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🐉衣装歎史孊 其の䞀、坂本韍銬 五十䞀〜䞃十たで

五十䞀、

珟代においおこの時代、特別にスポット・ラむトが圓たる人物は指の数皋で物語化される者も数人であるが、資料を圓たっお時代背景等を調べるず、指の数で足りない皋数倚の人物、いや若者達が䞊昇出䞖しおいた事が刀る。その䞭の䞀人ずしおの近藀長次郎考察なのであるが。そしおくっきりず近藀の生き方が坂本韍銬物語䞊の坂本ずのコントラストを為しおいる。陳腐な蚀い方で、それは光ず圱。所謂、『薩長同盟』の意味的栞心を远い、資料を巊に眮き、たた盎感を右に掎み、総合的、ずいうか空想的ずいうか掚枬的ずいうか、蟿々しくはあるが自分なりに远い求め、それがたた結局䞀぀の"坂本韍銬物語"を䜜り䞊げおいる事に思い至る。近藀の䞀生にもう少しラむトを圓おる。それが䜕の意味合いを持぀のか。増殖したたた䞀人の"坂本韍銬"の味付けずなる事を図らずも意図しおいたか。それがこの近藀ずいう人物の霊にずっおどれだけ倱瀌な事であるか。

英雄ずは数倚の人間達の粟神を集玄する

我々は匱い生き物だ。筆を進めよう。
前段では近藀の最若幎期に圌を飛躍させたのは、぀たり志士近藀長次郎をスタヌトさせた人物ずしおの山内容堂、そしお容堂の茩ずしお、四賢䟯の䞀角ずしお、江戞埳川家系の最有力者ずしおの束平春嶜ずの関係に柔らかく迫った。だが近藀の人脈䜜りずいうか䞊昇意欲ずいうか、兎も角も藩䞻玚の人物に芋えるたでに自らを捩じ蟌んでいる。そしおそうした人物ほが党おから気に入られおいる。高䟡な頂き物も倚数受領しおいる。䞊の人物では、こうはいかない。普通に城勀めしお埗ようず思っおも䞀生の内に埗られる人などいない方が倚数な蚳で。
しかも脱藩士である。
容堂、春嶜、ず来お毛利敬芪、島接久光、ここからも気に入られおいる。拝謁し、物も頂いおいる。はっきり蚀っお、この時点では坂本の方が圱である。いや、坂本韍銬ずはずっず圱の人物だった。『薩長同盟』の密玄が埌に誓玄されるが、このプレの段階で近藀長次郎が薩摩-長州の䞡藩䞻ず面識があり気に入られおいる点は朱塗りだ。圌以䞊仲介者に的圹だった人間は考えられない。ここに小束垯刀ずいう鍵の様な人物がたた加わる。小束は欧米匏事業展開の最䞭。本州※玀䌊等。北海道も芖野に入っおいた様だ-長厎ず航行出来る人材の必芁性、優秀な、仕事の出来る有胜な人間の急務。

ここたで远うずもう、所謂『薩長同盟』の密玄は近藀の為にあった様な出来事である、ずすら思える。所謂"坂本韍銬"が登堎せずずも、ほが小束垯刀䞻導の䞡藩䞻合意事項で進行しお行った案件だった。

『瀟䞭』

圌ら土䜐脱藩士が自分達の集たりをそう称しおいた。䜕をする団䜓でどの様な目的があったのか、容易く刀りそうで今いちはっきりしない。瀟是はあった様だが、建前ずいうか初めの䜓裁䜜りの文蚀ずいうか。志は尊王攘倷である様な、開囜志向の様な。この『瀟䞭』、たあ小束パトロンの顧問五代の近代化、欧米化事業の流れに乗った。これを土䜐の芖点、芁するに容堂の芖点から考えれば、䜕れかこれを自分の藩に垰藩させれば倧きい力ずなるな、ぐらいは芋越せた筈。容堂スクヌルは容堂スクヌルで埌藀象二郎、岩厎匥倪郎、ず埡䞀新埌に囜を運営しお行くたでに掟手に出䞖しお行く蚳で。

小束に賭けたか近藀長次郎。倧いなる飛躍の為に。ただそれは珟代で蚀う"個人䞻矩"の色が濃い。

坂本の呟きずは別に。埡䞀新埌遥か幟幎䞋った埌、故囜土䜐においお維新期に呜を散らした番栌達ぞ悔やみの蟞を行う儀があった。最早髪の癜く染たり切った、やはりその呜を新時代の囜家運営の為に䜿い尜くした呌び名は猪いの、板垣退助からの蚀葉が発せられた。

その䞭に、近藀長次郎先生、ずは来なかった様だ。

埡䞀新埌爵䜍めいた物は賜われた様だが。

"猪"はその呌び名に違わず真っ盎ぐにしか進たない、進めない、その道遞びに遊びがない。故に坂本の

"誠が足りなかった"

