愚者の楽園:心当たりが在りすぎる。
ひとの世の旅路のなかば、ふと気がつくと、私はますぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた。ああ、その森のすごさ、こごしさ、荒涼ぶりを、語ることはげに難い。思いかえすだけでも、その時の恐ろしさがもどってくる!(神曲/ダンテ・アリギエーリ著/寿岳文章訳)
□□□
第一歌
気が付けば、暗い森に立っていた。
暗く、冷たく、しん、と眠る森。
訪れたのか。
或いは。
還ってきたのか。ぼくは?
「もう大丈夫、目を開けなよ。」
誰かの声。思わず従う。
閉じていたとも気付かぬ瞼を、ようやっと抉じ開けて世界に対う。
あれ?明るい。森、意外と明るいね。
いや森ですらない。これは、部屋だ。
壁に並んだふたつの扉。古い扉と光る扉。
光る扉の前に、男がひとり、立っている。
目元を白磁の仮面で覆った細身の立ち姿。
手には白と緑に塗り分けられた蛇頭の杖。
薄く頼りなさげな双肩と猫背気味の背中。
どこか見覚えのあるその貧相な身体からは、しかし常人とも思われぬ陽炎のような蒸気のような熱い気配が、ゆらゆらと立ち昇っている。
闘気。或いはオーラと呼ぶのか。
とにかく、只者では無さそうだ。
男はひとつ、くしゃみをする。
「ああなんか湯冷めしそう。」と洟をすする。
あ、お風呂上り?じゃあホカホカしてるのは湯気なのかな?
とにかく、どこのどなたか存じませんが妥当な助言をありがとう。
で、どなた?
「初めまして。わたしはウェルギリウスです。わたしはあなたを先導します。」
如何にも作り声な作り声と手元のカンペが気になるが、なんせ見知らぬ土地の見知らぬ部屋。先達がいるに越したことはない。
師事することを即決する。
「よろしくお願いします、ウ先輩。」
「ウ先輩。まあいいか。」
ふやけた声で、ウ先輩。
どうも聞き覚えがある声音と抑揚。
「あの、つかぬことをズバリ詰問して恐縮ですが、おまえミズタニだな?」
ミズタニ。腐っても尚切れ落ちぬ縁。ぼくのともだち。
諸々に、心当たりが在りすぎる。
ウ先輩はこりこりと頭を掻く。それから咳払いをひとつ。こほん。
「わたしはウェルギリウスです。わたしはあなたを先導します。」
突然降ってきた渦がぼくを呑む。時空が歪む。ぼくの時間が記憶が巻き戻される!と云う小粋で洒落たSFコントを世界に披露してから、ウ先輩が話を続ける。
「では、手札をお配りしますので、まずは枚数をご確認ください。尚、何事も最初が肝心ですので、この台詞は出来るだけ尊大に厳かに、低い声で宣言しましょう。あ、これは引継ぎのメモか。ごめんごめん。」
ふやけた仕草で頭を掻く。
頼りないにもほどがあるボーイだが、大丈夫だろうか。
長風呂で、ちょっと湯中り気味なのではないだろうか。
心配を他所に、6枚のカードが配られる。
ぼくの手札。手札?何の?
「ちゃんと3枚ありますか?しっかり確認してくださいね。」
え、3枚?
ぼくの手の内には6枚ある。
だがこう云う時こそポーカーフェイスの鉄面皮。
ゲームはもう、始まっている。
ぼくは咄嗟に1枚を抜き取り、お尻のポケットに素早く隠す。
切り札の存在が、勝敗を分ける。これはゲームの鉄則だ。そして人生の。
そして。
「ウ先輩、2枚多いようですが。」
余った『2枚』を素直に返す。
欲張りすぎないこと。それもまた鉄則のひとつなのだ。
「あれ?多い?おかしいな、何か混ざったかな。」
手元のカンペ的マニュアル的用紙を確認しながら、要領を得ない顔のウ先輩。
ぼくは脳内の「ウ先輩評価値」を少し下げて、備考欄に「ちょっとうすらぼんやり」と書き込んでおく。
「どうぞ気にせず説明を続けてください、ウ先輩。」
「うん?そうかい、じゃあ読むよ?」
ウ先輩はもはや憚ることなく、マニュアルを広げて読み上げ始める。
「さて。この扉を出てなんだかんだであちこち歩くと、やがて門がある。門には扉があり扉には錠が下りている。おまえはおまえの手札を使い錠を扉を門を開かねばならない。手札を、おまえのための鍵を大切にしなさい。もしその鍵が損なわれ錠の中でまともに回らな、」
頁を捲りながら、息継ぎ。
「回らない、時には、金輪際、その入口は開かれないであろう。そして最も重要なことは、入口とはつまり、出口でもあると云うことだ。わかりますね?」
正直、よくわからない。
そもそもここは何処で、そして何処へ出ようと云うのだろう。
ぼくは。ぼくたちは。
「まあ詳しいことは歩きながら追い追い話すよ読んでから。とにかく、まずは最初の手札を見てみよう。」
追い追い。ふむ。
まあ良い。抜き出す。翻す。数字。ぼくはそれを読み上げる。
「11です、ウ先輩。」
「11。最初から飛ばすねえ。」
ウ先輩が杖を持ち上げ、コンコンと音高く扉を叩く。
光る扉。それが開く、音もなく。
不安と期待に立ち竦むぼくにやさしく頷いてメモを見て。
ウ先輩が高らかに宣言する。途中で一度だけ声が裏返る。
「では出発しヨう。ようこそ、地獄巡りツアーへ!」
□□□
第二歌
歩いた。
歩き続けた。
灰色の世界が続いていた。
遥か彼方まで道はひとつだけ。迷う心配はなさそうだった。
道の脇に立ち並ぶ木々には葉も花もなく、まるで骨格標本のように生真面目に静止して、ぼくらを出迎え無言で見送る。
気を抜くと滑りそうになる凍った大地を、ぼくたちはゆっくりとゆっくりと、虚ろな亡者のような足取りで歩く。
寂しい。とぼくの目が思う。ここにはあまりにも色彩がない。
歩けど歩けど変わらぬ景色が、ぼくから時間の感覚を奪い去って行く。
歩く。ただ。ウ先輩の猫背と、氷漬けの地面とを交互に見ながら。
陽光は薄く、影すら姿を現さない。
歩く。ただ歩く。歩き続けて。
突然視界が華やぐ。
紅く鮮やかな葉。視界が潤う。
こんな場所に、こんな場所が、まさか?
