、 ねないでくださいよ。またふくれっ面になってますよ」
「ふくれっ面はおまえの方だろ」
 僕は嫌味っぽく言ってから、コーヒーカップとソーサーをわざと大きな音を立てて置いた。
「それで? オーディションの一次選考が終わってどうしたんだ」
「二次選考は先生にも参加してほしいって、編集長が言ってました」
「選考はそっちに任せるよ」
 僕はすぐにそう返した。
「ちょっと! そんなのダメですよ」
「なんでダメなんだよ」
「僕は先生のために言ってるんです。先生も意見を言えるチャンスなんですよ。登場人物たちのキャラクターを一番わかってるのは、作者なんですから」
「別にキャスティングはだれがやったっていいだろ。おまえが読者から適当にだれか選んで、その人にでも決めてもらえば」
「バカなこと言わないでください。先生よりよく理解してる人がどこにいるんですか」
「おまえなら理解してるだろ」
『バッドエンジニア』は、大学で工学を勉強している気性が荒くてしっ深い青年が攻めで、繊細でかわいらしい後輩が受けという設定だった。最初のページを五行読んだだけでわかる話だ。
「とにかく、ジーン先生も行くべきですよ」
「頼むから面倒な話を持ってくるなよ。俺がいま新しい原稿で忙しいの、わかるだろ」
「編集長が、そっちはすこし休んでからでいいからって言ってました」
 僕は目をつり上げた。
「おまえ、先週はできるかぎり急いで書き始めてくださいって言わなかったか」
「こういうのは、状況が変わりやすいんですよ」
「コロコロ言うこと変えやがって、クソったれ!」
「先生、編集長の悪口言っていいんですか?」
「口がすべっただけだ」
「二次選考はあさって、場所はWKエンターテインメントビルです。階数と部屋番号は今晩ラインしますね」
「…………」
「そうだ! 一次選考を通過した候補者たちの写真と経歴書、持ってきました」
 そう言うと、ヒンは束になった書類を僕が散らかした紙の山の上に重ねて置いた。
「キャリアのある人もちゃんと入ってますよ。詳しく書いてありますから、ひまなときに読んでおいてくださいね。もし気に入った人がいれば、当日その人にとくに注目するよう、スタッフに言っておきますから」
「ああ、わかった」
僕はそう言って手を振った。
「じゃあ、そういうことで。もう先生の原稿のお邪魔はしませんから」
「あのな……、今日これからまた書く気分になると思うか?」
「ひひひ。じゃあ、またラインします。お邪魔しました~」
 そう言ってヒンは気色悪い声で笑いながら、玄関のドアを開けて出ていった。それから車の音がすこしずつ遠くなっていき、数分後、あたりはふたたびせいじゃくに包まれた。
 僕はまた大きなため息をついた。コーヒーを飲み干し、そのカップをキッチンのシンクに持っていったついでに、疲労感をぬぐおうと蛇口をひねって両手を水で濡らし、その手で顔をでた。
 まだ正午にもなっていないのに、僕の体力は半分以下になっていた。
 ヒンが置いていった書類を見る気も起きない。
 キッチンの勝手口までのろのろと歩いていき、小さなドアを開けて外に出た。そこには見渡すかぎりの草原が広がっていた。地平線の端を飾っているのは、そう広くない小さな果樹園だ。郊外であるこのあたりの空気は、どこまでも澄んでいた。
 僕はエネルギーをすこしでも取り戻そうと、深く息を吸い込んだ。
 だが、取り戻せたエネルギーはほんとうにすこしだけだった。



カウント 1

 郊外にあるこの家は、実際のところ僕のものではない。
 ほんとうの所有者は僕の父方の祖父で、晩年にそこに移住してゆっくり過ごすつもりで購入した物件だった。
 静かでおちついた場所にある小さな家を求めていた祖父が買ったこの家は、西洋の湖水地方にあるようなコテージ風だった。しかしそれほど長く使わないうちに、祖父は亡くなり、その家はずっと放置されていた。
 僕が仕事を辞めて小説を書き始めるようになってから、自分の集中力を高めるための自然環境を求めるようになり、この家の鍵を実家から借りてきたのだ。
 もともと、僕は住む場所にこだわるようなタイプではない。自分のコンドミニアムの部屋で執筆作業をしていても、とくに問題はなかった。ただ、ときおりだれにも邪魔をされずに気分転換したいと思ったとき、車を走らせて、この家に来ることにしていた。