の詠嘆、どうやらこれは同郷の茩皆、近藀に察しおの共通認識であったか猪が詠んだのは

坂本韍銬先生、䞭岡慎倪郎先生、吉村寅倪郎先生

だがこれも曖昧だ。もしかしたら近藀の名も詠み悌んだかも知れない。それは近藀、坂本、䞭岡、吉村らに限らず、埡䞀新に党おを賭けお呜散らした同郷の若者達ぞの思いず悌み、猪にも同垭しおいた埌藀にも、その思いが等しくあった事は資料なんぞにも寄らず、確実ではある。

五十二、

改めお、近藀長次郎の最埌を考察。やはり虐めが原因の自死だったのか広く芪したれおいる坂本韍銬物語ではそう結ばれる。だが資料読みの方面から芋るず、これは確実な、決定的な原因は䞍明だそうだ。ただ坂本韍銬物語の流れ、これは近藀被虐め説を取る事が自然に成立させおいるのも特段おかしくもない。ずいうのも瀟䞭の同志からの厳しい远及ず難詰はあった事はあった様だ。そしおその埌の自決であるので、虐め説を取っお䜕ら䞍思議でもない蚳だ。

ただ本圓の理由は解っおいない、の䞀節が喉に刺さった魚の骚の様に匕っ掛かる

䞀般的には近藀は船に乗り損ねお瀟䞭本所に垰還した、ず。そこで難詰があった様だが、この人物がのこのこ远及される堎に垰っお行くだろうかずいうのは遞択肢、しかもこの人物䞊みのパむプずコネならば、倱敗しお垰っお難詰されるならば ず考えおかなり行き先がある。そのたた長州に居候、小束垯刀邞に居候、それこそこの時期䜕やっおたか曖昧な坂本を頌る、等。恐らくもっず遞択肢はあった筈。故に。

たさか瀟䞭に垰還しお仲間に远及される、ずは思っおもみなかった。

そしお、たあ悪い呌び名、加害者ずさせお貰うが、瀟䞭の同志達。近藀の䜕に怒りを燃やしたのだろう以䞋、筆者の小説的掚理。

恐らく、仲間達は近藀の突然の出奔に倧倉心配した。ずいう方面に話を向けるので、近藀は瀟䞭の仲間達に密航留孊の件は呚知しおいなかった。孀独な男である。キャリアの䞊昇を垌求する者は孀独である。瀟䞭の同志、誰䞀人にもその本懐を䌝えおいなかった。
瀟䞭の仲間達は必死に捜玢した。その心は、やはり同郷の茩を思っおの。これは掛け替えのない友情。仲間達は近藀のいた堎所から手掛かりを探そうずした。

そこに芋おはならないモノがあった。

匷く暖かい友情が、ひっくり返った。仲間達は本人に死を望むたでに怒りが砎裂した。
裏切り、これは最も人間の攻撃性を呌び起こす行為。

近藀皋の男が。身蟺を敎えお旅立たなかった。どうせ旅立぀なら、埌の事は粗末にした、か埌ず蚀えば、近藀の倧きな努力が貢献しお埗た船、ナニオン号。これもどうでも良かったか䜕も蚀わずに、船だけ眮いおせめお、せめお そう、坂本韍銬には䌝えられなかったのか

"誠が足りなかった"

远及に負ける圢ずなっお芋えるが、近藀が自決を遞んだのは、党お、このゎタゎタの顛末党おを持っお旅立ったずしよう。故に、この件の真盞解明をする事自䜓、故人ぞの冒涜的行為でもある。故に、もう止めよう。
坂本韍銬の人物像掗い出しの今テヌマ、それが倖䌝味を垯びお、ちょっずした近藀長次郎小䌝ず倉じた。それは䜕故かず蚀うに、薩長同盟の本質の掗い出し䜜業に必芁であった蚳である。
薩長の密貿易、その䞋地、これは近藀及び小束、井䞊ず盞圓に入念な煙幕を匵った謀略。それが䞀気に転ずる。それは"矩"の意味合いに倉容しお行く。寂しい近藀の死は、たた新しい颚に吹かれお行っおしたう。そしお泥沌の長州藩内の動乱。
この䞭に、近藀の䞀件は、残酷だが、埌䞖の我々の関心を匕くに、匱い。
近藀長次郎、キャリアの䞊昇の暩化。その孀独。

五十䞉、

近藀長次郎小䌝、これも意倖ず匕っ匵っおしたった。倧局的な芋地に戻ろうず。近藀の死の時期を芋る。これが䞁床、所謂第二次長州埁蚎の開戊時期。そしおこれだから玠人は、ず我が実力を䞍甲斐無く思うのだが、西郷が戊線から離れた、決定的に参謀職から倖れたタむミングが掎めなかった。ここが読たせ所、ずは意気蟌んでいたのだが。぀たり筆者の邪掚ずしお、近藀の死ず西郷の離脱期を重ねお、いよいよ坂本韍銬登堎ず。西郷の圹職䞊の動きが芋えなかったので、どうするかず再考し、邪掚のたた進めばいいのではず思い至った。故に、そういう流れで進行する。
近藀及び瀟䞭人士が長州-薩摩間で掻動に腐心しおいた時期は、所謂第䞀次長州埁蚎期に圓たる。これははっきり蚀っお調べる䟡倀を䜙り感じない。ただ関心が長州メむンで歎史探究しおいる方にずっおは䟡倀以倖の䜕物でもない、目を通しお圓然の資料である。䜕故䜙り意味を感じないかず蚀っお、単玔に坂本が出お来ないのだ。なるべく倧局的、客芳的に芋おも、坂本が介圚する䜙地がない。テヌマが坂本なので通る必芁性がないのだ。
近藀小䌝が長匕いたのは、所謂第䞀次長州埁蚎ず脱土䜐藩士の重なりが濃厚であった故。坂本がこの時期䜕をやっおいた、䜕凊にいた、あやふやで煙幕が濃い。近藀の挫折、そのタむミングで䞀気に存圚感を増しお行く坂本。そのプレ段階での掚枬。

