「こわいものをみた」1 編集者がこわい(高瀬隼子)
みなさんは、編集者という職業の人に会ったことはあるだろうか。わたしは31歳で初めて会った。小説家デビューを目指して新人賞に応募した小説が最終候補に残った時だ。待ち合わせ場所の喫茶店へ向かうわたしはガチガチに緊張していて、真夏だというのになぜだか直前に新調したジャケットを着こんでいた。脇汗も背中の汗も大変なことになっていた。測ってはいないけれど、知恵熱くらい出していたんじゃないかと思う。
子どもの時から小説が好きだったから、編集者という存在にも自然と興味を持って憧れていた。本物を見たことがなかったから、その憧憬は漠然としたイメージに向かっていただけなのだけれど。それまでに、小説家には何度か会ったことがあった。会ったというか、一方的に見たというべきか。大学時代を京都で過ごしていた間に、大学の特別講義や、京都や大阪で開かれるトークイベントなどで、小説家を何人か目撃した。サインももらった(とてもうれしかった)。話したり水を飲んだりしている小説家を見て、生きているんだなあ、とびっくりしたし、自分が小説家になってから対談の仕事で誰かにお会いすることがあってもやっぱり、「あの作品を書いた人って実在するんだ」と感心する。毎回慣れずにへええー、と少なくない驚きを覚えてしまうのは、「小説家」という職業自体がちょっとフィクションっぽいというか、噓っぽいというか、物語らしいと感じているからかもしれない。同じ感覚を、わたしは編集者という人たちに対しても抱いている。
今考えてみると、学生時代に参加した小説家のトークイベントや講演会の場に、編集者もいたのかもしれないが、見つけられたことはなかった。わたしのように一部の読者は、小説家だけでなく編集者にだってそわそわした関心があるのだから、編集者なら編集者だと言ってほしい。イベント会では、〈担当編集者です〉とか〈私がこの本を作りました〉という名札や腕章をつけてくれたっていいのではないか。と思って、自分がサイン会やトークイベントなどをする時はなるべく「あそこにいるのが担当編集者の方で」とか「この方が本を作ってくれました」と、どこかで紹介を挟んでみたりする。読者の方たちだって、「へーこれが編集者という存在か」と気になっている人もいるはずだと思うのだけれど、どうなんでしょうか。
2023年の1月に『め生える』という、大人がみんなハゲてしまって大変、という小説の本を出した。その本が完成した時に担当編集者のT氏と二人でお祝いをした。恵比寿のこじゃれたワインバルだった。編集者はみんなこじゃれた店をたくさん知っている。
改稿に改稿を重ねて、ゲラが三校でも四校でもまっかっかで、心配しましたけど無事に本ができてよかったですね、いやほんとよかったよかった――そんなふうに祝い合って、ワイングラスを重ね、もしかしたら今日はちょっと飲みすぎているかもしれないと頭の片隅で心配しつつ、でもいっか今日くらい酔っぱらっても、だって本が完成したんだもの! と浮かれていた。T氏だって浮かれているように見えた。見えた……のだけど、それすらわたしがリラックスして過ごせるための配慮形態だったのかもしれない、と考えるとまたこわい。というかそんなことを考え始めたらもう編集者を名乗る人たちとはお酒を飲めなくなりそうだからあんまり考えたくない。
わたしは陽気に酔っぱらっていた。飲み始めの頃はT氏に「依頼をたくさんいただけるのはうれしいけど、締切が重なってしまってちょっとしんどい」「エッセイで書けるネタがなくなっている感覚があってきつい」と悩み相談をしていたが、終盤は思考能力も低下し、「おいしいですね」「うまいですね」「おなかいっぱいですね」しか言えなくなっていた。終電も近いですしそろそろ帰りましょうか、と帰り支度を始めたその時、目の前にスッとクリアファイルが差し出された。ん? と視線を落とす。クリアファイルにはなにかの書類が入っていたが、酔っていたので文字がちゃんと読めなかった。それで、もう一度「ん? これは? ん?」とつぶやくと、同じだけ酔っぱらっていると信じていたT氏が、こちら朝です目覚めたばかりですみたいな顔でわたしをまなざし、「エッセイ連載のご依頼書です」と告げた。
高瀬さんってホラー好きですよねこわいものテーマで月に1回くらい気軽な内容で無理なく楽しく書いてもらえれば、と説明を受けたと思うのだけれどあんまり覚えていない。えっえっさっき、ついさっき、締切重なってきつい、エッセイのネタが尽きててつらいって、話しましたよね……?
クリアファイルを指でつつきながら、ホラー好きって言っても詳しいわけじゃないしこわいがテーマでエッセイなんて書けるかなあ、あはは、あーなんか酔っちゃいました久しぶりにー、と笑って返したところまでは記憶にあるのだけれど、気付いたらきっちりと締切日が設定されていた。
作品の改稿に根気よく付き合って、励ましてくれて、時々おやつもくれて、こじゃれた店をたくさん知っていて、楽しくごはんを一緒に食べられるのに、ばっちり仕事もしてくる。こわい。編集者の「酔っちゃいましたね」は金輪際信用しないことにする。