 今回はもう一週間ほどここに泊まっている。編集長が設定した締め切りに間に合わせるために、新作のBL小説の原稿に取りかかるつもりだったのだ。
 ところが、まだ最初の一歩も踏み出していない段階で、僕の小説を原作にしたドラマのオーディション――この前ヒンが伝えにきた話――のせいで、僕は荷物をまとめて、車を運転して自分のコンドミニアムに帰らざるを得なくなってしまった。そしてどうやら、すぐには戻ってこられそうにないようだ。
 郊外の家の静けさに思いをせながら、僕はフロントガラス越しに道路の前方をぼんやりとながめていた。いま僕がいるのは、首都の喧噪けんそうの中だ。うしろにも数十台の車が並んでいる状況に、僕はため息をつかずにはいられない。
 この交差点の青信号、二十秒もないだろ……。
 ♪~ 
 車のコンソール部分に置いていたスマホが着信音とともにふるえ、僕は思わずびくっとした。スマホに手を伸ばして確認すると、画面にはヒンの名前が大きく表示されていた。
「おまえ、何回かけてくるんだよ」
「先生、いまどこですか!」
 だからまだ……という言葉を言い終わらないうちに、ヒンはうめくような叫び声を上げた。その声のあまりの大きさにスマホを耳から離し、眉間みけんしわを寄せた。
「大声出すなって。いま、会社のビルの近くの四つ角だよ」
「もー! 先生、三十分前もそこにいたじゃないですか。いつになったら着くんですか」
「仕方ないだろ、渋滞なんだから。信号が青になっても、四、五台進んでまたすぐ赤になるんだよ。それをもう三回もやってる」
「先生、もう歩いてきたらどうですか」
「バカ言うな。渋滞だって言っただろ。ウインカー出して車を停められる場所がどこにあるんだよ」
「もー」
 ヒンはふたたびうめき声を出した。
「受け役の俳優のオーディションはもうすぐ終わっちゃいますよ」
「この前も言ったけど、キャスティングはそっちで決めてくれればいいって。俺は別に俳優にこだわりはないから。それに、監督やテレビ関係者の方が、俺より見る目があるだろ」
 僕はそっけない返事をした。そして車が動き始めたのを見ると、ブルートゥースをオンにして、ワイヤレスイヤホンに切り替えた。「よし、あと五分で着く。交差点を抜けたから、もうすこしでビルに入るよ」
「了解です。先生、着いたら守衛に名前を言ってください。駐車スペースを取っておくように伝えておきます」
「ああ、ありがとう」
「先生が来る前に、受け役のオーディションはたぶん終わると思います。そのあと十五分の休憩があって、それから攻め役のオーディションです。先生はそのタイミングで入りましょう。先生はあとから来るって、スタッフには言ってありますから」
「わかった」
「それじゃあ、のちほど。エレベーターの前でお待ちしてますね」        
 奴はそう言ってから電話を切った。
 僕は別に、遅刻してしまったことに対して開き直るつもりはない。自分の作品に関わることだということもあり、僕はヒンにどの時間帯に行けば都合がいいかをいていた。
 それでも正直なところ、僕はまだBL小説を書いている男として他人の前に出ていかなければいけないことに対する、恥ずかしさがぬぐえないのだ。そういう状況に慣れるまでには、まだしばらく時間がかかるだろうと思う。
 僕はややずり落ちていためがねを押し上げてから、入り口の前で手を振りながら立っている守衛に知らせるために、パワーウィンドウを開けた。僕が名乗ると、守衛はもう一人を呼んで、僕の車を駐車スペースへと誘導してくれた。
 タイの気候が一年中暑いというのは、それはもう変わらない事実だ。すこしでも早く暑さから逃れたかった僕は、車から降りるとすぐにビルの中へ入った。受付に場所を訊くと、相手は笑顔と丁寧な所作でエレベーターの方に手を差し向け、オーディションが行われているフロアの階数を教えてくれた。
 WKエンターテインメントは、エンタメ業界でも指折りの大企業だ。自社のチャンネルを持っていて、ドラマや映画の製作を行っている。その自社ビルは高くて大きく、広々とした建物だった。自動ドアを通って中に入ると、冷たい空気が肌をで、巨大な花瓶に生けられた百合ゆりの香りが鼻をくすぐる。ロビーのまんなかには、まぶしいほどキラキラと輝く大きなシャンデリアがあった。
 小説家がこんな大企業と仕事をできるなんて、とうらやむ人もいるかもしれない。だが僕の緊張はいやが応でも高まってしまう。