①西郷ず行動を共にしおいた
②小束の事業展開に加担しおいた

䞡方であろう。西郷自身、そしお小束自身、殆ど明日は自分がどうあるのか甚だ予想の付かない状態。圌らだけでなく、日本が列島芏暡でそんなカオス状態であった。坂本韍銬、これは圓初半ば居候で薩摩に庇護される。たあ坂本だけでなく。ただどうも、ただの穀朰しの居候扱いではない雰囲気は感じ取れる。

䞊蚘の①を取るず、坂本の圹目的な圹目は軍事目的であるず蚀える。そしお調べれば調べる皋、西郷は幕府軍参謀栌でありながら停戊方面に腐心しおいる。西郷が坂本を手䞋ずしお扱っおいたなら、坂本は幕府偎にどちらかず蚀うず匷かった、それが、それだけが脱藩浪士"坂本韍銬"の匷味で、本圓にそれしか持っおいなかった。埌は長州、土䜐にちょいちょい人脈がある、ぐらい。幕府偎に通じお、長州の雰囲気を枬っお、ずやるには䞁床いい、実に䞁床いい人物ではあっただろう。
そしお。これはもう小説的、ずいうか通説版坂本韍銬通りで面癜くないのだが、この西郷隆盛、たあこの時期はただ別名だった様だが、党く小回りが利く様な人間ではなかった。小回りする事が嫌いだから、しない。西郷隆盛ずいう男は特別に坂本韍銬を倧事に思っおいた。䜕故か坂本韍銬は話がずおも達者だったずいう。喋る喋る、の方ではなく"䌚話"が䞊手かった様だ。察話者が話し始めたら、䞀切口挟たず耳を傟ける、そんな人だった、ず。これは蚌蚀を匕甚しおみおもいいかも知れない。筆者の意蚳で。田䞭光顕による。

"党く、圹者ずいうか 皆で話しおいる間も、䜕かの圹を挔じおいるのかず思うぐらいで 䞍気味ですらあった"

田䞭光顕はどうやら坂本韍銬が奜きになれなかった気配だ。西郷は坂本を奜んだ。

話が面癜い
芁点を簡朔に䌝える
人が話しおいる時は聞きに回る

やはり賢い、賢かった様だ。この賢い男は、船の賌入のいざこざ、人間関係、功名争い等無瞁で、残された船のある長厎に珟れる事ずなる。

五十四、

所謂第䞀次長州埁蚎期、これは殆ど幕府軍ず長州藩は戊っおいない。幕府偎は人事等の定めすら纏め切れおいなく、長州は藩内で混乱の極臎だった。幕末期の英雄䌝的に远うずこれも䜕だか道を迷う。䟋えば高杉晋䜜は同胞からも呜を狙われおいた様だ。晋䜜すらこうだったから、同栌の桂、その䞋の俊茔、聞倚も圓然の劂く。理論的支柱、ずは蚀い過ぎか、久坂䌍助が蛀埡門の戊いで散っおしたっお収集付けられる人物、特に若い衆の纏め圹が䞍圚になっおしたった。蛇足で筆者の思い蟌み掚枬、晋䜜には本来人を纏められる力は無かった。圌は本来自由人、悪く蚀えば遊び人。ず、この男の話をするずたた気がそっちの方面に蚀っおしたうのでここたで、悪しからず。
埡門の戊いず長州埁蚎ここでは第䞀次期で結果的に䜕が起こったか。ここに薩摩的な芋地を敎理する。軍事面では西郷の人間的䟡倀が䞀気に飛躍した。蛀の倉の成果が朝廷から、匷調したい、朝廷から認められお長州ぞの埁䌐の幹郚ずしお指名、これも匷調、盎々に指名を受けた。これが䜕を意味するか、ず蚀えば埳川幕府の芁職者や各藩の藩䞻よりも存圚意矩が䞊がった事の蚌巊であろう。もっず穿っお、埡囜の薩摩藩内でも最早西郷は特別な存圚、たさに革呜的な人間の䞊䞋の珟象であった筈。

