忘れちゃったよ。

就職した事が無い。
出来る気がしない。
だが職に就きたい。

のり弁当(税込み三百円)を昼夜に分割摂取して、か細い息を永らえている場合じゃないんだ。就職だ。就職すれば、特のりタル弁当(税込み三百九十円)とかチキン南蛮弁当(税込み五百円)とか、きっともっと。

明ける気配すら感じられない俺の夜空に指令を放つ。
「希望、それはガソリン。邁進せよ、燃えよ、俺!」

アイアイ・着火・サー!アイ着火サー!
お返事は良いが、腰が重い。油圧ジャッキで惹起する。ガシャガコ。
邁進する。オイチ・ニ!(とぼ、とぼ。)
行軍する。セイヤ・セ!(とほ、とほ。)

電柱にポストにショウウィンドウに、求人募集は幾らでもある。
曰く『初心者大歓迎!』嘘だろう?本当に?初心者を?大歓迎?

参ったね。照れるね、どうも。
凄いんだろうね。面接なんか、温泉宿に招待したりするんだろうね。
「本日は遠いところをどうも、ご足労お掛けしまして、ヘヘへ。まあちょいと湯にでも浸かって、お疲れを落とされてから、ま、ご迷惑でなければ労働条件のご説明など…へへへ。」
なんて、社長がへこへこと頭を下げるのだろう。土下座スライド移動する専務が、馥郁たる銘茶を運んでくる。添えられた羊羹、その厚さ。
「これ、一竿ままかい?え、切ってあんの?へえ。厚いねぇ。おごったねぇ?」
「つまらんモノで、お口に合いますかどうか。へへへ。」
「いやあ悪ィけどよォ、俺は甘ぇモンってェとまるで意気地がなくていけねえよ。」
「あっ、これは気がつきませんで。へへへ、お燗、お持ちしましょう。ね?先生、お呑みンなるんでしょう?お強そうなお顔だよへへへ。よござんす、今宵はアタクシ、冴えない狸爺ィめがとことんお相伴。呑みましょ呑みましょ。なあに、雇用契約書なんてモンはね、明日、お目覚めンなってからごゆっくりと、目を通していただけりゃ構わないンでございましてへへへ。」
「ちょっ、ぴょこぴょこと良く動くあごだなオイ。機械仕掛けかい?ええ?まァ好いや折角だ、冷やでも良いから二・三本、そいってきてくんな。」
「へい、只今!おーい、三味線入れとくれェ!」

やかましい。俺は静かに働きたいんだ。

そう、例えば穴掘りが良い。
ひとりで大きな穴を掘るんだ。シャベル一本を相棒に、朝から日暮れまで汗を流し、水を飲み、疲れたら木陰で休憩して、大きな深い穴を掘り、次の日にすべて埋め戻す。余計なものを埋めたりはしない。何もかもが、元通り。そんな静かな、美しい仕事。

俺は仕事を探す、彷徨う。
歩き出し、歩き続けて、道に迷う。
俺ってほら、俯きがちだから、さ?
ふらふらぐるぐる、一歩も進まず二歩下がる。
ただ希望だけが燃え盛る。そして燃え尽きる。
希望。Do-nothing for 俺。
展望。どうなってんの俺。

「匂いが大事だ。迷ったら鼻を使え。」
男はそう云った。暗い森の奥で。或いは場末の袋小路で。つまり何処かの行き止まりで。疲れた顔と虚ろな瞳とちいさく震える声色で。一目で判る。残念ながら、きっとこの男も迷子なのだ。未来を喪くした、ミイラ取りのミイラ。
俺は紳士的に、軽い会釈を残してその場を去る。
「鼻を使えよ!」と男は叫ぶ、俺の背に。
「俺は駄目なんだ。慢性的な鼻炎なんだ。」
「だがアンタはきっと。まだ間に合うよ!」
「匂いが大事だ大切なんだ。嗅ぎ分けろ!」