 エレベーターの階数表示をながめながら、そわそわせずにはいられなかった。足を揺らしたり、指先で体をトントン叩いたりして気を紛らわそうとする。そうこうするうちにようやくポーンという音がして、エレベーターのドアが開いた。そこで最初に僕の目に入ったのは、編集アシスタントのヒンだ。奴は壁にもたれながらスマホを触っていた。
「ジーン先生! よかった、やっと来てくれて」
「ああ」
「なんで今日はコンタクトじゃないんですか」
「おまえがかすからだろ」
「急かすに決まってるじゃないですか。先生も原作作家として責任感を持ってもらわないと。いいですね?」
 奴は心底憎たらしい口調でそう言ってから、腕時計に視線を落とした。
「でも先生、ちょうど休憩時間に間に合ってよかったです。あと十分で攻め役のオーディションが始まります。こっちです、急いで。ほかの人たちはまだ部屋にいると思います」
 そう言うと奴は僕の先に立って歩き、一方の廊下を進んでいった。
 歩きながら、僕は注意深く左右を観察した。この階も下のロビーに引けを取らないくらい豪華な装飾だ。廊下にはふかふかの赤いじゅうたんが敷き詰められ、各部屋の前には、わかりやすいようにルームプレートが設置されていた。僕はガラスドア越しに中が見える部屋に視線を向けた。そこには男性ばかりがいて、彼らは全員座っていた。
 おそらく彼らが、このドラマのオーディションに来た人たちなのだろう。
『バッドエンジニア』はかなり人気が出ていたので、ドラマ化が発表されたとき、そのニュースは瞬く間に拡散された。ハッシュタグがついたツイートが、一日で普段の十倍以上のペースで増えていった。そのあと、だれがキャスティングされるのかについてのニュースが高い関心を集めたのも不思議ではなかった。
「ジーン先生、候補者の経歴読んできました?」
 ヒンの声が僕の意識を呼び戻した。
「ぱらぱらっと見た」
 ヒンは手で額を叩き、ぶつぶつ言った。
「ちゃんと読んでって言ったのに……」
「文句言うなよ。新しい小説書いてる最中なんだから仕方ないだろ」
「それはいったん置いといていいって、編集長が言ってたって伝えたじゃないですか」
「資料集めは終わったんだ。急いでやらないで、やる気がどっか行ったらどうするんだよ。おまえ、責任取れるのかよ」
「はいはい、わかりましたよ」
 ヒンは口ではそう言ったが、すこしも心がこもっていなかった。奴は僕の背中を押して、僕をとある部屋の前に立たせた。そしてノックしてから、ドアを開けて中に入っていく。
 僕はその場に立ったままだった。その部屋は広々としていた。
 僕が最初に感じたのは、コーヒーのいい香りだった。部屋の壁と床は真っ白で、清潔感がある。正面の窓はブラインドが下ろされていて、その近くには四人が座れる会議用の長机が置かれていた。それ以外、ほかに家具はない。
 その長机のところにすでに座っている人たちがいて、コーヒーを飲みながら談笑しているようだった。
「おお、ヒンくん。おつかれ」
「おつかれさまです」
「コーヒーどう?」
 別のだれかがカップを持ち上げながらヒンに声をかけた。
 オーディション開始からたった三時間で、どうしたらこんなに彼らと親しくなれるんだ……。
「いえ、大丈夫です。それより、こちらがこの作品の原作者のジーン先生です。ジーン先生もちょうど用事が終わったところで、オーディションに参加してもらえることになりました」
 ヒンはそう言って横に移動し、手を広げて僕を紹介した。
 そう言われた僕は、不満たっぷりにヒンをにらみつけた。
 いったいなんの用事がちょうど終わったって? おまえがしつこく電話してきただけだろうが。
「おおっ……」
 彼らの中から感嘆の声が上がった。その中の一人の男性が立ち上がって、僕の方へと近づいてきた。その人はかなり背が高く、唇の上に口ひげをたくわえていた。外見からすると三十代前半くらいに見える。
 彼がほほえんだので、僕もしゃくをしつつワイ――挨拶の合掌――をした。
「原作者の方が男性だとは、思ってもみませんでした」
「...…そうですか」
「僕はマイと言います。このドラマの監督を務めます。僕のことは好きなように呼んでください」
 彼は親しげにそう言って笑った。
「どうぞよろしくお願いします。中国ジーンっていう名前なのに、目が大きくて、全然中国人っぽくないですね」
 ……冗談だよな?