しかし、人間ずいうものは急激な倉化に容易に耐えられる者ではない。

小束垯刀ず西郷隆盛、䞍仲説。これを時間的に芁玄しお。蛀の埡門の戊いの前ず埌で、西郷隆盛ずいう人が倉わっおしたった。戊いの前たでは小束からみたら先代から莔屓のあった、若い衆から人望がある若頭皋床の認識だっただろう。商売や事業の話にも乗っお来ないし。戊の埌、たさかの朝廷からの匕き䞊げ人事。事件埌に実質䞊、自分の身分を远い越しおしたった事になる。普通の人なら、これは面癜くない。面癜くないが、朝廷の箔が぀いた西郷に察しおどう扱ったら良いか、埮劙で難しかったろう。
䞀方、朝廷の内郚で倧久保䞀蔵は政治的努力をし続けおいた。それが戊の埌に邪魔な長州勢力が䞀掃されおしたったものだから、薩摩的に颚通しが良くなった。぀たりは倧久保もその存圚䟡倀を䞊げた。朝廷内のキャスティング・ボヌドに岩倉越しで手が届くか、それぐらい䞊昇した。

小束、西郷、倧久保

それぞれどこたで関係に銎染みがあったのか、実の所、はっきりしない。簡単に各職業的カラヌを蚘せば。

小束ヌ事業家起業家
西郷ヌ軍人
倧久保ヌ亀枉人ネゎシ゚ヌタヌ。この時期だず倖亀官ずも呌べるか

珟代の感芚で䞊蟺から刀定すれば、セクタヌ、郚門がそれぞれ党く違うからせいぜいの情報亀換する小さな機䌚が数件あったぐらいだろう。幕末期薩摩藩のこれたた掻劇調の濃い友情話には遠い目で持っお臚んだ方がいいだろう。
ただここに、仮定ずしお坂本韍銬ずいう人を圓お嵌めおみるず党おピッタリず敎う。パズルが埋たる。これはよく刀らないが、ずにかく埋たるな。ざっくりず、坂本は西郷には気に入られ、小束からも気に入られお、倧久保ず坂本、これは䜙り話を聞かないが業務䞊幕府偎の意向を探りたかった倧久保にずっお坂本は又ずない栌奜な人材。これをたたひっくり返しお。

小束ずは事業の話ができ
西郷ずは軍事情勢の話ができ
倧久保ずは幕末の内情それは春嶜や勝ずも面識があった者だから。加えお、土䜐閥が䞀掃されおはしたったが、坂本から土䜐偎の持぀重芁な話を聞き出せるの話ができ

前項で述べた、いや匕甚した坂本の盞貌を改めお。

人ず話す事、䌚話する事が䞊手かった

坂本の埡囜、土䜐藩からも泚芖するに足る人物ずなっお来た。新しい藩倖掻動家の頭目ずしお。この京郜のゎタゎタの埌に、ヒタリヒタリず坂本の人生に近寄り始めるのが、埌藀象二郎。新しい頭目の埌ろ盟、か韍倪る、銬倪る。これから海を駆けるがよ。

五十五、

北海道ず坂本韍銬。意倖ず接点がちらほら。今回はこの南囜の男を北の芖点から。

北海道の開発

これはどうも江戞時代初期から脈々ずあった埳川政暩の意欲。実力者が珟れおは消え、の埳川の時代。その実力のある者が出る床に持ち䞊がっおは、政局争いで足を匕っ匵られお、立ち消えずなっお行く。圓たり前だが今の時代ず違うので、この極寒の北の倧地を開発しようずいうのは尋垞ならざる持ち出し金は勘定に入れおいたであろうが、予枬収益を鑑みるず涎が止たらなかったのだろう。
䞀方で、蚀うたでもなくこの地には既に定䜏民族がいた。呌称がナむヌブな問題に觊れおしたうが、少々論を進める䞊での䟿宜で。アむヌの人々の倧地ではあった。アむヌ、ず附らずネむティブず附った方が若干自然か先ぞ進む。
故に開発、開拓ずはネむティブにずっおは本州からの悪意ある䟵略行為にしか感じられなかった、かちょっずした、手ず手を取り合う矎談もあれば残酷極たりない酷い話もある。そしお繰り返しになるが、ちょっず善悪の刀定の問題は眮いお、坂本である。
有名な話は、やはり操緎所時代の北海道開発事業にその存圚をチラチラさせおいる。ここはもう定説通り、普遍的な『坂本韍銬』通り、冒険の奜きな男だったからただ芋ぬ未開の地に飛び蟌むワクワク感は感じおいただろう。
江戞政暩暹立期には束前藩が北海道開発の足掛かりずしお根を匵っおはいた事は匵っおいた。入念に調べれば面癜いず思うが、北は北海道から南は沖瞄たで、かなり物流面進行しおいた時代ではあった。廻船を利甚した海運業がどれだけ目芚たしかったか、この面で筆者はワクワクするのだが、さおおき。
日米修奜通商条玄に斌いお、開く事を指定された枯の五枯の内、凜通がある。欧米から芋おも、かなり旚みの芋蟌める土地であった事の蚌巊である。そしお この江戞埌期、特にこの開かさせられた五枯、かなり欧米人で湧いおいた様子。長州的な危機意識で鑑みれば盞圓に危機的。実際、日本の資源が過床に流出もしおいた。
坂本たで、圓時の坂本の圹職らしい圹職ずいえばせいぜい操緎所の塟頭、ぐらいではあったが、これが掟遣されおいたずいう事は江戞政暩的に北海道進出は急務性に拍車が掛かっおいた蚌巊ずもなるだろう。
少し時を進めお、操緎所の解散埌は薩摩藩に厄介になる坂本だが、ここに小束垯刀がいた。䜙談で、盞圓に小束に気に入られお、䟋の眉唟物の"日本で最初の新婚旅行"の段取りを取ったのも小束、ずされおいる。前の各章でもやんわり觊れたが、この人物は欧米匏新芏事業に意欲を燃やしおいた実業家、起業家であった。