「本来、ここでは紅葉は見られないんだってさ。ここは常に寒すぎるものね。寒すぎて、冷たすぎる。日照も気温も変化しない。変化しないものは、つまり死んでいるも同然なんだ。ここにはただ死だけがあり、復活はない。常冬の世界。だから、紅葉する道理も必要もないんだ。本来はね。」
ずっと黙って歩いていると思ったら、どうやらしっかりとマニュアルを読み込んだらしい。
「だけど。」ウ先輩は語り続ける。
「ここにも、熱を帯びる場所がある。あちらこちらで、罪びとを愚者を灼くからね。つまり、愚者を灼くその熱が紅葉をもたらしている。わかるかい?だから燃える炎が強く苛烈で凄惨な場所に近づくほど、景色は美しくなる。皮肉なものだよねえ。」
光でなく熱に照り散る葉。地獄の晩秋。
燃えるような紅葉の先に、門が見えてきた。
重々しく、冷たい扉。
銅板に彫られ掲げられた『11』の意匠。
「11は統一。」
ウ先輩が口を開く。
「だがそれは、犠牲と罪の果ての統一。今はもうそこにない『切り捨てられた罪』が、より鮮やかに照射される。」
意匠の下に、縦に鋭い切れ込みがある。
「それが錠だよ。さあおまえの鍵を、そこに。」
あ、カードキーなんだ?思ったより現代的。
ぼくは手札を取り出す。そして戸惑う。
ぼくはカードキーが嫌いだ。嫌いと云うか苦手だ。
なんと云うかなんと云うべきか。
表とか、裏とか、どちらを上にしてとか右にしてとか、咄嗟に判断するのが苦手なのだ。
恥を掻く前に、先達を頼ることにする。
「これ、どっちが表ですか?」
ウ先輩が慌ててマニュアルを確認する。
ぼくはそれを、見て見ぬ振りをする振りをして凝視する。
「ええと、数字。数字が表みたいだよ。それを右に向けて、入れてみてくれる?」
云われた通りにスリットを通す。
赤ランプ。点灯。点滅。消滅。沈黙。
「開きません、ウ先輩。」
憐れ、我が入口そして出口は絶たれたり!
ゲームはぼくの敗北だ。
暮らすのか、ここで。ずっと?この凍えた世界で凍えながら?
「あ、ごめんごめん。逆だ。」とウ先輩が云う。
逆?
「ごめん説明が悪かったね。右、つまりおれから見て左だよ。」
それは、ぼくから見てもやはり左では?
釈然としないがやり直す。
スリットにカード。数字を左(『ぼくたち』から見て、左)。
赤ランプ。点灯。点滅。消滅。
青ランプ。解錠。やれやれ。
ぼくは扉を抜ける。続くウ先輩の背後で、音もなく扉が閉まる。
熱が襲ってくる。
見る者の眼球も焦げそうなほどに黒い炎が、部屋の中で渦巻いている。
ファッションパンクスが、灼かれていた。
ウ先輩が近づき、手にした杖でコンコンと頭を叩く。
「さておまえは何故、灼かれているのか。」
「それはァ、オレがホンモノだからァ!!」
ファッションパンクスは、二の腕のタトゥを誇らしげに見せつけてくる。
そこにはカタカナで「プロミュージシャン」と彫ってある。
ああ憐れ。目も当てられない。
「世の中はァ!大衆はァ!豚なんだよォォォ!!」
興奮するファッションパンクス。
ウ先輩が頭をコンコンと叩いておとなしくさせる。
「いいからちょっと静かに話してくれる?」
「はい、すみません。オレは思うんですけどね、大衆って豚じゃないですか。」
「豚。大衆が。すると、君も豚なのかな?」
「オレはァァァ違ァ」頭をコンコン。「すんませんすんません。オレはあいつらとは違いますよアンタらともね。オレは本物ですオレだけが。オレは音楽を愛しているし音楽はオレのすべてです。翻ってアイツらはどうですアンタらは?街で流れるヒットソングのくだらなさといったら?それを盲目的に受容する大衆!ねえ旦那、愚かだと思いませんか。奴らは自分の耳で、本物を聴き分ける能力も意思もないんですよ。だから『声がでかいだけの狡猾な悪魔』に騙されちまうんだ。『流行ってるンだヨ』『スッゴク話題なンだヨ』『聴いてみヨ』『ステキィ。わかるゥ。この感じわかるゥイイヨネー。いわゆるひとつの共感しちゃうわかるゥ泣けるゥ!ほろほろりん。』馬鹿どもめ!オレは奴らを啓蒙したいんだ!オレの歌を聴けよオレの叫びを!そしてみんながオレを凄いと思うべきなんだ。そうしてようやく世界はまともになるんだ!見てろ聞いてろ感じろ豚ども。オレは世界を変えますよ旦那。徒党を組んで殴り込むんだ。創造のための破壊だ!新しい価値、正しい価値で世界を清く塗りつぶすんだヘーーーール!」
狂っている。何たるテロリズム。なんたるファシズム。
悪魔を妬み、その座を奪わんと企むもの。うんざりだ。
愛が足りない。きみには愛が、足りないよ。
そうだ、いつだってなんだって。
楽しみ方も熱量も、みんなそれぞれに違うんだ。
何故それがわからんのだ。何故わかろうとしないんだ。
塗るな、世界を。殺すな、誰かの愉悦を。
「ウ先輩、もう行きましょう。」
眩暈がする。胃腸が跳ねる。
「待てよォ!
オレの歌を聴いて行ってくれェ!
そして褒めてくれェ俗物めェェ!