 僕はなんとか口角を上げながら答えた。
「中国という意味じゃありませんよ。僕の名前のつづりは、G-E-N-Eです」
「GENE? 染色体かなにかですか?」
 もうこの失礼な監督を刺してもいいだろうか。
「あはは……いやいや、ギリシャ語から来てる言葉なんです。いいものが生まれる場所、という意味です」
「ふふっ。冗談ですよ、冗談」
 彼は手を伸ばして僕の肩を数回叩いてきたが、一発一発がかなり痛かった。それから彼は僕の肩に腕をまわして、ほかの人が座っている長机の方へと僕を連れていった。
「今日はちょうどひまだったんです。だから一次審査に通過した子たちを見てみようと思って、助監督についてきたんですよ」
 監督はそう言った。ヒンの奴がどうして三時間のあいだに彼らと親しくなったのか、僕はわかったような気がした。
 監督は、ほかの関係者に僕を紹介してくれた。その四人のグループの中には女性が二人いて、そのうちの一人が助監督ということだった。四人は俳優をキャスティングするチームで、みんな僕にフレンドリーに接してくれた。女性二人はとくにそうだった。彼女たちは、BL小説を書いている作家が僕、つまり男であると知ると、目を大きく見開いてぜんとした表情を見せた。
 このジャンルを書いている男性作家がまったくいないというわけではない。ただ、その人数がかなりすくないからだろう。
「ほら、ジーン先生に質問ばっかりしてないで。そろそろ始めるよ」
 監督が声をかけた。そのあと別の人が僕のところに書類を持ってきてくれた。
「これがいまから入ってくる俳優のリストです。すでに有名な若手俳優もいますし、新人の大学生もいます。一次選考のときに、すでに私たちの方で顔や身長なんかは選別済みです。今日演技をしてもらう場面の台本は、もう渡してあります。だれが一番キャラクターに合っていそうか、ジーン先生もぜひ考えてくださいね」
「はい、ありがとうございます」
 四人分しか椅子がないのを見かねた監督が手を上げてアシスタントを呼び、僕のための椅子を用意させた。僕は、ふかふかの布張りの椅子に座らせてもらうことになった。ただ、長机の脇にはみ出す ような形になるので、僕はどうしてもすこし目立ってしまう。幸い隣にヒンが立っていてくれたので、まだよかったが……。
 監督の合図に合わせて、スタッフがドアを開けて入ってきた。スタッフは候補者の名前と番号を呼んでから、候補者を一人ずつ部屋の中へ入れた。
 この作品の主役は、工学部で学ぶ大学三年生だ。彼は凶暴で強引で、カッとなりやすく、しっ深いが、恋人のことを心底愛するタイプの人物だった。
 キンという名前のこの攻めは、悪い男というイメージだった。私服のときにはシックな色合いの服かモノトーンの服で、髪を七三分けで固めているような、そんな感じだ。そのイメージのせいか、部屋に入ってくる候補者はみんなそういう感じの服装に身を包んでいた。だが……。
 僕にはそれが、つくり込みすぎているように感じられた。
 彼らはがんばって自分を悪い男に見せようとしていたが、その努力がいきすぎて、むしろ取ってつけたような感じになっていた。七人が終わった段階で、目を引くような人はまだ一人もいなかった。
「逃げても無駄だ…………俺がつけたそのあとが、おまえに思い出させてくれるはずだ。おまえが俺のものだってことをな」
 俳優の声が部屋全体に響き渡る。
 ひー。
 僕は心の中で叫んだ。
 恥ずかしくて死にそうだ……。
 何人見てもとくに目を引かれることはなかったが、それとは別に、僕は彼らの役者魂を尊敬しないわけにはいかなかった。僕が書いた小説の恥ずかしい台詞せりふを、彼らはこんなにも堂々と演じてくれていたのだから。自分がそれをやらされることを想像して、僕はぶるぶると首を横に振った。
「ジーン先生、どうですか」
 ヒンが身をかがめて僕にささやいてきたので、僕は小さなメモの中に書きめた番号を見た。
「五番の人が、まあまあかな」
「僕も同じ人がいいと思いました。その人、人気の若手俳優なんですよ。もしこの作品に出てくれたら、視聴率も上がると思いますよ」
「ふうん」
 手元にあるバインダーの資料にもたしかにそう書いてあったが、僕はそういうことにあまり詳しくなかったので有名なのかどうか、そしてどのくらい有名なのかいまいちわからなかった。
「でも見た感じ、すこしずる賢い印象だったから、むしろタワン役の方が合ってるような気がする」
 タワンというのは、この作品に出てくる受けのことを好きになってしまう人物だ。受けがかわいらしいあまりに、それに興味を持つ人間が出てくるというよくある設定だ。タワンはそんなふうにして攻めのライバルになっていくため、主要な登場人物の一人だった。
「なあんだ」
 ヒンはニヤニヤしながら僕を見る。
「最初は乗り気じゃなかったのに、ちゃんと細かいところまで見てるじゃないですか」
 僕は目を見開いて奴をにらんだ。
「そんなこと言うなら帰るぞ」
「ダメですよ! ね、そんなに怒らないで、先生。ほら、五番にマーカー引いときましょう。それであとで監督に伝えましょう。もう半分以上は終わりましたし……」
「十八番、ナップシップさん。どうぞ」
 ヒンの言葉が終わらないうちに、スタッフが次の候補者を呼び入れる声がしたので、僕らはおしゃべりをやめた。ナップシップ十数えるという名前を聞いただけで、僕はとても興味を引かれた。
 靴音を響かせながら、彼は部屋の中央まで入ってきた。僕の視線が彼をとらえたとき、僕の心はざわついた。
 いろんな感情が一気に押し寄せてくる。それは驚き、興味、好意、そして失望だった。
 目の前にいる背の高い青年は、Tシャツとジーンズという格好で、シルバーのピアスを片耳にだけつけていた。つやのある黒髪で、前髪をすこし上げたヘアスタイルだった。それは、やりすぎでもなく、足りなすぎることもなく、ちょうどいい程度に悪さが出ている。そして彼は顔つきが美しく、ハンサムだった。ありとあらゆるバランスが完璧としか言えない。形のいい唇に高く通った鼻筋、そして頰からあごにかけてのフェイスラインはシャープで美しかった。
 十八番の青年は、一瞬にして僕を幻想の世界へいざなっていった。しかしそのあとで、僕は空から突き落とされたような気持ちになった……。どんなに見た目がよく、格好が完璧だったとしても、彼の雰囲気や態度は、キンにまったく合っていないように感じられたからだ。
 彼は冷たいわけではないが、おとなしくもの静かな印象だった。彼の振る舞いからは、ひかえめできちんとした感じも伝わってくる。それは、役柄とは真逆のものだった。
「ナップシップくんだ、ナップシップくんが来た」
 僕がめがねのレンズ越しに十八番の彼を見ていると、さっきの女性スタッフ二人のキャーという声が聞こえた。
 彼はもともと芸能人なのか……?