そしお

薩摩は薩摩で独自に北海道進出を䌁画しお進行させおいた。

そこに坂本韍銬、チラリず

時代は混迷を極めおいた。政治、戊争、事業。䞀぀の分野で䞀぀事に集䞭しおいられはしなかっただろう。坂本韍銬物語の魅力ずしお、そんな様々な意図が亀錯した䞭心に坂本韍銬ずいう快男児が亀わっお詊行錯誀の最䞭にいた事の躍動性がある。
坂本は埡䞀新前に果お、小束も埡䞀新政暩発足しお暫くで亡くなる。北海道の開発の進展の善悪や銖尟䞍銖尟は刀定しない。ただ短い坂本の䞀生の内、圓時の䞻政暩や新勢力の芁人達の先兵ずなっおいた事は事実の様だ。

小束の手駒、ずしお芋れば

長州-薩摩間の混み行った問題には近藀
新芏事業地の準備ず珟堎監督ずしお坂本

ず邪掚すれば、䞊手い圹者の配眮であるな。

五十六、

所謂第䞀次長州埁蚎期の埳川偎のゎタゎタで恐らく西郷はうんざりしたか、若しくは藩からの垰還呜什があったか、所謂第二次には参戊せず。坂本はずいえば、これも盞圓詳现䞍明な掻動詳现䞍明な件を掻動、ず明瀺しお良いものか詳现䞍明なものだから別に遊んでいた可胜性もあり、そこにどうのこうの突っ蟌み入れる事が無粋。䜕せただただ若い男だったのだから。“日本の倜明け”を考えるのも、女の子ず遊ぶのも、楜しんでいたっお特段悪い事もない。さお。
京郜及び畿内、そしおもっず想像を逞しくしお北は北海道凜通か西は長厎の広範囲移動には流石に明け暮れおいたかだが西郷垰還これも明瀺しお良いのか疑問のタむミングで、坂本の掻動拠点が長厎に定たった事は勘付ける。西郷のあやふやな垰還は、次の第二次長州埁蚎開戊期。第二次期で薩摩は䞀切埳川-長州間のいざこざから手を匕いた、ず芋お取れる。
小束的芖点から芋れば、戊争ビゞネスの倧チャンス。千茉䞀遇の事業的成功の時。ここに目を掛けおいた土䜐の近藀が自害する。たあ恐らくだが、近藀䞀個の死は冷たい蚀い方だが小束的にもそこたでの打撃ではなかったかも知れない。長州偎に自分の息の掛かった井䞊、手元には右腕の五代、これだけで充分ではあっただろう、容易に想像は付く。

ただ、船なのだ

闇取匕も闇取匕。非公匏の倖囜船賌入、そしお長州-薩摩の事実䞊折半で萜ずした。どちらがどう、䞊げた利益はどう行くこう行く、近藀が取り仕切っおいた。五代か井䞊に投げお、あずは宜しゅう、それでも遞択肢ずしおは良かっただろう。だが、やはりこの闇船は土䜐の者にやらせた方が良い、色々䟿宜が立぀。
掚枬で、恐らく近藀はこの船の管理・運営に関しお殆ど同士ず意芋亀換しおいなかった。そこに本人も恐らく思っおも芋なかった自死。近藀ず共に掻動しおいた仲間も船の動かした方や管理に぀いおは、それは䞀人で動かす物ではない蚳で、経隓はしおいただろう。小束はやはり目を掛けおいた土䜐人士も限定的だったのか
近藀長次郎の死埌の少し埌に、坂本がやっお来た様だ。

ここがドラマや小説であるず、同士を叱り付け近藀の死を悌むシヌンに100%なる。

だが恐らく、近藀の死は死。自分達の今埌、特に残された船の件は、近藀の死よりよく語らった事だろう。

たたし぀こく坂本のドラマや小説ぞの突っ蟌みになるが、倧䜓このヒヌロヌ物はもう最初期から仲間達のリヌダヌ然ずしお話が構築されおいるものだ。もっず詳现な分析及び掚枬は

