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青い馬も馬である

L.ビンスワンガー『現象学的人間学(新装版)』(みすず書房,2019) ※原著は1947年

本投稿では、余り難しいことは取り上げません。私は専門家ではないので、専門家ではないなりに読んでみて、「そうか!」と思ったことを簡単に伝えるしか出来ないからです。

上のコンセプトと照らすと、この本は、難しそうに見えるかもしれません。でも、私が大切だと思ったことはシンプルなので、少しお付き合いください。

まずは本著の簡単な紹介から。著者のビンスワンガーは1881年スイス生まれの精神科医です。自閉症、統合失調症のような精神病者たちの治療をしつつ、精神病の病理を研究をしていた方なんだと思います。

彼が実践・研究していた治療の方法論は、当時の最先端の哲学である現象学です。タイトルに「現象学的人間学」とありますが、現象学的に人間を理解することが、治療にも役立つ、ということですね。もっというと、従来のいわゆる自然科学的な分析ではダメで、現象学的に人間を理解しなければならない、という主張が伺えます。

ということで。今回の問いは、以下です。

なぜ、現象学的に、人間を取り上げなければならないのですか?

答えは、自然科学的なアプローチの限界を、現象学ならば克服できるから、ということになります。

自然科学的な考え方では、対象の持つ様々な属性や要素や機能を分解し、理論化と法則化を目指して構成し直すことになります。しかし、これでは人間の意識を理解することができません。例えば、立方体のサイコロがあるとします。見る角度によって形状も数字も違いますが、私たちの意識は、そのサイコロが一つのものであるということを知っていますし、立方体以外の20面体のサイコロもまたサイコロと意識することができます。もっというと、4次元空間などでは20面体以上の多面体も考えることもできるかもしれまん。しかし、自然科学では、そうした様々なサイコロの性質や要素成分、機能といった点から分解することで説明したとみなされてしまいます。なぜ、いろいろなサイコロを想像できるのに、意識のなかでサイコロだとされるのか、という全体的本質的な説明にはなっていないのです。

意識に浮かび上がるものを直接的無媒介的に捉えるには、自然科学的な態度は向いていないのです。

では、哲学的=現象学的なアプローチならば何が変わってくるのでしょうか? 本質を直接的無媒介的に直観することができる、ということですが、それはどのように説明できるのでしょうか?

著者が例として挙げているのは、芸術です。フランツ・マルクが青い馬を描いたのですが、現実世界には存在しない馬であっても、その絵には決して知覚されることのない属性、馬の本質が表現されているというのです。

ここで、「馬の形していれば何色でも馬だと思うよ」と批判してはいけません。自然科学的に考えれば馬でないものを馬だと意識していることの方が本当は驚くべきことなのです。一体誰が、青い馬も馬だと教えてくれたのでしょうか? 人間の脳が単純なコンピューターであれば、馬の形と色を学習してはじめて、青い馬も馬と認識しますが、人間は誰に教えられるまでもなく、青い馬を馬と気付きます。要素に分解する前の段階で、全体を把握する何かが働いていると考える方が正しくはないでしょうか?

現代的な現象学の登場は20世紀初頭からで、19世期までの合理主義や近代的な個人主義といった概念の足場が揺らいでいた時代です。合理主義ではうまく説明できないことがあるのではないか? 認識する主観は絶対的なものではないのではないか? 先端をいく哲学者や芸術家はこれまでの文化を支えていた足場が揺らいでいる危機に気づき、新しい哲学や芸術運動を開始していました。本著はそうした哲学を使って精神病治療にも役立てようとした著者による現象学とその精神医学への応用についての概説書でした。

本書では、もう少し別のテーマも扱いたいので、それはまた別の機会に譲るとして、以下の文章を引用して味わっておきたいと思います。

「われわれが熱情的に帰依し、または期待していたとき、突然この期待していたものにあざむかれて、世界がいちどに「別様」になり、完全に拠り所を失うことによって、この世界における支えがなくなったとき、われわれはのちに、再び獲得した堅固な足場から、当時を回想して「あのとき、稲妻に打たれて天から落下したようだった」という」

ビンスワンガー『現象学的人間学』





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