 僕は好奇心から、手元にある彼の経歴に目を落とした。
〝ナップシップ・ピピッタパックディー(ニックネーム:シップ) 二十歳 X大学 国際経営学部二年〟
 そしてその下には、アメリカの高校を卒業したことや、そこでいくつかのファッションショーに出たこと、タイに帰国したあともモデル関係の仕事をしていたことなどが書いてあった。
 さらに、インスタグラムとフェイスブックのキャプチャが載せられていた。フォロワーの数を見るかぎり、彼が有名であることがよくわかった。
「俳優の経験はないみたいです。でもネット上ではかなり有名です」
「なるほど」
 ヒンがささやいた言葉に、僕はうなずいた。
「でも演技したことないなら、難しいだろ」
 僕はすこしがっかりした。
 そして十八番の番号札をつけた彼の写真を見て、残念に思いながら、彼を選択肢から外そうと思った。ところが、僕が顔を上げると、長身のその青年が鋭い目でこちらを見つめていた。僕の体は固まった。
 視線が交差する。
 ど……どうしよう。
 僕は瞬きをしてから、礼儀としてほほえんだ。
「…………」
「…………」
 十八番の彼も、それに応えるように優しくほほえんだ。
「ナップシップくん、今日は二次選考です。この前渡しておいた台詞の部分、ちゃんと練習してきてくれたかしら」
 最初に口を開いたのは助監督だった。僕と十八番の彼は、そちらに視線を向けた。
「はい」
 彼は、小さくうなずいた。
 それ以上の笑顔やアピールはなかった。これまでの候補者はできるかぎり自分のよさを伝えようとしていたが、彼は違った。
「じゃあ、準備ができたら、始めてください」
 その言葉のあと、真っ白な部屋の中に沈黙が流れた。
 オーディションのために選ばれたシーンは、攻めが受けを追いかけるシーンだった。前の晩に二人はようやく結ばれたにもかかわらず、翌朝受けが逃げ出したくなり、攻めの住んでいる高級コンドミニアムから出ていってしまう。それを追いかけていった攻めが受けを見つけると、彼を壁際に追い詰めて、強引な態度でおどしながら独占欲をき出しにするというシーンだった。
 そのシーンを書き上げてウェブサイトにアップロードしたとき、最高です、というコメントが返ってきたのを僕は覚えている。ピンクや緑、白や黄色の絵文字とともに、興奮したような感想コメントが次々に書き込まれていった。
 僕は一方の手で頰づえをつき、もう一方の手でペン回しをしていた。十八番の彼にはとくに期待していなかった。
「ここにいたのか。今朝、俺の部屋から出ていくとき、なぜなにも言わなかった」
「…………」
 しかし、長身の青年の喉から最初の台詞が発せられたとたん、ペンを回していた僕の手はとまった。その青年から離れていた僕の視線が、ふたたび彼の方に引き寄せられる。
 彼がまとっていたもの静かな雰囲気は、その瞬間、一気に変わった。
 まるでスイッチが入ったかのようだ。表情も視線も、威圧的なものに変わり、そのすべてが妖艶なものになった。そして低音の声が、それを聞く人の体を硬直させた。
「おまえ、よく走れたな。昨日あんなにやったのに、まだ体力が残ってたのか」
 僕は、目の前の人物の演技に鳥肌が立ち、彼を見つめたまま目をそらすことができなくなった。だが空想の世界の役を演じているはずの彼が、僕を見つめ、僕の方に顔を向け、僕に向かってその台詞を言っていることに気づいたとき、僕はハッとした。
 ちょっと待て。
 僕は心の中でそう抗議した。視線をそらしたかったが、なぜかそれがうまくできない。
 僕は、部屋の中にいるほかの人たちと同じように、その青年に魅了されていた。
 長身の体が一歩、また一歩と、僕の方へゆっくり近づいてきた。攻めが受けを追い詰め、背中が壁にぶつかるまで追い込むシーンをいま目の前で再現されていることに気づいた。
 脚を組んで座ったまま固まっている僕の体まであと数歩のところで、彼は立ち止まった。
 パッ!
