象では大きすぎる。

「愚者の楽園:象では大きすぎる」
(2000年11月16日初稿/2018年10月28日改稿)

□□□

差出人不明の小包には、小さな象が入っていた。
耳にカードが挟んである。
『これは不幸の象です。この象を受け取った人は、六十四人のひとに同じ文面のカードと象を送付してください。期限は一週間と致します。もしも!実行されなかった場合には!恐れ入りますが、インドの呪いが貴方を襲うことになるでしょう』

インドの呪いってなあに?カレー地獄かな?
詳細は不明ですが、出来れば遠慮願いたい。

いやまて喫緊の課題は象だ。
え、象?これがですか?
確かに姿は象だった。だが、小さい。あまりにも、小さい。
マッチ箱にでも入りそう。

そもそもこれを、どうやって六十四人に送るのだろう?

さあみなさん、算数のお時間です。
「ここに一匹の象がいます。おともだち六十四人で分けると、ひとり何匹になりますか?」
「ろくじゅうよんぶんのいっぴきです!」
「よくできました」

冗談じゃない。切るのかな?スパっと?それともサクっと?
いや、この際切り口はどうでも良い。

象。小さい象。
これから輪切りにされるとも知らず存ぜずぼんやりと口を開けている象。
耳が、とふとふと呑気に揺れる。
あら、可愛い。

とりあえずソファに腰をおろし、象を眺めて冷えたビールをゆっくりとぼんやりと、時間をかけて飲んだ。

とぽとぽとぽ。
象はその小さいけど太い、太いけど小さい足でテーブルの上を歩き回る。
とぽとぽ。
端から端へ。辿り着いたらひっくり返して端から端へ。とぽ。とぽとぽ。

飽きない。
いつの間にやらビールが空になる。
後ろ髪引かれながら、立ち上がって冷蔵庫へ。
ああ、それはほんの一瞬。時間にして一分足らず。
良く冷えたビールを手にしてソファに戻る。戻ると。

みなさん、これは喜劇です。
テーブルの上に、小さな象が、二匹。

□□□

「これはあれだね、分裂象」
象を見るなり、ふやけた声でミズタニがそう云った。
「知ってるのか?」
「いや、知らない。名付けるとしたら分裂象、という意味さ。もしくは、増殖象」
ふざけた奴だ。でも確かに、それは言い得て妙だった。
ぽこりと分れた小さな象は、徒歩一分のアパートに住むミズタニの到着を待つ間にぽこりと四匹、為す術もなくぼくらがおろおろとビールを飲んでいる間に更にぽこりで八匹になってしまっていた。
ぽこりぽこり。またぽこり。
「増えてるよ」と楽しそうにミズタニ。
「増えてるなあ」と途方に暮れたぼく。

テーブルの上に、八匹の象。小さな。

八匹の象たちはそれぞれが好き勝手に動き続けている。
一匹は相変わらずとぽとぽとテーブルを歩き続けている。
二匹目は煙草のパッケージに描かれたらくだを眺めている。
三匹目は色鉛筆を大木でも持ち上げるように鼻で巻いている。
四匹目は昨夜食べこぼしたクッキーをもすもす食べている。
五匹目は色鉛筆で頭をぶたれてぽかんと空を眺めている。
六匹目はみんなから離れリズミカルに足踏みしている。
七匹目は鼻をふりふり耳をとふとふ居眠りしている。
八匹目はぺとりと腰をおろし虚空を見上げて「月が両性具有と見做されたのはそれを表象する処女神アルテミスが男性的な性格であるためやもしれぬあるいは母権制社会の女がもつ男性的な性格が統合された結果かもしれぬまたは月がその無機質さにも関わらず『世界の卵』に譬えられる伝承に拠るのかもしれぬ」等と考えている。ようにも、見える。

「もう、終わりだよな?もう増えないよな?」
「や、増えると思うなあ」
増えた方が面白い、と云う雰囲気でふやけた声。
抗議のために口を開きかけた、まさにその瞬間。
象たちが鼻を持ち上げ「らーーっ!」と鳴いて。

十六匹。

□□□

「飼おうか」とふやけた声が云う。
「飼うって、象をか?無茶を」とぼく。
「無理かな」
「無理だろ。それに早く送らないとインドの呪いが」
「インドの呪いなあ。なんだろうカレー地獄かな?」
あ、やっぱりそう思う?

