浮気なぼくら/過激な淑女
少し遅れて、レディがやってくる。
優雅な足取りで歩み寄り、ふわりと向かい席に座る。
「何を考えていたの?」
楽しそうな顔をしていたわ、とレディが微笑む。
美しく。やわらかく。
冬の透明な陽射しのように。
ぼくはひとつ、軽い咳をする。
ぼくはなにか、考えていただろうか?
なにか、楽しいことを?
例えば「埋められたマーブルチョコから色鮮やかな芽が出た話」とか「サンチョとパンチョが仲良くポンチョを買いに行く話」とか。
なるほど、それは確かに楽しそうだ。
だが、それはもうぼくの中を通り過ぎて、カフェのドアから出て行ってしまった。さようなら。ぼくは、君を追わない。
「いや、ちょっとぼんやりしてただけさ。」
「そう?まあ良いけど。」
少しぎこちない、笑顔の交換。
その僅かな齟齬を修正するように、レディが色々な事を話す。
バスの中で見た妙に不釣合いな二人組の風貌。職場で突如巻き起こった手作り弁当ブームに、実は全員がちょっと辟易していること。牛乳をやめて豆乳を飲んでいること。両者の効能とコストの比較。など。など。など。
レディは話す。など。などを。
話しながらメニュを眺め、店員の動線も確認する。
最も効果的なタイミングに最小限の動きで白い指を立て、ランチのセットを注文する。食後は彼にコーヒー私には紅茶を。いいえ、ミルクも砂糖も結構よ。
簡潔にして明瞭な発音と声量。たいしたものだ、と感心する。いつでもどこでもいつだって店員に「失礼?」と訝しまれる、ぼくの小声とは大違い。
ねえ、そんな洗練された振舞いって、何処か専門の学校で教わるのかな?
そう、きっとそうだろう。
そこではロッテンマイヤーさん的な秩序の守護者が、命令形と禁止形とを乗馬鞭のように自在に振るいながら、居並ぶ淑女たちに厳格で厳密な礼儀作法を教授しているのだろう。
「音を立ててスープを飲んではいけませんよ、アーデルハイド!」ピシッ!
「何を考えているの?」とレディが云う。
なにを?
ぼくは今、なにか、考えていただろうか?
そうだ、ぼくは考えていたはずだ。
レディの話に相槌を打ち、それを話すレディのことを、ずっと、考えて、いた。
だが、レディは何を話していただろう?
ぼくは思い出せない。
それらはもうぼくの中を通り過ぎて、カフェのドアから出て行ってしまった。
それはもう、去ったのだ。
さようならも云わず、一度として振り返ることもせず、街を彷徨い世界を彷徨い、どこかへと。
だが一体どこへ?わからない。
たとえばそれは、別のカフェかもしれない。
カウンタの隅で掌を眺める陰気な男の隣に座って、ゴッドファーザーでも飲んでいるかもしれない。
口元で揺れる、アーモンドの甘い香り。悪くない。
或いはそれは、タクラマカン砂漠かもしれない。
砂を蹴って歩き続け、時には陽射しを避けるために砂を掘って休み、眠り、目覚めたらまた歩き続けて。
憩いのオアシスを求めて、今もまだ、熱い息を吐き出しながら歩き続けているのだろう。
どうか、きみに幸あれ。
要するに、ぼくは今、タクラマカン砂漠について、考えている。
「タクラマカン砂漠、ですって?」とレディは云う。
自覚された困惑と、自覚に至らない僅かな怒り。
それがレディの綺麗な眉を、不自然な形に吊り上げる。
ぼくは、軽い咳をする。
「ねえ、ごめん。タクラマカン砂漠が何か気に障ったのなら、謝るよ。タクラマカン砂漠で遭難した昔の恋人のこととか、給食のタクラマカン砂漠がどうしても食べられなくて放課後まで残されたこととか、たとえばそんな辛いことを思い出させて、きみを傷つけたのだとしたらね。悪かった。でも、誓って云うけど、そんなことぼくは本当に知らなかったんだ。」
レディは笑わない。
多分、面白くなかったのだろう。
ただ黙々と静粛に、パスタを口に運び続ける。
四本歯の肉叉を器用に操って、くるくると巻いては口に運ぶ。
その動作は淀みなく、物音ひとつ産まれない。
パスタ?