「わっ!」
 突然彼が大きな手を伸ばしてきて、驚いた僕は声を発した。彼はわずかに口角を上げた。
「逃げても無駄だ……」
 彼のすらっとした指と手のひらが、僕の喉元に触れた。それからシャツの一方のえりをつかんで、開いた。鎖骨のあたりの一点に指先をわせ、円を描くようにそこを撫でる。彼に触れられた僕の肌は、奇妙なほどに火照ほてった。
「…………」
「俺がつけたその跡が、おまえに思い出させてくれるはずだ。おまえが俺のものだってことをな」
 ほかの候補者たちが声に出したのと同じ台詞のはずなのに、彼の言葉は、それを聞いている人全員をドキドキさせた。
 僕の心も同じだった。それは台詞のせいではなく、ハンサムな顔がこんなにも近くにあるせいに違いない。僕の体に覆いかぶさるようにして、彼はもう一方の手を僕の椅子の肘掛けに置いた。その距離で、僕は彼の熱い吐息を感じた。
「ちょっと、待って……」
「失礼しました」
 彼の低い声がもう一度聞こえて、それから僕に覆いかぶさっていた影が離れていった。その瞬間、二人の鼻先がわずかに触れた。
「えっ?」
 僕は混乱し、口をポカンと開けた。
「どうしてそんなに驚かれてるんですか? 僕の演技にお付き合いいただき、どうもありがとうございました」
「…………」
 僕の体は、イースター島にある石像のように固まったままだった。いま聞こえた彼の声は、さっきと同じ魅力的な低音だったが、とても礼儀正しいものだった。彼がまとっていた強引で威圧的な雰囲気も、すこしずつ薄れていっている。妖艶さだけがまだかすかに残っていた。
 僕は目をぱちくりさせて、そしてなにが起こったのかを理解してから、ようやく体を動かした。
「ああ……うん、演技、すごくうまかったよ」
 これ以上は勘弁してほしいけど。彼の演技がしんに迫りすぎて、僕は思わず息をんでしまった。
「ほんとですか」
 彼は濃い眉をわずかに上げ、それから小さくほほえんだ。
「ありがとうございます……」
 僕もほほえみ返したが、それは苦笑いに近かった。監督とほかのスタッフたちもようやく夢から覚めたように、一斉に拍手をしながら立ち上がった。そして十八番の彼を長机の前に呼び、インタビューのようにいろいろと質問をしていた。
 僕の方は……高鳴る胸を押さえ、それから一人でうなずいた。
 この子はほんとうに素晴らしかった。ぱっと見た感じでは、この役に合わないのではないかと思ったけれど、演技が始まったとたん、まるでスイッチが入ったかのように雰囲気が変わった。予想を超えるような、そして僕の心臓が高鳴るほどのいい演技だった。
「いやあ」
 ずっと黙っていたヒンが、うめくように言った。
「なんだよ」
「さっき、自分も彼の相手役になった想像をしちゃいました。心臓がまだドキドキしてますよ」
 ヒンは手で胸を押さえながら言った。
 僕はうんざりしたように口をへの字に曲げた。
「いまは受け役のオーディションじゃないだろ」
「もう、冗談ですよ。でもさっき、ナップシップが先生を相手役にしたとき、先生だって固まってたじゃないですか」
 からかうような視線でそう言われ、僕の顔は勝手に赤くなった。僕はヒンをにらみつけてから、脚を伸ばして隣に立っている奴のすねを蹴った。
「あとで刺してやるからな」
「はいはい、いつでも刺してくださいよ」
 ヒンは目を大きく開いた。
「それで、結局どうするんです」
「俺はこの十八番に一票」
 僕はかんはつれずにそう言った。
「僕も、ナップシップを推します。監督たちももう決めたみたいですね。まだあと十人以上残ってますけど」
 ヒンがそう言うのを聞いて、僕は監督の方に視線を向けた。一人のスタッフが、十八番の彼を別室へと案内していくのが見えた。それは、審査後に外の部屋で一緒に待機させられているほかの候補者たちとは異なる対応だ。
 そのあと、どことなく心配そうな表情で監督が僕のところに意見を訊きにきた。
