だから勿論わたしは。

だけどわたしは知らない。

星の名前を知らない。
勿論、星座の名前も。

男は不思議そうな顔をする。

「オリオンは知ってるだろう?」
「そうね、噂程度は耳にするわ」

本当は、知っている。それを。
あまりに特徴的な冬の星座だ。
見上げれば今夜もそこに在る。

「あの、並んでる三ッ星でしょ?」
「そう、そしてその周りの星もね」
「そう、きっとその周りの星もね、多分」

わたしは少し、怒っている。
だけど男はそれを知らない。
まさか!知らない筈はない。

「赤い星がベテルギウス。青白い星が、リゲル」

男は平気な顔をして、呪文みたいな単語を並べる。

「まあ素敵な名前。」とわたしは熱のない声で応じて続ける。
「まあ素敵な名前。で、あの三ッ星にも名前があるのかしら?」
「そりゃあるさ。左からアルニタク、アルニラム、ミンタカ」

メモも見ずにまあすらすらと。
嫌味のひとつも云いたくなる。

「ねえそう云うのって、産まれた時から知ってたの?」
「まさか。おれはオリオン星人か?」
「あら、違うとでも云うの?」

男は苦笑いをして、「悪かったよ」と初めて謝る。
勿論わたしは許さない。

男が突然街から姿を消して、もう半年が経っていた。

突然消えて。
突然還って。

すわ神隠しか、と心配していた皆(そう皆。街中の皆、わたしも含む。ねえそんなのあたりまえだけど!)を他所に、いけしゃあしゃあとこの男は。

「いつ出るの?」とわたしは訊ねる。
「また明日の朝」と男は軽く応える。

わたしは爆発しそうになる。

星の名前なんか知ってるから!と。
わたしは叫びそうになる。

星の名前なんか知っているから。
星座の名前なんか、沢山知って澄ましているから。
貴方はそうやって、世界を捨てて行くんだ。
世界を捨てて、世界に捨てられて、平気な顔で、飛んで行くんだ。
平気な顔で、平気な顔で!

どんなに宇宙が広いと云っても、ひとの心ほど広くはないのに。
どんなに星が遠いと云っても、ひとの心ほど離れやしないのに。

だからわたしは知らない。
星の名前なんか、知らない。
星座の名前なんか覚えない。
わたしはこの星で暮らしたい。
わたしはこの星で暮らしたいのに!

「なあ」と男が云う。
まっすぐにわたしを見て、まっすぐな声でわたしを誘う。

どきり、とわたしの胸骨が鳴る。
両の手でちいさなふくらみを押さえて、わたしは男をじっと見る。

もし。
『一緒に来いよ』と云われたら。
もし。男に。
『一緒に行こう』と誘われたら。
わたしはどうするだろう?

わたしはどうするだろう、って?
決まってる。
思い切り、硬いゲンコツを一発お見舞いしてやる。

そして。
もしも誘ってくれないのなら、本気で十発、殴ってやる。
わたしはそう、決心する。

「なあ」と男が云う。
「なによ」とわたしは応える。
親指を巻き込んで、ぎゅっと拳を硬く握る。

男がわたしを見る。わたしを誘う。

「なんか冷えてきたし、おでんでも食べに行こうぜ」

云い終わらないうちに、肩の辺りに拳を放つ。全力。
男が「いだッ!」と慌て気味に叫んでいい気味だが、思ったより腰が入ったパンチにならず無念。
ひとを殴るのは、難しい。

「なにすんだよ」
「うるさい黙れ」

黙れ黙れ口を開くな。
そしてさっさと宇宙に還れ、莫迦なオリオン星人。
二度と、わたしの地球に還ってくるな。

わたしは歩き始める。
わたしの星の、わたしの道を。
道は赤提灯に続いている。

「待てよ」と男が云う。
勿論わたしは待ったりしない。

わたしは硬く拳を握る。もう九発。
残りをオマケしてやるほど、わたしは甘い女じゃない。

それを、思い知らせてやる為の夜だ。

わたしはそれを、今夜の内に完遂しなければならない。
是が非でも。
わたしは硬く拳を握る。

だからわたしは歩く祈る強く。

だから明けるな、夜。と。
どうか、どうか。

明けないで、夜。いつまでも。と。

/了

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