ぼくらはソファに並んで座り、缶ビールを飲みながらじっくりと、カレー地獄について検討する。

物凄く辛いのでは。たとえば鼻が取れるくらい。鼻は困るね眼鏡が落ちる。ここはむしろ逆に甘いのでは?たとえば一口毎に思い出がひとつ消えてゆくほど。それも困るねきっと徐々にカレーの記憶だけが脳を支配して寝てもカレー醒めてもカレー煮てもカレー揚げてもカレーパンのカレー人間に。カレー人間に!?そうカレー人間に!!落ち着け。落ち着く。

落ち着いた結果、導く結論。
『カレー地獄(かれーじごく)/食事は三食カレー。ルーが極端に少なく、どんなに器用に食べても白米が半分以上残る。食べ残すと槍で軽く突かれる』
いやだなあ。

「福神漬けくらい差し入れするよ」とふやけた声。
なるほど。しかし差し入れはセーフなのだろうか。可能なら納豆もお願いしたい。

ぼくは象を見る。
小さな象たち。
いつの間にか三十二匹に増えている象たち。
遊び疲れ踊り疲れ考え疲れて眠っているのにちゃんと増えている象たち。

「まあ、いいか」とぼくは言う。そしてそれにぼく自身が驚く。
だが、まあ、いいのだ。
なんとかなる。ならなかったら、またその時考えよう。
ぼくはもう、この象たちの事を好きになってしまったのだ。きっと。
だからいいのだ。

□□□

それからぼくたちは。
沢山の小さな象たちに囲まれて、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。
めでたしめでたし。/了

□□□

しかし勿論。
そうは問屋が卸さない。

□□□

「あなたに象を送ったのは、私なのです」
部屋に上がるなり、大家さんのオオヤさんはそう言って頭を下げた。
苗字がオオヤさんでこのアパートの貸家主であるところの、大家さんのオオヤさん。
「昨日でした。私の元に届いたのは」
大家さんのオオヤさんは続ける。
「こんな悪戯、無視しようと思ったのです。時折あるのですこう云った嫌がらせのような脅迫のような、手紙が」
分かる気がする。
大家さんのオオヤさんは資産家だ。ぼくの住むこのアパート以外にも所有する数棟が近所に建っているし、喫茶店やバーも経営している頑張り屋で胡麻塩ヒゲのふとっちょおじさんなのだ。
成功した者を、妬んだり汚したりしたがる人間はいつでもどこにでもいるものだ悲しいけれど。たとえそれが朗らかで気の弱そうな胡麻塩ヒゲのふとっちょおじさんであってもだ。
「無視しようと、思ったのです。ですが、その。いい大人が、恥ずかしながら・・・その、呪い?ですか。インドの。それが恐ろしくて(ここでミズタニ曰く「槍で突かれるのは、誰だってごめんですよね」)それに象です。百二十八匹。この小さな生き物をそのままにして置くわけには行かないとも思いました。(ミズタニ曰く「気が長いんですね」)どうかしていたのだと思います。とにかく誰かに。しかし誰に。迷った挙句住人のみなさんに。大変勝手なことを致しました」
再び深々と頭を下げる大家さんのオオヤさん。
いやいやいやと慌てて手を振りながら、なんだかワイパーみたいだなと無関係なことを考えてしまうぼくののうみそに無音のアラーム。動揺している。息を吸い込む。口を開く。