 彼の表情からすると、心の中でもう結論は出ているようだった。もし僕が十八番を選ばなかったら、彼は間違いなく不満をあらわにして反論してきただろう。だが僕も十八番がいいと思うと伝えると、彼の顔はすぐ笑顔に変わった。そして僕の肩をポンポンと叩いてから自分の席に戻った。そのあとスタッフに声をかけ、次の人を呼び込むよう指示した。
 もう結果はわかっているのに、全員が終わるまでオーディションを続けるというのは、正直フェアなものではないと思う。だがたとえフェアではなくても、それをこの場で口に出すわけにはいかない空気だった。
 それから三十分後、ようやく候補者全員の審査が終わった。あとのことはキャスティングチームに任せることにして、僕は自分のバインダーを閉じ、それをスタッフに返した。
 ……十八番の彼よりいい人はいなかったな。
「ジーン先生がいらっしゃる前に、僕たちの方で受け役の選考をしました。これが詳細です。なにかご意見はありますか」
 僕は手を振って、資料は必要ないことを伝えた。
「なにもありません。監督にお任せします」
 今日の彼らの判断を見るかぎり、彼らには見る目があるし、十分信頼できると思った。……といってもそれが彼らの仕事なのだから、見る目があるのも当然のことだろう。
「別室の方に、審査前の説明を担当していたスタッフを二名待たせています。ジーン先生、ちょっと一緒に行きましょう。彼らはまだあなたが原作者だって知りませんから。すこしだけ顔を出してやってください。ね、行きましょう」
「あ、いや」
 僕は、自分の肩にまわされそうになった監督の腕を手で押さえた。
「今日はちょっと。また今度にさせてください」
「なにかご予定でも?」
 僕はすこしだけうしろめたさを感じながら、ほほえんだ。
「ええ、すこし。次の原稿を書かないといけないんです」
「そうでしたか、すみません。じゃあ、また次回にしましょう。いろいろ細かいことも、そのときにまたお伝えしますね。二週間後にキャストと細かい打ち合わせをやります。ヒンくんから、ジーン先生もいらっしゃるって聞いてますから、またそのときにお会いしましょう」
「え!? あ、はい...…」
 ……僕が参加するってヒンが言った?
 僕は、黙ったままうしろに立っている奴の方をパッと振り返り、レーザービームのような鋭い視線を向けた。僕の視線など意に介さずヒンは満足げに笑っていた。監督は僕の肩を何度か叩いて笑った。そして互いに挨拶のワイをしたあと、彼は別の待合室の方に入っていった。おそらく選ばれた攻め役と受け役の俳優に詳しい話をするのだろう。さて……。
 僕は手で胸を押さえ、ゆっくり息を吐いた。
「俺はもう帰っていいんだろうな」
「はい……あ、ちょっと待ってください!」
「まだなにかあるのか」
「僕おなか痛いんで、ちょっとトイレに行ってきます。先生、帰りに僕を出版社まで送ってくれませんか。でもその前に、僕うんちしてくるんで、ちょっと待っててください」
「おい、待てこのバカ。俺はおまえの部下か。なんでおまえがクソするのを待って、わざわざ送っていかなきゃいけないんだよ」
「やだなあ、だれも先生が部下だなんて思いませんよ。先生は僕が面倒見ないといけない人なんですから」
「ああ、そうかよ」
 僕は顔をしかめて、小さく鼻を鳴らした。それから払うように手を振って、奴にさっさとトイレにいくよう促した。
 ヒンの奴はヘヘッと笑い、漏らさないように足をぎゅっと閉じた格好で歩いていった。
 僕はやれやれとため息をつき、ヒンが向かった方向に自分も歩いていく。トイレの前にはベンチが置いてあり、その近くにはタイではほとんど見かけない自動販売機があった。
 ざっとながめてから、僕は硬貨を入れ、アイスの甘い缶コーヒーのボタンを押した。それを飲んで気分転換することにした。どうせヒンの奴はしばらくトイレから出てこないだろうから、ここですこし休憩しよう。
 まったく。作家のおり役の編集アシスタントのくせに、こっちがお守りしてる気分になる。あいつは文句なしのダメ編集者だ。
 僕は、トイレに大便をしにいったバカのことを考えながら首を振った。片手に缶コーヒーを持ちながら、もう一方の手の中で自動販売機から戻ってきたおつりの硬貨をくるくる回していた。
 チャリン!