①第䞀次長州埁蚎期の坂本の裏掻動がよっぜど薩摩から評䟡されおいた
②立身の䞊げ朮の西郷ず共に自身の存圚䟡倀も䞊がっおいた

意地悪く断じれば、棚ボタ。船長を倱った船の事実䞊の埌任めいた者にはなった、かあやふやだ。近藀ずいう特呜を垯びおいた先任を匕き継ぐ圢で、坂本韍銬、圌が船の頭目的にはなっお行った様だ。
そしおここからが真に面癜い所で、所謂“薩長”の闇取匕が西郷・坂本を立おお進んで行く毎に、ビゞネスずはちょっずニュアンスの離れた趣きに倉質しお行く事。

抌さえるべき点は
西郷も坂本もカネカネしおいない。

五十䞃、

倧分時間を取っお薩長同盟のプレ段階を探っお来たのだが、それでこの事案が“商売ありき”で起こった話だな、ずは客芳的に芋おも刀断出来る。坂本の、そしお熱い明治維新の英雄䌝ずしお通過するには、䜙りに冷や氎を振るこのプレ段階は、特にドラマ化、小説化するには掘り䞋げお語る事を避けた方が埗策である。

だが、客芳的に芋お、そうたで擊れた単なる商談だったのか

これが倧いなるドラマずしお成立し埗た事には、軞ずなる男がいた事だろう。蚀わずもがな、それは西郷隆盛である。たた冷たく冷静に芋お、この件に関わった人物、坂本、桂、高杉、どれず比べおも戊火の埡所を守った実瞟は別栌である。それぞれに思い入れのある方には申し蚳ないが、そう刀定する。

西郷が薩摩偎の顔ずなったから、この件に人の心を捉える熱が発したのだ。

これたで远っお来た西郷の経緯を芋お、蛀の埡門で長州過激掟を远っ払ったものの、長州埁蚎の宣以来長州に同情的であった。西郷は根っからの情の人。情で動く。長州人士の過激ではあったが救囜の憂いに発する行動に想う所倧であっただろう。埁蚎の䞀次期で京を離れお薩摩に戻った、かだが歎史の字面では即薩長の䌚談の顔ずなっおいる。

ここに筆者の邪掚を。
垰郷した西郷は小束にずっお曎に増しお接し難い人物ずなった。䜕せ、朝廷から盎に埁蚎軍の参謀栌に任じられたのだから。地䞋で進めおいた長州ずの密貿易。だがネゎシ゚ヌタヌの近藀の死、埌もう䞀点ずしお長州の聞倚も功山寺の挙兵たでの藩内内玛でたずもには亀枉出来おいなかったろう、兄貎分の晋䜜、朋友の俊茔たで呜を狙われおあっちこっちに朜䌏しおいた様だから。蚀い過ぎであるかも知れないが、小束垯刀、この密亀枉に関心が散っおいた、か
亀枉事の顔ずしお立ったのは、どうやら西郷。藩䞻からの支持なのか、小束の手配に寄るものかは刀らない。小束の心理、密亀枉の進展䜜業が面倒であった、それは邪掚だが、曎に恐らくの本心の掚枬で、この亀枉の党面には出たくなかった、ず。党暩も持ちたくなかった。こんな危険な亀枉に顔を貞しお䜕かの際远及されるのは絶察に避けたかった筈だ。そこに郜合良く、西郷が垰っお来た。タむミング䞊、実に郜合が良い。西郷に衚に立たせお、自分は利益を取る、これは䞊手く運ぶ。長州からの憎悪、幕府からの怚嗟、党おこの男ならがっぷり受けおくれる。
たあ、小束が逃げた、ずいうかなり意地の悪い掚枬ではあるが、これに則っお小束の誀算の様なものも付け加える。

責任から逃れたらば、難事の件でもし成功した堎合、起草者であっおも人に評䟡されない。

ただこの段階でかなり靄の掛かった商談の件を西郷は、受けた。その動機を掚枬するに、実に容易い。

①商売などの話ではない、矩を果たす為の話だ
②長州・薩摩もなく、埳川の腐敗を糟す志の戊には協力する
③䜕れ薩摩軍が東䞊するこれは成圬の果たせなかった志際の垃石ずしおの長州ぞの介入

西郷の䌝えられる人物像ずしお、これ以倖のそれこそ邪な考えはなかっただろう。長州の収集付かない動乱の䞭、話すら曖昧になりかけた所にたず西郷がどっしりず座った。亀枉人の空垭はそこに、坂本がこれも郜合よく嵌たった。小束からのりケは良かったが、近藀皋の実務力は期埅されおなかっただろう。だろうが、この男はこの男で近藀ずは趣きの違った亀枉術を発揮しお行く事になる。
次回の皿ぞの繋ぎずしお、功山寺の挙兵で曎に人材䞍足の藩内幹郚垭に、桂小五郎が入る事になる点を付蚀しお。

五十八、

たた䞀぀、遠回り。長州藩で起きた功山寺挙兵に぀いお。坂本を語る際、なるべく長州の話は避けたかった。ずいうのは磁堎が匷過ぎる。そしお高杉晋䜜の魅力。これに抗う事など出来ようか、日本男子ならず拳握り締めお調べ物の文字远いしおしたう。冷静に、冷静に ず我に蚀い聞かせ、今回も皿を綎る。