それではお聞きください。
♪オレはミスターボマー(ボムボム)♪
♪芸術の代弁者ァ~(ボムボム)♪
♪権力者を(ボム!)葬って(ボム!)♪
♪花を愛でようよ~(ボムボム!)♪
どうだァい超イカスだろォ!!」
ギターリフも発声法もNirvanaの三流コピーだった。
エピゴーネン。リスペクトなどそこには微塵も無い。
ぼくは首を振って歩き出す。
「ジェイポォォォォップス!」
「アイドル歌謡ォォォゥゥ!」
ファッションパンクスは、呪いの言葉を吐き続ける。
「間奏で謎の棒読みラァァップ!」
「ネットCMがタイアァァップ!」
吐き続ける。
灼かれ焦がされ燃え尽きながら。
彼は呪う、世界を人々を。己以外のすべてを。
憐れ。あまりに憐れなりけり。
ぼくは扉を閉める。強く堅く。
勝手に灼かれてろ、そこで。
「ニホン、レコーーーーードタイショォォォォォォウ!!」
それが、ぼくが耳にした彼の最期の言葉だった。
□□□
第三歌
行く手の雪と周囲の闇とが、深みを増してくる。
最初の門を抜けたぼくたちは、絡みつき縋る深雪の上を一足一足、慎重に歩み続ける。
先程感じた怒りと憐みの熱も、いつの間にか冷めきってしまっていた。
一足一足。積もる雪を払い蹴り上げながら。
一歩また一歩。進む。
のうみそが、じんと痺れてくる。
ぼくは、一体何をしているのだろう。
何故、こんなところでこんな苦労をしているのだろう。
「地獄では、沢山の愚者が灼かれています。不正に富を得たもの。不義を重ねたもの。高慢。貪欲。嫉妬。憤怒。色欲。貪食。怠惰。それぞれの罪に応じてそれぞれに。その過酷さの一部を気楽に安全に体験していただくのが、本ツアーの目的です。ちなみにこれは表向きの説明であり、本来の目的とは異なりますが、そのことは参加者には伏せておきましょう。あ、これは内部資料か。ごめんごめん。」
たった今ウ先輩の口から何か重大な秘密が開示されたような気もするが、反芻してみる気力がない。
心にシャッタを降ろして、ただ歩き続ける。
時折、路傍に小さな渦が見えた。
そっと静かに昏さを放つ、渦。渦巻く渦巻き。
覗き込もうと屈むぼくを、ウ先輩が杖で留める。
「あんまり近づくと、呑まれるよ。」
呑まれる?こんな小さな渦に?まさか。
「大きさは重要じゃない。渦は力だ。力と力の捩じり合いだ。それは否応なく周りを呑み込んで連れ去る。」
連れ去る?何処へ?
「始まりへ。或いは終わりへ。同じことだ。それは互いが互いを捩じり合っては互いに捻じれ合っているんだ。気付かなかったかい、最初の部屋にも、それは在ったんだよ。」
思い出せない。ぼくはそれを見ただろうか?
「おまえは一度そこを通った。時間は歪み、再びそこに降り立った。気を付けろ、旅立った以上は二度と呑まれるな。またあそこから、遣り直すつもりかい?」
良く分からないが、冗談じゃない。
やっとここまで歩いてきたんだ。
「じゃあ、歩け。進もう先へ。」
ぼくは首を振る。振りながら、しかし歩く。
多分、そうするしかないのだ。
無言で歩いた。長い時間。ただ無言で。
叉路に出る。
「選びなさい、運命の手札を。奇数は北、偶数は南。」
ウ先輩がマニュアルを読み上げる。
南へ行きたい。
勿論地獄の方位が気温と関係するとは限らないけど、それでも、南に。
ぼくは祈るような気持ちで手札を引き抜く。
(祈るような?いったい何に?)
翻す。だが。
それは、数字では無かった。
カードにはくっきりと、漢字で『丼』と記されている。
あれ?
「ウ先輩、丼です。」
「丼?」
「どん。どんぶり、かな?」
「どんぶり。え。ごめんちょっと見せてもらえる?」
どうぞどうぞ、ごゆっくりとじっくりと。
ウ先輩は仮面越しにも窺える当惑の表情でその丼カードを眺め、撫で、匂いを嗅ぎ、それから思いついたように、己の衣の懐を探る。
仮面に浮かぶ、得心と安堵の表情。
「ごめんごめん、これは食券だよ。最初に渡す時に混ざっちゃったんだなあ。ふふふ、変だと思ったよ。」
混ざっちゃったんですか。食券が。そうですか。
「まあ、いい機会だから食堂に寄ろう。」
ほっとする。勿論、否はない。
とにかく今は、ちょっとだけでも休みたいんだ。
□□□
巨大なかまくらの中に、その食堂はある。
コンビニ王者ヘヴンイレブンも流石に出店を躊躇う地獄地方、貴重な食糧補給場所とあって、店内は活気に溢れている。
「らっしゃイイィ!三名様ですねェ!」
え?!誰か背後にいます?
「あれ?失礼二名様。食券お預かりしま~す。本日の丼、カレーになりますがマズさとご飯の冷たさは如何なさいますかァ?」
ほう。マズさ。そして、冷たさ。
初心者には注文の難易度が高い。
「ちょっと、時間下さい。」
「お決まりになりましたら、お手元の頭骨を叩いてお知らせくださァい。テーブル3番様オーダー日替わり丼、レベルまちで~す!」
ほう。頭骨。そして、レベル。
落ち着いてメニューを確認する。
選べるマズさ10段階。
1:出来立て泥人形風味
2:反抗期の泥人形風味
3:「役者になる」とハンドバッグひとつで夜行列車に飛び乗る泥人形風味
4:だが現実は甘くない。都会で砂を噛む泥人形風味
5:巡ってきたビッグチャンス。拾った財布をきっかけにハイパーなメディアのクリエイター的エグゼクティヴCEO(混沌極まるネット時代を軽い足取りでサーフする、そこそこハンサムな若き革命児)と知り合った泥人形だったが、お情けで誘われたセレブリッシュなパーティーの華やかさに気後れして結局逃げ出してしまう。川原で涙を流す泥人形。だって俺は口下手なんだ。人見知りなんだ。母さん。父さん。もう田舎に帰るしかないのか。帰りたい。高架下に嗚咽の響く深夜風味
6:病気がちで部屋に閉じ籠り気味な泥人形風味
7:泥にまみれた半生を赤裸々に描いた私小説が塵芥賞候補に!有頂天になる泥人形。だが落選。「タイトルを見ただけでうんざりした。」との選評に絶望を覚え筆を折り世を呪う泥人形。
8:一切は、過ぎてゆきます。私は元気な泥人形です。
9:悟る泥人形。おれよ、泥人形たれ。おれは金輪際、泥人形だ!