 手がすべって、硬貨が指先から落ちてしまった。
「……!」
 僕はすぐに転がっていく十バーツ硬貨を目で追った。硬貨は絨毯の上を転がっていき、最後にだれかの靴のつま先にぶつかった。硬貨を追いかけて前かがみになっていた僕もそこで足をとめた。
 まるで映画のワンシーンのように、新しい登場人物であるその人の足元から顔へ、僕はゆっくりと視線を上げていく。
「…………」
「…………」
 そこにいたのは、あの十八番の青年だった。
 三歩離れたところに長身の彼が立っていた。彼はゆっくり腰を曲げ、十バーツ硬貨を拾って僕に差し出した。
「どうぞ」
「ああ……ありがとう」
 彼がほほえんだ。まるで高貴な紳士のような雰囲気だ。
「さっきは、ほんとうにありがとうございました」
 そのハンサムなオーラは、あまりにまぶしすぎた。僕は長く直視することができず、視線をそらす。
「ああ、いやいや……」
 もしこれがマンガだったら、ここでキラキラした演出か書き文字の効果音が入ったかもしれない。だが残念ながらマンガの世界ではないので、実際にはぎこちない沈黙が流れた。
「あなたが『バッドエンジニア』の原作者だと、ついさっき聞きました」
「……っ!」
 十八番の彼に突然そう言われて、僕は手に持っていた缶コーヒーを落としそうになった。
「監督がさっき教えてくれたんです。これから、よろしくお願いします」
「ああ、そんなにかしこまらなくていいよ」
 僕は手を振った。
「僕はただの作家だから。テレビ局との契約ももう済んでるし、そっちと……」
 そこまで言って、僕は口をつぐんだ。彼は僕のことをピー――年上の人を呼ぶときの言い方―—とは呼ばなかったが、言葉使いがとても丁寧だったので、僕は彼のことをなんと呼ぶべきか一瞬悩んだ。あなたと呼ぶのもよそよそしいか……。
「えっと、きみ……とはそんなに頻繁に会うこともないと思うから。僕よりも、監督とかスタッフの人たちにお世話になるんじゃないかな」
 それを聞いた彼は、眉をわずかに上げた。
 彼はもの静かだが、まるで本物の王子のように優雅だ。彼と話をしていると、なにかを言うときには言葉を慎重に選ばなければいけないという気持ちになる。
 別の場所でヒンを待つという言い訳でその場をあとにしようとしたとき、トイレのドアが大きな音を立てて開いた。
「もーお尻が超痛いです、先生……って、わあ!」
 長々と大便をしにいっていたバカは、攻め役を務める長身の青年が立っているのを目にした瞬間、びっくりして小さな女の子のように恥ずかしそうに笑った。
「ナップシップくん」
「どうも」
「もう監督とのお話は終わったの?」
「監督は急用の電話が入ったみたいなんです。だから、そのあいだにトイレに行かせてもらおうかと思って」
「そっかそっか」
 ヒンの奴はうんうんとうなずいた。
「そうだ! えっと、僕はヒンです。ジーン先生の編集アシスタントをしてます。僕ら、きっとこれからちょくちょく会うことになるね」
「…………」
 僕はそう言った奴の方をにらんだ。
 ヒンのクソやろう。ついさっき、そんなに頻繁に会わないと思うって言ったばかりなのに、おまえがそんなこと言ってどうする。
 僕は目を細めて、遠回しに反論を試みた。
 もう十分仕事が溜まってるんだから、だれがそんなにちょくちょく現場になんか行くもんか。
「はい」
 まだ同じ場所に立っている十八番の彼は、口元に笑みを浮かべていた。
「それじゃあ、また今度」
「うん、またね」
 ヒンは親しげに言葉を返した。僕の方は、十八番の彼が意味ありげにこちらを見つめながら挨拶してきたのを見て、一瞬固まってしまった。彼のオーラが、また僕をおちつかなくさせる。彼の光に吞まれたまま、僕は笑顔をつくってうなずいていた。
 僕はベンチからパッと立ち上がり、からになった缶をゴミ箱に投げ入れた。そして僕を待たせてくれたヒンの襟首えりくびをつかんで、エレベーターの方へと引っ張っていく。僕に引きずられながらも、奴はまだそこに立っているナップシップの方を振り返り、手をひらひらと振っていた。
 エレベーターのドアが開いた瞬間、僕は奴を中に押し込んだ。そして自分もその中に足を踏み入れようとした。だがそのとき、なぜかうしろを振り返らずにはいられなかった。
 十八番の彼が、まだそこに立っていた。彼は僕の方をじっと見つめている。二人の視線が交わると、彼は僕にほほえみかけてきた。僕はそれに気づかなかったふりをして、エレベーターに急いで乗り込んだ。
 僕は監督でもないし、プロデューサーでもない。ただのしがない作家だ。僕にびる必要なんかないのに……。
「ジーン先生、ちゃんと会社まで送ってくださいよ。あっ、そうだ! 角の焼きそばパッタイ屋さんで牡蠣の鉄板焼きホーイトート買いたいんで、そこにも寄ってくださいね」
「…………」


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