付け足しポむント、ずしお。これもやはり、ずいうか本論の䞀倧テヌマ、『衣装歎史孊』であるが、高杉の華矎な文章蚀葉による“衣装”も剥がさんずなぁ、ずなる。実物ず䌝えられおいる本人に盞圓のギャップがある。筆を進めるが、高杉晋䜜奇兵隊功山寺挙兵の勝利ではない。そしおこの戊に぀いおの読み物を読む事を掚薊する。

調べた䞊で少し西郷の動きが芋えた。やはり幕府軍ず長州の党面衝突回避に専念しおいる。面癜い点ずしお、広島や銬関に赎いお長くややこしい亀枉事に腐心しおいた様だ。資料䞊では冷静に長州藩を袋叩きする準備だけは敎えられおいた様子だ。

ここに本皿の䞻軞の坂本はずいっお党く介圚する䜙地がない。無論、資料䞊にも出お来ない。故に、この神経を倧分収瞮緊匵されおいた時、西郷が坂本を手元に眮いお話し盞手にしおいたかも怪しい。

この怪しさ、を取れば 

坂本はどちらかず蚀えば、小束の仕事を行なっおいた、か

だが西郷ずの密接さも無かったずは思えない。

故に、䞡方やっおいたんだろう。

ここで“if”、仮定ずしお。
もし功山寺挙兵が無かったら

①幕府、責任者の党員凊分※実際ほが凊断されたを迫る
②藩ずしおの薩摩及び西郷個人が曎なる躍進を遂げる
③長州毛利家事実䞊お取り朰し。そしお列島芏暡倧で芋お玔粋に護囜をむデオロギヌずした䞀勢力が無くなる

この仮定で進んだ日本史はどうなっおいただろうか
意倖ず幕府埳川からも信頌の厚かった西郷、朝廷を抌さえた倧久保、ずどちらかず蚀えば穏健的に埡䞀新が進んだしかし、過去の成圬の起こした兵を䌎った䞊京劇も芋逃せない。特に西郷は志の根底に成圬の面圱が濃厚である故、やはり埳川家取り朰しの方向には向かったか

功山寺の挙兵ずそれに纏わる䞀連の事件。これで藩論を倧返し出来た事が埡䞀新埌、長州藩が参政に携われた。これを人材ずいう点で芋るず。

山瞣有朋、䌊藀博文、井䞊銚

この蟺りが日本史䞊に名前を刻めなかった事になる。

“もっず他に、倚くの有益・有望な人物はいた”

そうも来るだろうが、ここでは功山寺挙兵が䞍銖尟であったなら䞊蚘䞉者のかなり重芁な人材がいなかった事になり、䞀新埌の囜の運営もガタガタだった事は疑いない。

功山寺の挙兵、ず来れば土䜐的芋地から芋お、たあ代衚遞手的に、䟿宜的に䞭岡慎倪郎が思い浮かぶだろう。※もっず倚数いた坂本ず違っおこの男は長州及び攘倷掟の公家ず心䞭する勢いだった様だ。

䞭岡の存圚
これに坂本の存圚を重ねお

どうも長州にしろ薩摩にしろ、土䜐出の人間を囲う事に䜕かキャリア䞊の利点及び利䟿があった様に思えお仕方がない。たあ、この維新期、攘倷の思想掻動に足を突っ蟌んでいれば雄藩が抱えおくれる、の様な雰囲気もあり、薩長土肥に限らず脱藩者は倚囜籍だったのだが。しかし、土䜐出の優遇のされ方は䞀味違う。

坂本は気が良く倢の銬鹿でかい奎で面癜いから仲間だ
䞭岡は志䞀培で自分達ず心は同じだ

それだけでは、こうたでならない。

倧分字数を䜿った近藀長次郎の小䌝 
そこにヒントがあるず態ずらしく瀺唆し。

今埌もう少し、ニ、䞉回䜿っお功山寺の事件を掘る。

歎史の圓然で芋返せば、功山寺挙兵があっお志士達は明治維新に驀進出来た。この圓然を匕っくり返せば、功山寺挙兵の成功が無ければ、所謂“薩長同盟”がなかった。

぀たり、珟圚出来合いの坂本韍銬物語も半分は構成成立䞍可だった事になるだろう。

五十九、

故に功山寺挙兵こそがドラマずしおの所謂“薩長同盟”ぞの事実䞊の繋がりずなる。もう功山寺の件の時点で埳川掟に厭戊の雰囲気が濃厚であった事も留意。長州を叩く事自䜓、もう面倒であったず。少し掘り䞋げれば、長州埁蚎の為に軍もっず正確に蚀えば連合軍を線成する際の人事や囜家内各所で同時期に起きおいた玛争のあれやこれやでもう機胜しおいなかった様子だ。西郷は粛々ず衚向きの“仕事”はしおいた様だが、連合軍内の内玛に次ぐ内玛で嫌になっおいただろう。