10:スーパー泥人形、誕生。君はこの最強のマズさに立ち向かえるか!
みんな、苦労してるんだなあ。
しんみりとほろ苦い気持ちで注文を終え、マズさ1、ご飯自然解凍、の初心者向け地獄カレー丼を受け取りに配膳コーナーへ向かう。
「お待ちどォさま!ん?あらまァチョイとォォまえさん、本日666人目のお客サマだヨォ!紅茶サービスしとくワネ。」
「え?ああ、ありがとうございます。」
志ん生の火炎太鼓に出てくるおかみさんみたいな牛鬼が、アラジンの魔法瓶を出してくれる。
物は試し。縁の欠けた湯呑に注いでみると、グラグラと煮え立つ流動体。
怖いもの見たさ。勇気を見せろ。冷まして冷まして冷まして、ひとくち。
毒々しい血色と異臭、舌と心を刺し貫く、豊富に過ぎるパンジェンシー。
得も云われぬほど、地獄ブレンド。かっくんかくりと心が深く捻挫する。
「ありあとやしたァ!またのお越しをォ!!」
ありがとう、多分、もう来ませんが、お元気で。
ぼくはがくりと落とした肩にアラジンの魔法瓶をぶら下げて、再び荒野に舞い戻る。
旅はまだ、半ばだった。
□□□
第四歌
補充された手札に従い、次の門へ。
2の手札を錠に挿す。
赤ランプ。点灯。点滅。消滅。青。
今回はスムーズに、解錠の手続きが完了する。
「2は均衡。並び立つもの。だがそれは別離の開始であり、選択の強要。おまえはここで、始まりに向き合うことになるだろう。」
相変わらずのウンチク先輩。ご託宣はもううんざりだ。
道に唾したい気持ちをぐっと堪える。
ぼくはすっかり荒んでいた。唇は割れ、心は乾く。
もう誰ひとり何ひとつ、この荒れ果てた心に花を咲かせることは出来ないだろう。
煙草でもあれば、と強く思う。
苛立った気持ちをぶつけるように、力を込めて扉を開ける。足を踏み入れる。ウ先輩の後ろでそれが閉まる。
匂いがする。香ばしく、優しい匂い。
それから耳に、甘いピアノの響き。
なにこれ、素敵。ぐっときちゃう。
パン屋だった。
狭い店内に、焼き立ての商品が並んでいる。
パン屋だ。ぼくの心が顔がほころぶ。
心に花を、唇に歌を、旅のお供に美味しいパンを!
サンドウィッチにクロワッサン。
かりかりのガーリックブレッド。
バジルの効いたチーズトースト。
甘いバタークリームサンドには、可愛い砂糖漬けチェリーがひとつ。
「ドーナッツにしようかな。あ、でもカレーパンも美味しそうだね。」
ふやけた声。
振り向けばそこに黒縁眼鏡。え、ミズタニ?
「なんだよ、キツネうどんにツナ入れたみたいな顔して。」
や、ごめん、ちょっと喩えが良くわかんないけどそれはそれとして。
「ウ先輩はどうした?」
「失せぬ蠅?」
妙に真剣な顔でミズタニ。いやいいんだ、悪かった。
そうだ。
散歩の途中で立ち寄った、馴染みのパン屋。
あれこれと迷いトングした挙句に結局買い過ぎてしまい食べ過ぎてしまい昼寝してしまうのが良いパン屋であると確信しているぼくにとって、ここは理想のパン屋だった。
シンプルな白パン。
ライ麦が香る黒パン。
バッチリ長持ち乾パン。
ジャムにクリームにチョコレート。
どれもこれもがあれもこれもの大騒ぎ。
カウンターの横の日替わりワゴンには、新作らしき商品群。どれどれ。
地獄の海の幸をたっぷり使ったヘルシー・バーガー(hell's sea-burger)。
ぷるぷるの目玉焼きをのっけた、満月トースト。
目玉焼きどころかバターのひと片ものってない、新月トースト。
「新月トーストは、シンプルで美味しそうだねえ。」とミズタニ。
いや、騙されるな。それ多分ただの食パンだぞ。
わいのわいのとわいわいわい。
もうひとつだけ。もうひとつ。おまけにこれを、ひとつだけ。
結局ぼくはまた欲望のままに山盛りになったトレイを、古びた、だが清潔に磨かれたカウンターに差し出すことになる。
「毎度、ありがとうございます・・・」
白いシャツに緑のベスト、ドラクロワみたいな顔をした店主が、陰気な声と手付きでレジを打つ。
毎度のことだ、愛想なんてどうでも良い。
お釣りを受け取り財布に仕舞い、さて帰って何から食べようか。
陰気な店主が陰気な眼付きでぼくの左手をちらり視る。
「では本日のポイントを・・・おやお客様、ポイントカードが、いっぱいに・・・なりましたね。」
ポイント?
そう云えば。
客の左手に架空のスタンプを押すフリをする、陰気な店主の陰気な奇習。
足繁く通ったせいか、ついに一杯になったらしい。何が?