「頭を上げてください大家さんのオオヤさん。これはアクシデントです事故です。そして格別不幸な事故でもありません。ぼくは、この象を飼おうと思うのです」
「飼われる?象を?」
ベッドの下から、象の鳴き声が微かに聞こえる。「らーっ。」
突然の来客に慌てて隠しては見たのだが、急に暗くなって驚いているのかもしれない。
大家さんのオオヤさんが唇を噛む。長い沈黙。溜息をひとつ。
「これを、ご覧いただけますか」封筒。一通の青い封筒。
「こちらは今朝、届いたものです。差出人は象の持ち主。つまり、最初の送り主です」
テーブルに置かれる。ぼくはためらう。アラーム。
こんなもの、どうせ楽しい話である訳がない。
だから、ぼくはためらう。アラーム。アラーム。

「どうか、お読みになってください。あまり、時間がないのです」

□□□

それは長い手紙だった。とても長い手紙。
薄水色の便箋の束。
最初の数枚には『彼』が不思議な象を『偶然にも発見』し『ほんの悪戯心から』友人に送った経緯が書き記されていた。真摯な筆跡。
続けて『ご迷惑をお掛けしたお詫び』と『回収の手続き』について。その『理由』について。
すべてを、ここに記す必要は、ないだろう。

「つまり、返せ。と?」
「そう云う、ことのようです」
「勝手ですね」
「そう、勝手です。ですが」大家さんのオオヤさんは溜息を吐く。「従わない訳には行きません」
「嫌だ、と云ったらどうなります?」
大家さんのオオヤさんは、静かに唇を噛む。静かに。ただ静かに強く。
ゆったりとした白いジャケットのポケットから「らーっ。」と小さな声がする。
このひとも、象が好きなのだ。好きになってしまったのだ。本当は、返したくないのだ。それなら、返さなければいい。ぼくたちの象を、返す必要なんてない。
「ハギワラ」
ミズタニがぼくを呼ぶ背後から。珍しく、張りのある声で。
手にしているのはクッキーの空き箱。蓋はなく、内には象が並んでいる。
綺麗好きとは云えないぼくの部屋、ベッドの下。押し込まれた象たちはほこりまみれになっていた。
そしてそれを差し引いても、象たちは明らかにぐったりと元気がない。

『(略)象は、分れることで元気を失って行くようなのです。そしてその兆候は数を増すにつれ顕著に現れます。くっつけなければなりません。そうすることで、少しではありますが元気を取り戻します。私は彼らを集め、再び元気な一匹の象に戻したいと願っております。どうぞ回収にご協力ください。たくさんの小さな象に見えるもの、それはひとつひとつが大切な、一匹の象の部品なのです(略)』

回収の理由。
算数が笑う。みなさん、これは喜劇です。
「答えは六十四分の一匹です」
一匹の象を、みんなで分け合うことはできない。
六十四分の一匹の、象たち。

ねえ、これは象ではないんですか?
こんなにきちんと、象なのに?
ちょっと、小さいだけなのに?
「ハギワラ」ふやけた声。だが後に言葉は続けない。象についたほこりを、指で優しく拭い始める。

ねえ象。なあ象たち。
お前たちは、還りたいのか?ひとつに還りたいのかい?
せっかくこんなに増えたのに。そうだいっそ象なんてやめてしまえ。「いえ大家さんのオオヤさん、これは象ではありません。私が蚤の市で買い求めた新種の犬なのです。雑種です。増える象?はっはは。そんなものは見たことも聞いたことも愛したこともありませんねえ金輪際」茶番と笑うのは簡単だ。さあ笑ってみろよぼくを。なあ笑ってみろよ、クソ正しすぎる世界め。

もう誰も口を開かなかった。ぼくはミズタニの側に腰をおろした。大家さんのオオヤさんも加わって、丁寧に象のほこりを拭う。
指で摘まんだ象がゆわゆわと身を捩る。載せた掌がくすぐったい。指に戯れて巻いてくる鼻は、思った以上に力無い。
「こいつらは、立派に、象だよなあ」手を止めず、ぼくは呟く。
「ちゃんと、象だよ」ミズタニが頷く。手は止めない。
「ちゃんと、象です」オオヤさんも頷く。「とても素敵な象です」と。