ふむ。助言をありがとう、そしてごきげんよう。
しかし一体どうすりゃいい?どうしようがある?
古人曰く、溺れる者は久しからず、ただの藁をも掴むとかなんとか。

俺は嗅ぐ。嗅いでみる。
鼻腔を通り抜ける空気は素っ気なく乾いていて、何処か少しだけ焦げ臭い。
おがくずのにおい。鋸引かれた木屑と、熱を帯びた鉄が触れ合う匂い。
きっと俺のちいさな頭骨一杯に詰まった不要無用なおがくずが、ぷすぷすと静かに無益に燻っているんだ。

そして要するにこれが、俺の人生の匂いなんだろう。クールじゃないね。

俺は捜す。
もっとマトモな人生を。良質な運命を。持って生まれた体臭を秘匿するための華やかな香水を、俺は捜す。捜すが。東・西・南・北、どちらを見ても嗅いでも焦げ臭い。俺の人生、見渡す限りの焼け野原。
なあ、どうすりゃいい?どうしようがある?
わかってる。俺の人生を無為に焼き払っているのは誰でもない、俺自身なんだ。立ち昇る煙が俺の鼻を、視界を、更に曇らせるんだ。濁らせるんだ。

俺は俺の人生に、でかい風穴を開けなければならない。淀んだ空気を入れ替えて、焼き畑に花の種を撒くんだ。だから。

俺は履歴書を書く。
煩雑で詳細な、個人情報を記載する。住所?氏名?勿論知ってる。生年月日?覚えている。意外と楽勝だ。良いね、順風満帆だ。しかし思わぬ落とし穴、学歴があやふや。小?中?高?入学年と卒業年?筆が止まる。加算法則が思い出せない。思い出す。唱えてみる。『ロク・サン・サン・de・ジュウニネン。』そうだ。しかし基準の年がわからない。何に何を足したらいいんだ。幾つに幾つを?一年生って何歳だ。平成元年は昭和何年なんだ。俺はすっかり動転する。思わず万年暦を購入する。税込み三千円。高い。十日分の食費が消える。悲しい。俺は本屋のレジで泣く。ほろほろ。見かねた店員が飴をくれる。オレンジ味。噛まないように大切に、そっと舐めながら帰宅する。
俺は暦を注視する。確認する。だが字が小さい。凝視する。まだ見えない。目を見開く。目を皿のようにして指折り数える。数え上げる。いちまい、にまい。皿を数える。何故、皿を?

青磁の小皿。いちまい、にまい。

お洒落で小粋な小皿にお洒落で小粋なオードブルを並べて、お洒落で小粋なカクテル・グラスで乾杯を。
向かいに運命が坐って居る。青いドレスの女。ニオイスミレの甘い芳香。それはラムネ菓子みたいに柔らかい。香水?或いはリキュールの香料?判らない。判らないまま、俺たちは乾杯する。柑橘系の僅かな酸味。
俺はボーイを呼び止める。「失礼、これはなんと云うカクテルですか?」
俺と同じ顔をしたボーイは礼儀的に微笑んでから会釈する。「存じません。」
それはそうだ。俺が知らないことを、俺の脳味噌が知っているはずがない。気が付けばもう女は居ない。俺の運命。消えてしまった。スミレの香りだけを残して。残念だ。君をダンスに誘いたかったのに。残念だよ、とても。
俺は席を立つ。メイン・ディッシュはもう結構。食欲が無いんだ。でもデザートだけは戴こうかな?
青い林檎、シャキリと齧る。とても爽やか。しかし歯茎から血が出る。お洒落ムードが台無しだ。俺はがっかりする。現実感を取り戻す。俺は現実に帰還する。そうだ居眠りしている場合じゃないんだ。俺は履歴書を書くんだ。長所と短所。趣味と資格。考えてみても浮かばないから捏造する。書き上げて行く。最後に残った自由記載の備考欄に「歯医者と照射に関する抱腹絶倒のハイセンス・ユウモア」を記入して、ついに俺の履歴書が完成する。完成した。二年の歳月を費やして。
感慨深い第一歩。俺は前進している。俺は変化しつつある。
俺の履歴書。じっくりと眺めて点検する。そこに記された情報から浮かび上がるのは、これと云って特徴のない、しかし穏やかで真面目そうな青年の姿。
成程ね。これが、俺か。
しかし・・・誰だ?これは。