「おめでとう、ございます・・・福引の、機会を得られました。」
陰気な店主が陰気な仕草で福引ガラガラ抽選器を取り出し、陰気な慎重さでカウンターに置く。
福引マシン!ぼくの胸は高鳴る。
良いね、実に良い。
ぼくは好きだよ、福引ガラガラ抽選器。
景品はなんだろう。無料券とか嬉しいよね。
「1等は、王位継承権・・・です。」
王位、継承権。なるほど。それはちょっと、手に余るね。厄介だね。
以下、
2等:オフィーリアの心の錠の鍵
3等:ベレニスの歯
4等:クベン=ニエプレの蝙蝠足
5等:傷ついたロゴス(扉のない鳥籠入り)
6等:地獄巡り(ペア券)
7等:火花
8等:元気な犬のシール
どうにもこうにもロマンだね。
8等以外手に余るね。厄介だね。
辞退することは可能かな?不可能なの?不可能なのか。
じゃあ、ままよ。
ぼくは握る。ぼくは回す。
運命の取っ手を。
握って。回して。
カラン。と鳴いて、玉が転がる。転がって。ぼくはその玉を。
ぼくはその玉をどうしたろう?思い出せない。
「結果ですか?」とぼくは尋ねる。「その結果の、ここなのですか?」と。
ウ先輩がちいさく頷く。「結果であり、可能性だよ。」
「そしてそれは、まだどこかで並び立っている。」
だとしたら。還りたい、とぼくは思う。
あの場所へぼくの世界へ。
だから、はっきり口にする。
「還りたいです、あの世界へ。」
ウ先輩が頷く。こくりと小さくだが力強く。「そうだね。」と。
「だから今はまず、ここを抜けなくちゃ。さあ、最後の手札を。」
ぼくも頷く。そうだ。やっぱり。
多分、そうするしかないのだろう。だから。
ぼくの手札。気持ちを込めて、翻す。『12』。
「12。」それを確認して口にして。
ウ先輩が優しく笑う。そして静かにぼくを励ます。
「行こう、ハギワラ。そこは遠いが、でも。必ず在るんだよ、必ずね。」
□□□
第五歌
そこは更に雪深く冷たく暗い世界だった。
渦巻き渦巻く渦が、道なき道のあちこちにぽかりと口を開けていた。
狙われている、と感じる。震える、不意に。
それは感覚。冷気によって研がれたアンテナ。
感知する。否応なく。アンテナが心が震えだす。
その渦はこれまでの旅路に路傍にあちこちに、密かに置かれるままに置かれていた渦たちとは明らかに質の違った禍々しい青さをその身に宿して、ただただ世界を凍り割るほどの凍えた冷気を吐き出しながら、虚無すら吸い込みそうな大口を開け、広げ、枯草に覆われた狩猟罠のように姑息に、狡猾に、貪欲に、愚かな獲物を待っていた。待っている。
ぼくはそれを感じる感じた。
感じてそれでもだからこそ。ぼくは呼ばれる。
呼ばれてふらふら覗き込めば。
それはどこまでも続くかのように深い嗚呼どこまでも深く果て無く深い渦巻き渦巻く螺旋階段。らせんらせんらせん。吸われる。心が遠くなる。
「ハギワラ。」
ウ先輩がぼくを叱咤する。しっかりとぼくの名前を呼ぶ。
ぼくは螺旋から目を離せないままに、その声をぼくの名前だけを命綱にしてなんとか世界に踏み留まる。留まり続ける。続けたい。でも。
らせんらせん。螺旋螺旋螺旋が呼ぶんだ。
ぼくの額から汗が流れる。それは刹那に凍って皮膚を裂く。流れた血が凍りぼくを裂く更に深く。ぼくはバラバラになる。
「ハギワラ。」
ぼくの名前。ぼくの名前だけをウ先輩が呼ぶ。ぼくも念じる。
ぼくはぼくを縒り合わせる凍えた指先で不器用に。
ぼくであることを世界に誰かに証すためだけに口を開く。
「螺旋だ螺旋。らせんが来る。ねえ、この青い螺旋は、渦は、どこに、続いてるんですか?」
「奥さ。最奥。そこでは氷漬けのル※※※※が、ただ永遠を眠っている。」
ウ先輩の声が聞き取り難い。
伝播を遮る凍った大気のせいか。
名前に宿る忌まわしさのせいか。
ぼくは懸命に心を起こし背を立てて、青い渦から距離を取り、慎重に歩く。
しかし螺旋だ。周りは螺旋だらけだった。
慎重に。ただ慎重に。自然、歩行可能な箇所は限られてくる。
「それで良いんだよ。ひとびとが無事に歩いた場所だけが、道になる。無謀と勇敢を穿き違えてはいけない。・・・さあもうすぐだ、見えてきたよ。」
吹雪く世界の果てに、最期の門。扉。
黄金に輝く『12』の刻印。
辿り着く。辿り着いた!
「12。それは循環する円。それは救済。それは結果。すべての選択と運命の、その。神の3。人の4。掛け合わせて。ああ・・・吊られた?いや、大丈夫だ。。。大丈夫だよ。なあ、悪いけど、ちょっと杖を持っていてくれないか?」
両手で仮面を押さえて、ウ先輩。
透き通るように白い顔の色。吐息が熱く荒々しい。
ぼくは杖を受け取りそれを支えに、彼の薄い身体を受け止める。
疲れているのだ。ぼくもウ先輩も互いに互いが。
それだけ厳しい旅だったのだ。
だが。それも、もう終わる。
門の前に座り込むウ先輩に感謝の意を込め頷いてから、ぼくは大きく息を吸い込む。
スリットに手札を挿し入れる。
点灯。点滅。消滅。
灯る青ランプ。開く!歓喜が沸き上がる。やっほう!
踊り出しそうなぼくの興奮と感激を他所に、あっさりと扉は開く。
荘厳な音もなく、感じる程の手応えもなく。あっさりと。あまりに。
開いた扉の向こう側。
陽気な音楽。眩しい光。祝福の風が流れ出る。
それは、祝祭の部屋だった。
ぼくは足を踏み出す。踏み入れる。足早に駆け込んだぼくの背後で、音も立てずに扉が閉じる。
ぼくはそれを、気に留めない。
□□□
ぼくはそれを、気に留めなかったのだ。莫迦め。
□□□
それは、祝祭の部屋だった。
ジングル。ジングル。ジングルベル。
緑。そして赤。天井から床まで、可憐に愉快に飾り付けられた賑やかなその部屋の中で、可愛い動物たちが歌い踊り、陽気に宴を楽しんでいた。
ジングル、ジングル。ジングルベル!