□□□

すっかり綺麗になった象たちを、一匹ずつくっつけてゆく。
挟んだ指に軽く力を入れると、二匹は呆れるほど簡単にひとつになる。三十一匹。
ぼくは黙々と象をくっつける。三十匹。
ミズタニと大家さんのオオヤさんはもう手を止めて、静かにそれを見ている。
くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。二十匹。
くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。くっつける。
そしてまた、くっつける。

そして象は、ひとつの形になった。
大家さんのオオヤさんが、ポケットから自分の象を取り出す。
ぼくはいっぺんで、その象が好きになった。ぼくとミズタニが微笑むと、大家さんのオオヤさんは照れたように笑い返して、象のしっぽに巻かれた赤いリボンをするりと解き、丁寧に胸のポケットに仕舞った。
そしてまた象は、ひとつの形になった。

□□□

ぼくとミズタニはソファに並んで座り、いつものようにゆっくりと、時間をかけてビールを飲んだ。大家さんのオオヤさんは、もういない。勿論、象も。
「明日のお昼、私の店で象を渡す約束になっています」
部屋を出掛けに、大家さんのオオヤさんはそう云ってぼくらを誘ってくれた。あごの下でそっと合わせた掌に抱かれた象は胡麻塩ヒゲが気になるらしく、小さな鼻で撫で回している。答えるかわりにその鼻をちょい、と引っ張ってみる。
「また、遊びに来てください」
自分の大家さんに云うのも変だが、自然と口を突いて出た。
大家さんのオオヤさんは優しく頷いてくれた。
ひょっとしたらぼくたちは、良い友達になれるかもしれない。今度は一緒にゆっくりと、ビールを飲もうと思った。

追加の缶を取りに立ったミズタニが、からからと窓を開ける。煙草の煙がすうっと出て行き、代わりに冷たくて新鮮な空気と、小さな虫の声が流れ入ってくる。
がちゃがちゃがちゃがちゃ、クツワムシ。
良く分からない、ある感情の震えが、ぼくを揺らす。
「今夜は、冷えるね」やっと、それだけを口にする。
「おでんでも、食べに行こうか」と気付かないふりでミズタニ。ぼくのともだち。
鼻水をすすり、息を整え終えてから、ぼくは出来る限り悪そうな声を絞り出す。
「勿論おごってくれるんだろうな?」
友人はあははと笑い、ふやけた声で「割り勘だよ」と云った。

□□□

秋が終わる。

□□□

クリスマス商戦に賑わうデパートのワゴンで、象のぬいぐるみを見つけた。
三十センチほどの、ふかふかとした青いぬいぐるみ。
「ちいさくて、可愛いでしょう?」
髪の毛をくるりと外巻きにしたチャーミングな店員さんが、余所行きの笑顔で声をかけてくる。ぼくは象の耳をとふとふ動かしていた手を止めて、彼女の魅力的な歯並びを堪能してから、その青い象をそっとワゴンに戻した。
「いや、ちょっと大きすぎるみたいです」
巻き毛の店員さんは不思議そうに、小首を傾げて礼儀正しく微笑んだ。

□□□

あとはもう、書くことがない。

/了

#小説 #没ネタ祭 #愚者の楽園


没ネタ祭へようこそ。今作は先日供養した「思い出が多すぎる。」の兄弟作品です。2000年に「思い出」を書き上げた夜、興奮を冷ますために席を立たずにそのままパロディ作品として書いたものです。夜更けに書き上げてみたら思わず可愛い作品になってしまっていて、割と気に入っていました。元来がセルフパロディとしての性質をもつ文章ですので、今回は思い切って手を入れてみました。更なるパロディと云うところです。お読みいただきありがとうございます。拝。
追伸。ハギワラとミズタニには、その後noteでも何作か登場してもらいました。いつでものんきに暮らす彼らです。もしお気に召しましたなら、どうぞ尋ねてやってくださいませ。

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