そうなった。

心に壁がある。
まっしろな壁だ。

塗られるのを、待っているように見える。

まっしろな壁。
それは待っている。
貼られ塗られその存在のヴォリュームを限りなく落とす日を。

主客の転倒。
個性の放棄。
積極的諦観。

だから私はそこに貼りつける。
思い出をひとつ。またひとつ。

花。
賞状。
似顔絵。
桜の若葉。
俳優の近影。
雑誌の切抜き。
映画のポスター。
初めて買った煙草。
セルフポートレイト。
誰かに貰った愛の手紙。
渡しそびれた謝罪の手紙。
誰かと観た映画のチケット。
パスワードを記したメモ。
美容室のリーフレット。
ドラクロワの複製画。
四葉のクローバー。
通天閣の絵葉書。
銀のエンゼル。
手染めの布。
世界地図。
合言葉。
切手。
夢。

私の壁は、私の心は、少しずつ彩りと賑やかさを増していく。
そうやって、生きていく。

大切にしていたはずなのに、時を経て色褪せ剥がれ落ちたものもある。
不自然な形にぽっかりとまっしろに光る壁の一部が、『無い』存在を囁くのだけれど、思い出すことは出来ない。
それはもう私の中を通り過ぎ、遥か彼方へ飛び去ってしまったのだ。

いろんなものを喪くしたり忘れたり、そしてそのことに気付いたり気が付かなかったり。
そうやって、生きている。

私自身が、深夜の激情に任せて破り取ったものもある。
だが忘れたい捨てたいと思ったそんな思い出に限って、剥いだ跡がまだらに残って消え去らない。
たとえ綺麗に剥がせたつもりになってもそこだけが、周囲の日灼けした壁とは明らかに色合いが違うのだ。
それは『喪った』ことを主張し続ける。
厭いた薔薇を手荒く投げ捨てた後に指先に残った血粒のように、ちくちくと声を上げる。
若い頃はそれこそ躍起になって剥ぎ残りに爪を立て、日灼けの境目を布で擦り、駄目ならいっそとより大きな思い出で上塗りしようとしたものだった。
上手く云った試しがない。
いつか自然に剥げ落ちるまで、そおっとしておくほうがいい、と学んだ。
そうやって、生きていこう。

壁を見せ合うことは恥ずかしい。
愛するひとなら、尚更だ。
出来ることなら柔らかい、清潔なシーツで覆っておきたい。
でもごくたまに、ぐい、と強引にシーツを捲り上げ壁を覗こうとするひとがいる。
「本当の君が知りたいんだ」と甘く、或いは辛そうな声で囁きながら。

逃げ出してしまう。

私は、私が見せたい私だけを、見せたい。
私はシーツを固く結ぶようになる。

古いのかもしれない、とも思う。
街を歩けば、壁を剥き出しにして歩いているひとの多さに驚く。
幸せな写真で埋まった壁を、誇らしげに掲げて歩くひと。
傷だらけの壁を曝け出し、さも無関心な表情で闊歩するひと。
今やネット上にも、壁の写真が溢れている。中には目のやり場に困るような壁もあり、喝采したり批判したりと見る方も忙しそうだ。

何かの弾みで、意図せず壁の一端が見えてしまうこともある。

就職したばかりの頃、上司に連れられて訪れたバーで、ちょっとしたハプニングがあった。

はしご酒の勢いでご機嫌の上司と、黙ってついて行くしかない私たち若者の集団は最初からその静かな店に場違いで、下戸の私はずっと愛想笑いを浮かべながら恐縮していた。

一時間くらい、そうしていただろうか。杯を重ね、顔をまっかにした上司が手洗いに立った。ふらついている。
大丈夫かなと思ったら案の定、カウンタの端に居た男性客にもたれかかるようにぶつかった。
グラスが倒れたのか、布巾を手にマスターが歩み寄る。
水滴を拭いながら、上司にやんわりと言葉をかけているようだった。

私はカウンタの男性客を見ていた。
そして、声を上げそうになった。
ほんの一瞬だけ、男の口の端が震えた。
そしてその瞬くほどの時間の隙間から、男の壁が垣間見えたのだ。

青い壁だった。
一面を紺青に塗り潰されたその壁には、片隅に小さく、だが鮮やかに、ひと茎の君影草が描かれていた。
ただ、それだけが凛と。

ぞっとした。
こんな壁を持つひともいるのか、と空恐ろしいような、魔に惹かれるような気持ちがした。
そのひとに会うのが怖くて二度とその店には足を運ばなかったが、私の壁の隅の方、目立たぬ場所に確かにそのひとの面影が焼き付いていて、熱く苦しい気持ちが続いた。

恋だったのだろう、と今では思う。
その面影も、今は消えた。

歳を重ねた。
30歳を越えて恋をして、初めて誰かに覆いを解いた壁を見せた。

彼はいつでも、しっかりとアイロンをあてた綺麗な布で自分の壁を覆っていた。モノクロームの幾何学模様。
映画が好きでよく喋るひとだった。
好きな作品と苦手な作品、お互いの人生の歩幅や速度がよく似ていて、会って話す度に好意が増した。

雪の降る年末の休日、外で食事をした帰りに彼のアパートに寄り、灯りを落とした部屋の中で色々な話をして笑った。
それからそっと、互いの胸を開きあった。

もうなにも隠す物のない、彼の裸の壁が見えた。

明るい壁だった。
そこにはなんだか賑やかな、原色だらけの思い出が好き勝手に陽気にとっちらかっていて、私は思わず声を出して笑った。
良い壁だと思った。

散歩帰りに隣の畑でも覗き込むような気軽さで、ひょいと『私』を眺めた彼が「きみも、わりと散らかってるなあ」と呟く。

まるで「やあ、ピーマンが元気に育ってますね」みたいな健康的で何気ない声が可笑しくて、私は笑い続ける。笑い続ける。

あー駄目だ、これは多分結婚しちゃうだろうな、と思った。

そうなった。

/了

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