銀紙の星。黄金のベル。広場に山積みの菓子とフルーツ。
幸福と無憂に彩られた、色鮮やかで賑やかな、パーティ。
『メリークリスマス!お誕生日おめでとう!』
動物たちは唱和し踊る。
うさぎが踊る。くまが踊る。たぬきがごろごろ転がっている。
一匹のうさぎが輪を跳び出して、はにかみながら菓子を差し出す。
「リンゴのパイだよ!君は嫌い?それとも好き?」
ぼくは礼を云ってそれを受け取る。
「ありがとう、アップルパイは大好きだよ。」
うさぎはにっこりと笑う。白い前歯がきらりと光る。
「良かったぁ。ねえぼくはベルゼル!さあ広場で一緒に踊ろうよ!」
手を引かれるがままに、ぼくは中央に誘い込まれる。
広場。広い、広い場所。
焚火を囲んで動物が踊る。
石窯で焼かれた粋な料理が次々と輪の中に運ばれてくる。
りんごのパイ。乳と蜜のピザ。動物の形をしたクッキー。
次々と焼かれ、運ばれる。
ヴヴ。ヴーヴ。天井では巨大なファンが必死の形相で排気と排煙に努める。
その音を掻き消すように隠すように、彩り豊かな花火が上がる。上がっては消え、消えては上がり。
耳に心地良い炸裂音。ボム!
負けじと回る換気扇。ヴヴ!
賑やかだ。なんて賑やかな場所、宴。
ぼくたちは焚火を囲んで踊る。
足がもつれて何度も転ぶ。
実を云えば、ぼくは世の大抵のことはなんだって人並み以下に器用にこなせるのだが、ダンスだけがちょっぴり致命的に苦手なのだ。
ふらつくぼくの足取りを見て、動物たちが陽気に囃す。
「みぎ!ひだり!ほらもっと足をあげて!」
ぼくは堪え切れず笑いだす。動物たちも笑いだす。
うさぎが笑う。くまが笑う。たぬきはごろごろ転がっている。
別のうさぎが跳び出して、ぼくのお尻を軽くつつく。
「ヤア!わたしはプップ。リンゴの泡ワインはいかが?」
ありがとう。受け取る。飲み干す。
火照る身体に心地良く染みる。
「イケる口だね?じゃあもう一杯!」
受け取り、飲み干す。良い気分。
ああ、実に良い気分じゃないか諸君!
これこそ、ハッピーエンドって奴だ。
ぼくは笑う。動物たちにお辞儀する。
激メルヘンチックなカーテンコール。
ぼくは旅の終わりに乾杯する。乾杯!乾杯!
グラスじゃ足りない、どうぞボトルをもう一本。
「さあどうぞもっと!どうぞ心から祝福を!」
うさぎ。ベルゼル。いや、プップか?
注がれるままに杯を重ねる。
火が燃える。
花火が上がる。
換気扇は休まず回り続ける。
ヴーン、ヴーン。ヴ。ヴ。それだけがどうも耳障り。
木が運ばれてくる。
ぼくは酔った眼球でそれを見ている眺めている。
木が運ばれてくる。
二本の木。双子のように良く似た形の。
くまが受け取り、それを焚火の脇に立てる。
動物たちがわっと沸く。「ホサナ!」
歓声を上げる。踊り続ける。「ホサナ!ホサナ!」
「われらが主だよ!ホサナ!ホサナ!」
「もうすぐ復活なさるんだ!ホサナ!」
うさぎが踊る。くまも踊る。たぬきはごろごろ転がり続ける。
少し落ち着いたらどうかな、たぬき。
蛇が出る。
冷たい舌で、ぼくの頬を舐める。
思わず身を引く。酔いが飛ぶ。
蛇。白い身体に緑のライン。
見覚えがある。杖?ウ先輩の杖か?
・・・ウ先輩。
見渡す。見渡し、見当たらない。
蛇がぼくを見る。割れた舌を出し、背後を指す。
扉。しっかりと閉じている。
閉じた扉。閉じた時。
あの時、ウ先輩は後ろにいたか?
思い出す。思い出せない。思い出せ思い出す。
そうだその時ぼくの背後で、扉は閉じた。
跳ね起きる。駆け出す。
ハッピーエンド?冗談じゃない。
これは、正しい、結末ではない。
「どうしたの?」ベルゼルが駆けてくる。
「もっと飲んで踊ろう!」プップも駆けてくる。
二匹の動物が、扉の前に仁王立つ。
「連れがいない。迎えに行く。どいてくれ。」
「ウェルギリウスのこと?」
「あのひとは、駄目だよ。」
「あのひとは、先には行けないよ。」
何を云ってるんだこの動物どもは?
「ウェルギリウスは偉大な詩人。でも」
「紀元前に産まれ紀元前に死んだ」
「それは神さまが、産まれる前だよ」
「神さまを知らずに生きて」
「神さまを知らずに死んだ」
「神を知らずに生きて死んだ」
「救われないよ。呪われているのさ」
「救われない。残念だけど。呪われているから」
「だから灼かなくちゃ!」
「だから吊るさなくちゃ!」
「そしたら、きっと神さまは喜ぶよ!」
「きっと大笑いして喜ぶよ!」
「「はやく見たいなあ!!」」
ヴーヴ。ヴンヴ、ヴ。
不快な音が鼓膜を叩く。
吐き気を誘う旋空音。
暗く薄い羽音。
動物の姿が黒く滲む。滲んで、集まり、広がって。
それは形作られる。複眼と触覚。頭骨文様の浮かぶ薄羽。
「よろこぶだろうなあ、神さま。自分の大事なものを灼かれて、それでもだからこそきっと、満足でご機嫌に笑うだろうなあアイツ。痴呆みたいに恍惚の涎を垂らしてさ。あは。あはは。俺もきっと笑うよ。ごきげんよう、って俺は云うよ。馬鹿笑いするアイツを指さして、俺も大声で笑いながら。ごきげんいかが?ってさ。あは。愉快じゃないか?あはは。あははは。あはははは。あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははhhhhhhhh!!!!!」
