夏の地球/夏のちQ

「夏の地球」

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高速道路の夢を見ました。

何台もの車が、あなたの運転する車を勢いよく、追い越して行きます。そしてその度に、ざあっ、ざあっ。と、風が鳴くのです。
わたしは助手席で、夕飯の献立について考えます。コロッケ。カレーライス。スパゲティ。オムライス。あなたの好物はまるでお子様ランチです。おもちゃの代わりに、冷えたビールが一本。
ざあっ。また一台。
隣ではあなたが首を捻っています。
「あれっ、行き過ぎちゃったかな」
ざあっ。応えるように、風が鳴きます。
いえ、どうやら雨音のようです。

わたしはソファの上で目を覚ましました。寝転がって雨音を聞いているうちに、居眠りをしてしまったようです。誰が見ている訳でもないのですが、なんだかちょっと、照れ臭く、台所に行って、コップ一杯の水を飲み、それでもまだ、ふわふわと落ち着かない気分で、さっき見た夢の事など思い出し、ふと、あなたに手紙を書いてみようと、思いつきました。
そんな訳ですから、或いは、おかしなことを書いてしまうかもしれませんが、しばらくの間、お付き合いください。

また、梅雨がやってきました。今日は一段と、強く降っているようです。
そちらの様子はどうですか。新しい暮らしには、もう慣れたでしょうか。
わたしはレコードを聴いたり、雑誌をめくったりして、ぼんやりと過ごしています。雨の日はいつもそうです。
雨音に混じって、近所の子供達の嬌声が聞こえてきます。
子供って、何故、あんなにも雨が好きなのでしょうね?
傘。レインコート。雨靴。そんな些細な物が、彼らのパスポートです。魔法の国へのパスポート。彼らはいとも簡単にするりと境界を飛び越えて、探検隊のように元気に、パレードのように陽気に、足取り軽く歩いてゆきます。
でも気を付けて。あんまり濡れてしまっては、おうちで叱られてしまうかもしれませんよ。
大抵の大人にとって、雨は敵です。

あなたも雨が嫌いでした。「やる気が出ないんだよ。」なんて寝転んで、煙草を吸ってばかりのあなた。吐き出す煙が綺麗な輪っかになった時だけ、ちょっぴり誇らしげに笑うあなた。そんなあなたを思い出します。

ねえ、そんな時わたしは「本当、雨って鬱陶しいわね。」なんて合わせていたのだけど、嘘です。本当はわたし、雨が好きなのです。気怠い雨音。気怠い景色。気怠い視界。気怠い空気。気怠い時間。そんなものが、わたしはとても好きなのです。あなたのことも、そうです。元気に飛び回っている時よりも、そうやって寝転んで考えごとをしている時の方が、妙にあなたらしくて好きでした。知らなかったでしょう?

きっと人間は少しだけ、そうほんの少しだけ沈んだ気持ちでいるのが、或いは安定した姿なのではないでしょうか。そこが、その位置こそが自然な場所なのではないか、と最近わたしは思うのです。

わたしたちの心は魚です。
水面下でだけ、優雅に泳ぎます。

かみなりが鳴っています。青い光が一筋、窓の外を流れ落ちました。
そちらからも、見えるでしょうか。
窓の外は、水が支配する世界です。いつもと違う、視界です。
ちょっと、不思議ですね。
薄くて脆い、たった一枚のガラスが、わたしと雨とを隔てています。
そこが、まるで違う性質を持った、二つの世界の境界線です。

かみなりが鳴ります。
ぴかりと空が光り、それからわたしは目を閉じて、ゆっくりと数をかぞえました。ひとつ、ふたつ、みっつ。むっつ目で、がらりと空が鳴ります。ねえ、あたりまえなのだけど、光と音とはこんなにも、速さが違うのです。始まりは一緒だったはずなのに、あっという間に離れてしまい、もう二度とは巡り合わない。そう考えると、かみなりは悲劇です。光と音が一緒にいた『はじまりの場所』とは、どんなところなのでしょう?そこでは彼らも境界線を挟んで(ちょっと照れくさそうにでもちょっと互いを意識しながら)じっと向かい合っているのかもしれません。
そう、たとえばわたしと、雨のように。

わたしはしばらく、かみなりの光と音とを交互に感じながら『向こう』の世界を眺めていました。それから、ふと思い立って窓を大きく、開けてみると、予想外に涼しい風に乗って、滝のような雨音や、色気のある湿った匂いが、こちらへ流れ込んで来ます。
なんだかくすぐったい気持ちがして、わたしは思わず笑ってしまいました。そして同時に、素敵な発見をしたのです。それをあなたにも、教えて差し上げます。

