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【小説】カエル


【小説。これは必要があって某所で公開したものをやや改稿したものだから、私に近い人は容易に特定が可能である。うっかり見つけてしまっても見なかったことにしてほしい。カエルの絵は好きな絵師さんのエビの絵がかわいかったから絵柄をパクった。見ての通り、あまりうまく描けなかった。】


(一)
 大人の経済圏に未参加の小学生にとって、ステイタスを表すのは珍しさだ。それは香り付きの消しゴムだったり、真っ白な下ろしたての雑巾だったり、近所の文房具屋では売っていないプロフィール帳だったりする。これらはだいたい女子のステイタスを表すもので、男子にとっては珍しい生き物がそれだった。

 悠斗の小学校も、他の小学校と同じように教室後ろのランドセル置きの棚の上に生き物係の「領土」があった。男子は近所で捕まえた虫を思い思いに学校に持ち込み、それをやはり男子だらけの生き物係が中心となって世話をする。領土はさながらムシ王国であった。
 先月のこと。悠斗とも仲の良い生徒が親指ほどの大きさの一匹のカエルを持ち込んだ。理科にくわしい先生によれば、それはツチガエルという種類らしい。
 教室の半分は、ムシ王国に突如君臨した両生類に湧き立った。男子たちは必死になってカエルを探し、またカエルは先住民の虫たちを食い尽くし、ムシ王国は一月も経たないでカエル王国になった。教室のもう半分――女子たちは、イボガエルだらけになったランドセル置き場を嫌がったし、カエルの下にランドセルをしまわないといけない女子にとっては、それはもう気持ちが悪くてしかたがなかった。女子に嫌がられれば嫌がられるほどに、男子たちはカエルを崇めた。

 教室にカエルが持ち込まれ始めてひと月ほどしたある日、塾帰りの悠斗はアスファルトにうずくまる、蛍光灯に照らされた一匹のカエルを見つけて自転車を止めた。遠目では分からなかったが、近寄ると教室のどのカエルより大きい。それどころか、小学生の悠斗の両手にも収まらないほどの大物だった。最近図鑑で見た。こいつはヒキガエルだろう。中でもかなりの大物だ。
 悠斗は高揚していた。クラスのどのカエルよりも大きいこのカエルを持ち込めば、こいつはたちまちカエル王国の皇帝に君臨するに違いない。悠斗は息をのんで、一度周囲を見渡してから、それを両手で持ち上げた。カエルは明らかに弱っていて、簡単に捕まえられた。けだるげに抵抗して見せて、無意味と悟ると彼はじろりと悠斗をにらんだ。悠斗は前かごにカエルを入れると自転車を飛ばした。

 いつだかカブトムシを飼っていた頃のままの虫かごの土を湿らせてカエルを入れて、さらに霧吹きで直接カエルに水をかける。カエルの背中はぬるりと光沢を持ったが、一向に動こうとしない。カエルは想像以上に弱っていた。
 活きの悪さに少し落胆するが、それ以上に悠斗は興奮していた。デジカメを取り出してカエルの写真を何枚も撮った。カエルは不機嫌そうにこちらをにらんでいるように見えたが、やはり動こうとはしなかった。一通り写真を撮ると、何も食べ物がないのは良くないだろうと思い、懐中電灯を片手に家の近くの草むらで何匹かバッタを捕まえて来て、カエルのかごに入れた。ついでに雑草も引っこ抜いて入れる。かごを持ち上げてぐるりと眺めると、悠斗は満足して寝室に向かった。

 翌日、悠斗は早起きしてカエルの様子をうかがった。カエルは依然として動かない。虫かごを指ではじいてみると、弱った数匹のバッタだけが力なく跳ねた。カエルの目は開いている。悠斗は乾いたカエルの背中に霧吹きで水を吹きかけた。カエルはそれでも動かない。目は不機嫌そうな形のままでこちらに向いている。おそるおそる触ってみると、父親の財布によく似たざらりとした質感。そのままひっくり返してみるとカエルは手足を伸ばしたまま、あっさりと仰向けになった。
 ハッとして悠斗は後ずさった。瞬間、鼻の奥に腐臭を感じ思わずえずく。カエルが死んでいるのは明らかだった。カエルがいつ死んでいたのか、悠斗には分からなかった。夜のうちに死んだのか、それとも、この虫かごに入れた時点でもう死んでいたのかもしれない。考えれば考えるほどに鼻の奥の腐臭は強くなる。それは悠斗が初めて経験した死の臭いだった。思い立って悠斗は母親の化粧台から香水を持ち出すと、ふたをこじ開けて虫かごの中にぶちまけた。部屋中に甘ったるい匂いが広がる。念入りに手を洗うと、カメラから昨日撮ったカエルの写真をすっかり消去した。
 起きてきた母親は、当然部屋に満ちた香水の匂いに気が付いた。寝起きとは思えない覇気でもって、お気に入りの香水を無駄にしたことをこっぴどく叱られた。切り上げて逃げるように学校に行くと、教室ではまた誰かがカエルを持ち込んだらしい。カエルを持ってきた男子が女子にカエルを見せつけて、女子たちが逃げている。そのカエルは昨日悠斗が捕まえたのに比べたら三分の一もなかった。カエルが死んでいなければ、あの大騒ぎの中心は悠斗だったのだろう。けれど、悠斗はなんだかすっかりと冷めてしまっていて、カエルにもクラスの騒がしさにも、もはや関心が無かった。家から帰ったところで、悠斗は香水の件でまた母に叱られた。

(二)
 持病持ちの母の容体が良くないと聞いて仕事を切り上げ、職場のある大阪から急いで東京行きの新幹線に乗った。新横浜の手前で母の臨終を聞く。

 新卒で就職してから、実家に帰ることはほとんどなかった。大阪に来てややあって、私は母の病気を知った。死ぬほどの病とは思っていなかった。私は母の死に目に会えなかったことを強く後悔した。
 昔から母との関係は悪くなかった。幼少期からずっとやんちゃだった私を母は根気強くしつけたし、思春期には過度に干渉してくることもなかった。半年前、同棲中の彼女を連れて帰省した時には、「息子をよろしくお願いします」と言いながらもじもじする母を彼女と笑った。あの頃は元気だった。少なくとも私には、そう見えた。
 母はまだ病室にいた。静かに眠っているような母の顔を見ても、母の死は実感できなかった。母はまだ六十手前で、死に顔も若々しかった。母の遺体を挟んで反対に座った父が、久しぶりだな、元気だったか、と声をかけてきて、ああ、と力なく返事をした。父は母の今際の時もそこにいたのだろう。病室前の廊下では妹が泣いていた。久しぶりに見た顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃで、私から声を掛けられるはずもなかった。私は荷物を取りに一度大阪に戻った。

 大阪の家に帰ると彼女が喪服を用意してくれていた。彼女は葬儀までには東京に来るとのこと。もともと来月には入籍する予定だったのだ。
 しばらくしまい込んでいた喪服には、すっかり箪笥のにおいがしみ込んでいる。彼女が誕生日にくれた香水を吹きかける。甘ったるい匂いが広がる。ふと、鼻の奥に香水とは違う臭いを感じる。そういえば、母の香水をだめにして怒られたことがあった。母の香水も、こんな風に甘ったるい匂いだった。……カエル。カエルの腐臭だ。私は香水をもう一度吹きかけた。こんな時にカエルの死骸なんかを思い出した自分が嫌になって、もう一度、もう一度、念入りに香水を吹きかけた。

【終】

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