蠅だった。それは巨大な。ヴーヴ。ヴンヴ、ヴ。
それは高速で空気を叩き撹拌しながら、扉の前に立ちはだかる。
にやにやと顔を歪ませて、退かず、下がらず、立ちはだかる。
失せぬ蠅?ははっ。莫迦莫迦しいにもほどがある。
莫迦莫迦しいにもほどがあるから「蛇!」とぼくは呼ぶ力の限り。
それは這ってくる疾風のように。
そしてひと息に蠅を呑み込む。
「これはどうも・・・大きいですね。けほ。おっと失礼。」
しっぽの先で口元を拭う。
部屋は静まり返っていた。
うさぎは黙りくまは黙りたぬきはごろごろ転がっている。
きみのそう云うところ、正直嫌いじゃないぜ、たぬき。
「急いだ方が・・・よろしいのでは?」蛇が促す。
「ウ先輩の場所がわかるかい?」
「ご案内をいたしま・・・む?」
良く見ると割と彫りの深い、ダンディな蛇の顔が歪む。
膨れ上がっていた腹が、急激に萎む。
「む・・・か、はっ。」吐き出す。血塊。毛針。ゴム製の蠅。
蛇が再び口元を拭う。
「・・・ご無礼を。どうやらこの<fly>・・・<蠅>で無く<疑似餌>だったようです。なかなかどうして、あちらも駄洒落がお好きと見えます・・・」
ヴーヴ。ヴンヴ、ヴ。それは確かに、どこかで鳴る。
いまだ失せぬ蠅。なんと狡猾で駄洒落好きな。
「走れそう?」無理と分かって訊く。
「無念ながら・・・どうも今、暫し。が、必ず追います。彼はおそらく、ここで、いっとう熱い場所に」
蛇はがっくりと杖に戻る。転がる。一瞬迷って、置いて行く。
今は別々に動いた方が良い。ぼくは鉄則を思い出す。『欲張りすぎないこと。』そうだ。今はとにかくここを出て走れ。
ヴーヴ。ヴンヴ、ヴ。音が寄る。
ぼくは全力で走り出す。
ぼくは知っている。知っているはずだ。
紅葉だ。
ここで最も美しい紅葉。それを探せ。
ぼくのともだちは、きっとそこにいる。
□□□
第六歌
『0』。
扉にはその数字だけが描かれている。
閉じた円環。虚無。愚者。
だが象徴も暗喩も、最早どうでも良い。
迷わない。蓄えた力。その遣い所を誤るな。
お尻のポケット。
切り札を取り出す。今がその時だ。
それは白紙のカード。
ぼくのペテン。ぼくのジョーカー。挿す。
扉赤ランプ点灯点滅消滅青ランプ解錠確認するより早くそれを押し開ける。
煮え立つ釜に肩まで浸かり、ウ先輩が煮られていた。
「わっ、エッチ!」裸のウ先輩が、慌てて両の掌で目元を隠す。
あ、やっぱりそこは厳守なんだ?
「大丈夫ですかウ先輩!かなりぐつぐつ煮られてますけど。」
「大丈夫じゃないよ。あついよ。あああついあつい。」
すっかりふやけた声に、真剣味がない。
「逃げましょう。」もういいじゃないか、こんなコメディ。
「や、おれこの後、灼かれて吊られる予定なんだよね。」
言いなりか。役人か。お前はマニュアル人間か。
「なあ、ミズタニ。」
「おれは、ウェルギリウスだよ。おまえを導くものだよ。ただおまえを。」
やれやれ保護者気取りかよ。
「もういいんだよ、そう云うの。還ろうぜ。」
「うん。まあ、そうかもね。」
ミズタニが柔らかく笑う。
だが警報が鳴る。何かが誰かが、ぼくたちを見ている。ヴヴ。
警報が鳴る鋭く。「逃げよう。」ぼくは云う、だが何処へ?
「森に戻れハギワラ。おれたちが出逢った場所。森だ。森の入口だ。入口がつまり出口なんだ。」
しっかりとした声でミズタニ。曇ったレンズで目は見えない。
なるほど。だがどうやって帰る?道のりは遥か遠い。
不吉に凍るあの道を今から徒歩で?
「渦だよ!渦を使え、ハギワラ。」
渦!渦巻く渦巻き!ぼくの旅の扉!それは『始まり』に続いている!
「おまえはどうするんだよ!」
「大丈夫だ。」とミズタニは云う。
何が大丈夫なんだこのふやけ妖怪。
この期に及んでまだ先輩風を吹かす気か?
「大丈夫だ。大丈夫なんだ。心配要らないよ。とにかくおまえが、そこに立つことが、重要なんだ。だから頼む、走れ!」
せーので飛び出す。駆け出す。渦!最も近い渦は何処だ。
上下も左右も雪雪雪でまっしろだ。
ぼくは駆け出す。闇雲に駆け出して兎にも角にも滅茶苦茶に駆け回って。
見失ってしまう、道を。
ちくしょう、肝心な時にぼくはいつもこうだ!!
なんて泣きべそかいてる場合かよ!
思案して立ち止まるぼくの足元を、何かが一気に追い抜く。
何かが。何が?蛇。蛇だ。脇目も振らず、一直線に這う。
刹那も迷うな。迷わない。今は。ただただ。追え、奴を。
ついて走る。信じろ。信じる。追え、走れ!
走る。走る。走る。
息なんて止めろ。吸うな。吐くな。
後でまとめて好きなだけ。だから今は。
走れ。走れ。走れ!
走る。走る。走る!
目が回る。血液が滾る。それでも速度は緩めない。
走る。走る。走るが。追い抜く。蛇を。おい蛇?
それは深い雪の中にぐったりと倒れこんでいる。
「いやはやどうも失礼・・・私は、寒さが苦手でしてね・・・ですがあとは、まっすぐです。」
ああサンキュー蛇!今まで本当にありがとう蛇!君の愛と勇気を忘れはしない!
なんて云うと思うかこの外道。
ぼくは彼の体を抱きしめ撫でさすり熱を移す。熱を移すが、なお冷めてゆく。なお冷めてゆく長い身体。なんなんだもう畜生め畜生め畜生め。
だが閃く。閃く閃き!ぼくの紅茶!