この世界には、沢山の境界線があります。
光と音との間に。車と道との間に。わたしと雨との間に。わたしと公園の犬との間に。わたしと神様との間に。わたしとあなたとの間に。そう何処にだって。
でもそんなの、たいしたことでは、ないのです。
気になる時には、窓を、扉を、開けて覗いてみれば良いのです。ひょいと気軽に、越えてしまえば良いのです。たいしたこと、ないんですよ?
それに、ぼんやりと眺める境界線だって、なかなか悪くないものです。水の中から眺める水面は、きらきらとても綺麗です。

わたしの暮らすこの世界は魔法でいっぱいです。
わたしの足音に反応してピクリと動く犬の耳。
手を逃れようとふらふら揺れる猫のしっぽ。
針を置いたレコードのじりじりという音。
カーテンを閉める直前に見た明るい月。
熱いトーストの上で溶けてゆくバタ。
蛍の様にぽかりと光る煙草の火種。
グラスからあふれたビールの泡。
ふと一瞬止まって見える秒針。
ドーナツ屋さんの甘い匂い。
水たまりに反射する陽光。
小説の書き出しの一文。
洗いたてのTシャツ。
速さの違うAとB。
高架下の落書き。
季節の変り目。
恋文の切手。
その消印。
残り香。
陽炎。
虹。

そんな。そんなそんなそんな風な。
気付いたひと、見つけたひとだけが思わずふふふと笑ってしまう、そんな魔法で、この世界はいっぱいなのです。
知らなかったでしょう?

心はその時、すうっと水面に顔を出します。ほんのひととき愉快な新鮮な空気を吸い笑い声を上げて、また静かに潜って行く私たちの魚。
ねえ。これが、私の発見です。
わたしはそんな風に、暮らしてゆきたく思うのです。
あなたにだって、きっと、きっと似合ったと思うのだけど。

ねえ、元気ですか。あなたはそこで、元気ですか。
あなたが探していたものは、そこには、ありますか?

わたしはここで、生きてゆくつもりです。
ゆっくりと、生きてゆくつもりです。

あらあら。やっぱり、変なことばかり、書いてしまったようです。ごめんなさい、この辺りで筆を置いた方が良さそうですね。
雨はまだ降っています。この感じだともう数日続きそうです。子供たちは、もう家に着いたでしょうか。そうですね、きっと元気に着いたことでしょう。今頃は柔らかいタオルにくるまり、温かいミルクを飲みながら、午後の冒険を思い返しているかもしれません。どうか、今夜眠りに着くまで、朝まで、彼らの魔法が解けませんように。
さあ今からわたしは、夕飯の買い物に出かけます。お子様ランチのようなメニュも、今ではわたしの好物になりました。それもまた、素敵な発見のひとつです。
それでは。またいつか、お手紙書きますね。

わたしより、あなたへ。
6月19日、雨の自宅にて。

追伸
この雨が上がれば、地上は少しずつ、夏です。

/了(2000年6月19日)

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ウネリです。没ネタ祭です。
一本書き上げたらその余熱でもう一本変奏する、と云うのは当時のブームと云うか性癖と云うかルーティンで、とにかく書くことに飢えていたなあと懐かしく思い出します。
続いての作品はそう云った変奏作品ですが、要するにタイトルを書きたかっただけだろうと思います。お見通しです。
両作ともに、今回ここに発表するにあたって、原作の雰囲気が消えない程度に手を入れました。特に「Q」については元々割と悪ふざけしている作品なので、ちょっと強めに削ったり足したりしています。作中に登場する小説の題名は、いつかどこかで使いたいと思っていたウネリジョークです。折角考えたので使っておきました。はは。
それでは。またいつか、お手紙書きますね。ウネリ拝

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「夏のちQ」

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目を閉じれば、夏の地球だ。
色々な事を思い出す。
と同時に、
色々な事を忘れてしまう。
蝉は、
何故あんなにも力強く鳴き続けるのか一体誰に何を訴えているのかそれにしても空が高い青い広いぼくは、
何故こんな所にただじっと立っているのかそうだ待ち合わせをしているのだった彼女と待ち合わせをしているのだっただが彼女は来ない彼女は遅刻魔まあいつものことだ慣れっこだつまり、

