娘の恋人に説教する。
度肝を抜かれた。
四つ辻右折出会い頭。
ほんの僅かな隙を突かれる。
山高帽子の気取った男が、にやにやと嗤ってぼくを見る。
黒山羊みたいな男だった。
浅黒い肌。
細身の、だが均衡の取れた引き締まった肉体。
身にまとう黒衣と山高帽子。
口元の乱杭歯。
異形ではあるが、そこにはある種のスマートさが感じられる。
それが、余計に不気味だった。
男は誇らしげに左手を掲げる。
袖口から覗く手首には、解読不能な紋様が彫り込まれている。
そしてその左手に握られているのは、憐れなぼくの度肝だ。
やられた。
「ちくしょう、やりやがったな!」
胸に手を当てるが既に手遅れ。
「油断したあなたが悪いのです。度肝はいただいて参ります」
男は華麗に一礼をして、黒衣の裾をはためかせる。
「待て!」
「待ちません」
「そこをなんとか」
「なりません」
おのれ。
ああ、ぼくの度肝!
正直初めて見たけど、なんだかちいさくてふわふわしてる、可憐でメルヘンチックなぼくの度肝よ!
無駄と知りつつ、ぼくは大声を上げる。「奸賊め、ぼくの度肝をどうする気だ!」
男は「え?」と意外な声を出す。
え?
「え?いや、ぼくの度肝を奪って、そのあと、どうするのかなあ、ってさ」
「どう?」
「え?なにか考えがあるんじゃないの?」
「え?」
気まずい沈黙。
あのさあ、とぼくは切り出す。
「あのさあ、見た所きみ、悪魔かなんかでしょ?」
男は神妙に「ええ、まあ。」と頷く。
「やはりそうか。まあきみの鮮やかな手際には感心したけどね、なんかちょっと、手柄を上げる快楽に、身を委ねすぎなんじゃないの?」
「と、云いますと?」
「だからさ、」とぼくはぼくの度肝を指差す。
「それをどうするつもりなのか、本当に何も考えていない訳かい?」
「や、まあ、一応はなんとなく」
「なんとなくじゃ駄目なんだよ。それが一番駄目なんだ。一方的にひとの度肝を奪っておいて、そんな曖昧な主張が通用すると思うのか?」
悪魔は俯いて唇を噛んでいる。
「ほら見なよぼくの度肝を。ぶるぶる震えているじゃないか。すっかり怯えてしまっている」
「わ、本当ですねどうしましょう」
「じれったいなあ、懐なりポケットなりに入れてやりなよ。でなきゃ抱きしめてやるんだ。だいたい、きみは本当にぼくの度肝を愛しているのかね?」
なんだか娘の恋人に説教する父親みたいな気持ちになってくる。
悪魔は顔を上げてぼくを見る。
先程までとは違う、強い意志を感じる表情だった。
「幸せにしますよ」
「本当に?」
「幸せにします、生涯かけて。私はそれを、しっかりとここで誓います」
一世一代の宣誓をする悪魔の胸に抱かれて、度肝はすやすやと寝息を立てている。
それはなんだかお似合いのふたりに見える。
だからぼくは、「行けよ。」と云う。
Get thee behind me Satan.さあ早く。
悪魔は山高帽子を脱いで、少しだけ笑う。それからゆっくりと、消える。
そしてぼくは、ひとりで四つ辻に立っている。
胸元は少しだけ涼しいが、命に関わるほどじゃない。
そう云えば古いブルーズマンが歌ってたっけ。クロスロードには悪魔が出るって。
やれやれなんともやっかいだね。
ぼくはもう一度、古い古い呪文を口ずさむ。
Get thee behind me Satan.
Get thee behind me Satan!
悪魔よ去れ、と。
悪魔よ、去れ。
そして出来ることなら、ふたりで達者で暮せ、と。