いつの間にか、テーブルには料理が並んでいる。
デュラムセモリナに粉チーズ、葉野菜には油とお酢の混合液を添えて。
大衆向けの廉価で素朴で効率的なイタリアン。
ぼくは、軽い咳をする。
「悪かったよ。」
レディは小さく首を振る。
それから優雅にナプキンで、すい。と口元を押さえる。
口元にもナプキンにも、染みひとつ残らない。
まったくもって、魔法みたいだ。
「砂漠の話を、続けて。」とレディは云う。
「いいよ、もう。」とぼくは応える。
「続けなさい。」と、レディが云う。
目を細めて、顎を突き出す。
勿論、銀のフォークを向けて脅すような無礼はしない。
少なくとも、今のところは。
・・・オーケイ。続けよう。
だが、砂漠のことなど何も知らない。
砂漠?砂漠は。砂漠には。
おそらく、砂が、沢山ある。
そして、とても暑い。とても。
「一度入ったら出られない。そう云う意味だって、聞いたことがあるわ。」
くるりとパスタを巻き取りながら、レディ。
イカスミに染まる黒い糸巻き。
入ったら出られない砂漠。
タクラマカン砂漠。
入ったら出られない場所。
そうだそこは死の砂漠。
キープアウト!立ち入り禁止の虎縞看板。
だが、足を踏み入れるものが絶えたわけではない。
今でも誰かが、誰かたちが、望んで、又は道を誤って迷い込む。
彼らは、いったい何処へ向かうのだろう?
歩き続けても、決して出ることの出来ない砂漠で。
歩き続け歩き続け、出口など無いのだと確信した時、もう還れないと知った時、彼らは絶望しただろうか?それとも、少し、安心しただろうか?
わからない。
ぼくは、色々なことが、わからないのだ。残念だけど。
彼らは砂漠を歩き続ける。
幾人も斃れる。旅路に命を落とし屍を晒す次々と。
だが、いつか誰かが、オアシスに辿り着くだろう。
水を飲み、火を熾し、穏やかに眠りに就くだろう。
それは兆し。
彼の火を煙を見つけ目指し歩き続け、ひとびとは集まってくるだろう。
ポケットの食料を分かち合い、気前の良い誰かが秘密を打ち明けるように取り出した煙草を、指から指へ回し呑む。フィルターまでしっかりと灰にする。
口笛は吹かない。手も叩かない。
輪になって踊ったりもしない。
勿論そう云う気分じゃない。
「クロウズを見た。」と誰かが云う。
俺も見た。と追従者。
「俺も見た。俺も見たんだ、クロウズを!」
「それはカラスだった。青光りする羽根が群れをなして、砂漠の出口を守っているんだ。」
「違う違う。爪だ。鋭い爪が無数に、出口に生えて威嚇していた!」
「莫迦な。看板さ。通行止めの看板が、でんと据えられてこちらを睨んでいたんだ。」
「渦だよ。黒い渦が、全てを呑み込んでいるのさ。」
「呑んであげるわ。」とレディが云う。
地の果ての禍々しい黒渦を、銀のフォークで可憐に軽快にくるり巻き取りするりと呑み込む。目を細めて、顎を突き出して。
「デザートはケーキ?それともシャーベット?でもその前に、料理を食べてしまわなきゃね。」
ぼくは、軽い咳をする。こほん。
「どうも、すっかり冷めちゃったみたいだ。」
レディは微笑む。
美しく、少しだけ冷たく。
冬の透明な空気のように。
「大丈夫よ。冷めて損なわれるような、繊細な味じゃないわ。(にっこり。)」
ねえ、そう云った過激な言い回しって、やっぱり何処か専門の学校で教わるのかな?それとも?
まあ料理の味は、レディの評価通りだったけど。
りんごのシャーベットは、割と美味しかったよ。
/了