レッドチェックの魔法瓶。遣り場なく肩から下げ続けてきた苦くて渋くて熱い奴。
躊躇うな。蓋を投げ捨てぶちまける。
「おっと・・・これはなんとも、容赦の無い。」蛇が笑う。ぼくも笑う。
ポットの残りを口に含む。呑み込む。激マズイ。舌を刺し貫くパンジェンシー。体内で力と熱に代わる。
再び駆けだす。走れ、走れ。まっすぐに。
渦が見えてくる。
「青渦!」蛇が叫ぶ。
凍える螺旋階段。ギリギリの縁を。速度を緩めずドリフト決めて切り抜けるぎゅぎゅぎゅおん。
「お気を、付けて。例の12枚羽根は、流石に私も分が悪い。」
君でもか。そんなにか。良く分からないがぞっとしますね。
己の限界の少しだけ、ほんのちょっとだけ先の先に。見つける。ぼくの渦。
飛び込む。蛇が後ろから押してくれる。何から何までお世話になります。
歪む世界と視界と時間と五感。
ぼくは思わず目を閉じる。呼吸が止まる。限界はとうに過ぎている。
ぼくは落ちる。或いは浮く。
所謂ひとつの、ブラックアウト。
暗い。冷たい。
ここは。暗くて。冷たすぎる。けど。
□□□
気が付けば、暗い森に立っていた。
暗く、冷たく、しん、と眠る森。
訪れたのか。
或いは。
還ってきたのか。ぼくは?
「もう大丈夫、目を開けなよ。」
誰かの声。ふやけた声。勿論ぼくはそれに従う。
男が立っている。
完全に見覚えのあるその貧相な身体からは、しかし常人とも思われぬ陽炎のような蒸気のような熱い気配が、ゆらゆらと立ち昇っているが、それが湯気であることがぼくにはわかるぼくは知っている。
「古い扉。」とミズタニが云う。
「それが出口で入口だ。」
勿論そうだろうしそうに決まってるぼくは駆け寄る。
古い扉。刻まれた文字は薄れ擦れ、もう判読しようもない。
だってそれは、古い古い扉なのだとても。
扉は見つけた。だが、どうする。
ジョーカーは既に過去に捨てた。
ぼくの懐に手札はない。1枚も。
ミズタニの右手に1枚のカード。
「切り札の存在が、勝敗を分ける。これはゲームの鉄則だよ。」
眼鏡の下で不器用なウインクぱちん。
ぼくが返却した『余分な』1枚!
それがミズタニの切り札。この野郎。
ぼくらの切り札。ぼくらのペテン。
錆びたスリットに挿入する。
扉に文字が浮き上がる。
へえ、意外と現代的で近未来的。
「コード1059459認証中・・・地獄ログアウト完了・・・天国ログインアカウント認証中・・・パスワードを入力してください」
ぼくは笑いだしそうになる。合言葉?
キーワードが脳を奔る。それは幾らでも思いつく。
「渦」「11」「12」「メルヘン」「紅茶」「氷」「クリスマス」「紅葉」「丼」そして「旅」。
どうにも候補が多すぎる。
だが直感。或いは経験。或いは、希望。
そうだ。世界に必要なもの天国への合言葉ぼくらに世界に必要なもの。
ははは。
ぼくは扉を押しながら叫ぶ、まったくもう。合言葉?そんなの訊くほどのことかよ?
ぼくは叫ぶ。
「愛だろッ!愛ッ!!!」
赤ランプが点灯する。点滅して、消滅して。
ああ愛。合う?合え。。。青!!ビンゴ!!
扉が、開く。音もなく。
ぼくはそこを抜ける。
杖を持ったぼくのともだちが続くまで、しっかりと扉を押さえ続ける。
さあみなさん。
大変お待たせしました。そしてお付き合いありがとう。
ハッピーエンドは、もうすぐです。
□□□
第0歌
「愛だろッ!愛ッ!!!」とかなんとか。
ぼくは突然叫んだだろうか。
叫んだでしょうか?
叫びましたか?ひょっとして。
「世界の片隅のパン屋の中心で・・・Iを叫んで、おいででした。」
陰気な店主の、珍しく陰気と云うほどでもない声音。
「叫んでたよ。」
容赦のない、ふやけた声。
あっそう。なんか、失礼しました。
ぼくの手には、紫色の玉があった。
福引ガラガラ抽選器から転がり出た、ちいさく可憐な玉。
「さて、おめでとうございます・・・6等です。」と店主。
6等か。なんとなく無念。しかし納得。
実を云えば、ぼくは世の大抵のことはなんだって人並み以下に器用にこなせるのだが、福引運だけはちょっぴり致命的に足りないのだ。
6等とはまた、我ながらあまりにお似合いだ。
で、景品はなんでしたっけ?転がるたぬきのシールだったかな?
店内を支配する刹那の沈黙。ん?なになにこの感じ。
何か目配せ的な秘密のサインと念波を感じて振り向くが、ミズタニは物欲しそうなふやけた顔で、じっと新月トーストを眺めている。
そんなに欲しいなら買えよ。多分、ただの食パンだけど。
で、景品は?
「確か、珠だよね。」とふやけた声。
「ええ・・・珠です。」と陰気な声。
ええと、珠?
「その、菫の珠を・・・差し上げます。」
え、これ?
「いいなあ。ロマンチックだなあ。」とふやけた声。
「ロマンを溶かしたような・・・逸品、ですね。」と陰気な声。
あ、そう?いいの?そんなに良いものを貰って?
□□□
ジングルベルに湧き立つ街を、ミズタニとふたりでぶらぶらと歩く。
陽気な子供連れ。肩を寄せ合うふたり連れ。千鳥足のコートの男。
なんだかんだで、みんな幸せそうだった。
勿論ぼくも、袋一杯のパンを抱えてご機嫌に幸せだった。
ポケットには秘密の菫珠。
まるでここは、天国みたいだ。
ぼくは時々、そう思う。
この世は、世界は、ちょっと間抜けな天国みたいだ、と。
時々本気で、そう思うのだ。
おかしいかな?
隣を歩くともだちが、ふやけた声でくしゃみをする。
「なんだ、風邪か?だらしない奴。」とぼくが茶化すと、
「誰のせいだよ。」とふやけた声。
なんだなんだ、身に覚えが無さすぎる。
「銭湯でも行って温まって、コタツで熱燗でも呑むか。」とぼくが云うと、ミズタニは何だか微妙な顔をして「や、風呂はしばらく遠慮しとくよ。」とふやけきった顔で笑った。
その神妙な感じが変に面白くて、ぼくはあははと声を出して笑う。
なんだろうな。良くわからないけど。
なんでだかは良くわからないけどさ。
なんでだろ?心当たりが、在りすぎた。
/了
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