□□□

「お前、何年になる?」と突然訊かれて、俺は慌てて指を折る。いちねん、にねん。「さんねんめっす。」そうだ。就職して、もう三年になるのだ。

運命が、劇的に変化した訳じゃない。俺の人生は相変わらず煙たくて埃っぽくて、いかにも冴えない野郎って感じの匂いを放ち続けているし、職場だって人間関係とか連日の残業だとか、横暴なクライアントとか小生意気なユーザーだとか、OSがWindows Vistaのままだとかクーラーの温度設定が高いとか低いとか、自販機の品揃えがバランス悪い(なぜ緑茶ばかり三種類もあるんだ?)とか、些細な或いは致命的な不満を数え上げたらキリがない。
でも、俺は毎日クタクタになるまで働いて金を稼ぎ、チキン南蛮弁当とか唐揚げ弁当(ごはん超盛)とか好きなものを選んで食べ、湯上りには缶ビールだって呑む。呑んで寝て、起きて働く。

これが、俺の人生なんだ。
絶頂でも奈落でもない、掘って埋め戻した土の様に平らで穏やかで無意味で、時にはこうして、落ち着いたバーでカクテルのひとつも味わえる日々。隣に居るのは青いドレスの美女・・・ではなく上司のおっさんだけど。

「誰がおっさんだって?」と上司が云う。
「カワホリさんっす。」と俺は応える。正直者なのだ、俺は。履歴書の『長所』にだって、ちゃんとそう書いた。
「あの、嘘ばっかりの履歴書か?ありゃ傑作だったな。」とカワホリさんは破顔する。それからカウンタに向けてグラスを掲げ、同じものを、と注文する。チョコレート・リキュールとミルクのカクテル。
「カワホリさんはちゃんと書いたんすか、履歴書に。『怖い顔に似合わず甘党です。』って?」
「うるせえよ。」

無敵の上司に一太刀浴びせて良い気分。だから今夜は、もう一杯だけ。
ほどよく緩んできた視界でメニュを眺め、まだ口にしたことのないカクテルを探す。俺が研究熱心だってこと、履歴書には書いたっけ?はは。

テーブル席の誰かのオーダー。マスターの静かな相槌。手際良い開栓と撹拌。注がれるグラスから、すう、と懐かしい香り。だがそれは刹那に遠のく。

匂い。
夜の酒場には匂いが咲く。多種・多様に咲き乱れる。
彩り豊かなリキュールの香料。オレンジ、葡萄、さくらんぼ。ミントにライチにチョコレート。
搾りたての果汁。レモン、ライム、グレープフルーツ。
一日の疲れに濡れた身体。その緊張と弛緩と眠気。
紫煙。ニコチンとタールとメンソール。
客が背負った、背負い続ける、それぞれの人生。それぞれの運命。
その香り。狂い咲く。

あの匂いだ、と俺は思う。
俺はマスターを呼び止める。「失礼、それはなんと云うカクテルですか?」
冬の夜みたいな顔をしたマスターは礼儀的に微笑んでから会釈する。「ブルー・ムーン。スミレの香りが特徴的でしょう?お作りしますか?」

俺は頷く。そっと目を閉じる。

ブルー・ムーン。
それは起こり得ない物。
例えば、ブラック・スワン。例えば、黒い緋鯉。(例えば、優しい上司。)
在り得ない、しかし、いつかどこかの世界の隅で、起こり得るかもしれない奇跡。
青い月。

「ねえ、カワホリさん。運命って、変えられるんすかね?」目を閉じたままで俺は訊く。
「知らねえよ。」と素っ気無い返事。

俺のグラスが運ばれてくる。俺の運命。在り得ない、在り得たかもしれない運命。俺はそれを、眺め続ける。

「どうしたよ、別れた女でも思い出したのか?」とカワホリさんが笑う。笑った顔は、あまり怖くない。
「まあ、似たようなもんっす。」と俺も笑う。それからひと息に、グラスを空ける。

□□□

駅までの帰り道、夜空の満月が綺麗だった。俺はそれを見上げた。
見上げた、満月が、綺麗だった。確かに俺は、それを見たんだ。
でも。その日その夜のその月が。何色だったかなんて。

さあね?もう、忘れちゃったよ。

/了

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