Q:ぼくは何をしているのか。
A:彼女を待っている。

そしてここは、夏の地球だ。

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昨晩はサッドカフェで仲間と酒を飲んだ。悪い酒だった。
一人がぼくを「ペテン師」と呼んだ。もう一人はヤニに汚れた前歯を剥き出しにして「オマエの書いているものは、クソだ。クソを売って金を稼ぐオマエもクソだし、クソを買って喜んでるオマエの読者もクソだ。仲良くクソ溜めで溺れてろ」と云って嗤った。
ぼくは奴らのブンガクテキ同人誌にジッポで火をつけて「アマチュアがはしゃぐなよ、みっともない」と笑い返した。オトナゲナイのはお互い様だ。
結局ぼく一人が、いつものように店の前の道路にのびた。喧嘩はからっきしだ。暴力反対。世界が平和でありますように。外に出りゃ、男には七人の敵がいる。七人?駄目だ、勝てっこないね。

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縁日のヒヨコを思い出した。

三日前、ぼくはやはりサッドカフェにいて、担当の軽井ノボル君と打ち合わせをしていた。
来月、ぼくの新刊が出るのだ。「転生したら織田信長だったのだが目覚めた場所が本能寺な件~俺と明智が修羅場すぎる~」まさかの3巻。誰が読んでいるんだ。いったい誰が。
「表紙のイラストが出来上がったのでお見せしようと思って。ウチで描いて貰うのは初めてなんですが、その筋ではかなり人気の絵師さんらしいですよ」
一目、素敵なイラストだった。
童女のような無垢な笑顔と、ぶよぶよと豊満な肉体のキメラ生物が三匹、同じ顔で肌も露わに身を捩っている。
三匹はバストサイズと髪色の違いだけで、見事に個性を主張していた。
いずれ名が有る妖怪絵師の仕事と見える。
「すてきですね、とてもみりょくてきだ」

縁日のヒヨコを思い出した。
カラースプレーで原色に塗られ、キヨキヨと叫びながら蠢く哀れでキュートでグロテスクないきものたち。

生きたいか?それでも。

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毎日毎日、誰かがぼくの後を尾けてくるのだ。毎日毎日、付かず離れず尾けてくるのだ。ぼくは覚悟を決めて、えいっと振り向いた。
にっこり笑って奴が云う。「逃げられや、しないよ。ぼくらはいつだって一緒さ」
ぼくも笑った。こりゃ駄目だ。そいつはぼくの『生活』だった。

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「今入ってきたニュースです。森総理大臣は会見で、来月のサミットには参加しない意向を発表しました。『その日は歯医者の予約が入ってるんだよ』とのことです。これに対しアメリカのクリントン大統領は『致し方あるまい』と容認する姿勢ですが、野党は『おやつの食べすぎだ。ちょっと痩せろ』と徹底抗戦の構えを見せており、おやつの量をめぐる国会の混乱は避けられそうにありません」
くだらないテレビのスイッチを切って、ぼくは部屋を出る。
週に一度の彼女の休みだ。
「十時に、サッドカフェで会いましょう」
彼女は電話でそう云った。だがぼくはサッドカフェが臨時休業なのを知っている。何故って、昨夜散々暴れて店の中を滅茶苦茶にした張本人だからだ。
きっとぼくは、昨夜ボロボロで寝転んでいた道路に立って、彼女を待つことになるだろう。ぼくは待つだろう。遅刻魔なのだ、彼女は。
きっと暑いだろうな、夏の地球。
じっと立っているうちにぼんやりしてきて、きっと色々なことを忘れてしまうのだろう。ぼくは、それを知っている。

だが。
サッドカフェは開店していた。
店内は綺麗に片付き、しかも奥のテーブル席には、十時前だと云うのに彼女が笑顔で座っている。これは、夢か?

ぼくが席に着くのを見届けてから、マスターがそっと耳打ちする。
「ここではないいつかのどこかから伝言です。『経過がどうあれ、物語にはハッピーエンドが必要だ。』以上です」

成程まったくだ、とぼくは思う。
ハッピーエンドが必要だ。
ハッピーエンドこそが、必要なのだ世界には。
だから。
舞い散る薔薇の花びらの中で、彼女が美しく笑う。
歩み寄るふたり、誓われる愛。
天使のファンファーレが、ぼくらを優しく包み込んだ。ファフー。

Q:おやおや、これでおしまいかい?
A:まあ物語なんて、勝手なものさ。

/了(2000年6月19日~20日)

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