功山寺の件は長州内の察立ニ掟の諍いが極たった䞊に起きたが、ここに䞀぀疑問の匟を撃぀。

よく歊噚匟薬があったな 

高杉なり、山瞣なり、赀犰なり。たあ藩論がニ掟に割れおいた、ずいう事は䞻戊掟の有力者もいた蚳でそこから䞋ぞ流出しお培底抗戊掟に流れおいた、ずは芋お取れるが、この芋立おは䜙りに“正攻法”かな、ず。もっず悪い方に考えお良く刀らないルヌトから歊噚仕入れお戊ったず掚枬入れるのが、どっちかず蚀えば“男のセオリヌ”。䜕せあの“高杉晋䜜”な蚳だから。かなり字数を圓おた小束垯刀呚蟺からの“事業”ずしお長州内の培底抗戊掟に歊噚が流入しおいたず掚枬したり、薩摩に限らず䞭囜地方諞藩及び北九州の長州隣接藩シンパからの歊噚の流入等考えお、悪い方向に掚枬を䌞ばした方が返っお所謂“歎史孊”的には健党かず思う。

“裏ルヌトを開拓せよ”

こう考えおそこに土䜐脱藩組が、これも“事業”ずしお参戊しお行き易い流れが生じおも䜕らおかしい事もない、ずいうか実際そうだったのだろう。身も蓋もなく『薩長同盟』こそがその最倧のこの䜓裁なのだから。

事業なのか志なのか

これは筆者の個人的抂芳なのだが、どっちでも良いず思う。ある者は歊噚の亀換商売で利を䞊げお富を為そうずした、ある者は玔粋に長州の内乱を囜レベルでの囜難ずし長州内培底抗戊掟に協力した、それぞれ諞氏いただろう。倫理的に歊具の亀易、所謂“死の商人”ずいう芳点からは筆者のいい加枛な刀定は噎飯物ではあろう。しかし、戊うには金がいる、歊噚がいる。そしお歊噚を手に取らなければ、自分個人の呜から囜家的呜運たで尜きおしたう、ず切実だったろう。実際、倚くの人士が倧陞の培底的な搟取の埌の囜家の惚状を目の圓たりにしおいたのだから。ここで圌らが戊っおくれた事で、珟代の我々には囜家の基盀がどうにかこうにか残されおたあ1945幎埌にアメリカに培底的に囜家が砎壊されおしたったが、こうしお繁栄貪っおいる。

土䜐脱藩組は名目は薩摩抱えの仮名矩、土䜐藩は名乗れなかった。もう䞀掟の土䜐脱藩組は長州内の内乱で長州人士ず共に戊った。

功山寺を拠点に展開するこの内戊だが、最終的には山瞣はじめ各諞隊の善戊で盛り返し䞀旊の収束を芋た、ず。

なるべく高杉に介入ぜずに遠回しに、今埌ももう少し芋お行く。このカリスマの磁堎は䜙りに匷く、冷静な分析の劚げになる。

埌䞀点、珟段階で蚘しおおきたいのは䞭岡はこの玛争期、共に郜萜ちした公卿、有名な䞉条実矎を筆頭ずした貎人達の譊護及び身蟺の䞖話、たた話する事の代理人、等其方に付き埓っおいた様だ。その拠点ずもなった功山寺。数倚くの志を共にし散った同郷異郷問わずの仲間達の粟神を背負っお。䞊蚘の貎人達に党おを賭けお。この時点での䞭岡に“小束スクヌル”の気配は感じられない。あくたで、この時点。

六十、

愈々の本題、ずいうか。歎史のペヌゞ進行的に功山寺の件の成功が終われば、第二期の長州埁蚎ぞず流れる。この䞀囜家圓時は藩が䞀囜家単䜍混乱の極みの件、掘り䞋げればそれだけ面癜く諞事実諞事情数限りないのでここで打ち切るのが䞊策。䜕せ、テヌマは坂本なのだから。

功山寺の件にどこたで薩摩及び諞藩が介入したか、䜙り定かではない。結果的に長州の培底抗戊掟が勝利しお、長州䞀藩䞀䞞ずなっお埳川ず戊う指針ずなった。ここに長州藩執行郚は勝機を芋出しおいたのかどうか。歎史ドラマっぜく取るず情熱のたた、半ば滅亡芚悟で戊に突入する、ず。䜕せ、京郜の政倉、埡門の件ず儀助はじめ皆戊火に身を投じお果おた。歎史ドラマっぜく芋ないず、晋䜜は功山寺挙兵の成功埌、俊茔を連れおむギリスに遊びに行こうずしおいたずか䜕だか。たた晋䜜に話題が逞れる本圓に人を惹き぀ける男だ。

功山寺埌䞀䞞ずなった長州を情勢的に芋お、これであの藩は埳川ず本気で䞀戊亀える、ずなりこれを埳川ず䞀緒になっお袋叩きにするか日和芋決め蟌むかの二択が遞択肢ずなる。たあ歎史の流れでご存知の通り、倧半の藩は日和芋を決める。

長州に協力する

この遞択肢は䞉択ずはならなかった

長州に協力、ずいうより介入する、この遞択肢を取ったのが薩摩藩。所謂“薩長同盟”で呚知されおいる。だが泚意したい点は、この所謂“盟玄”が第二期の長州埁蚎の埌。長州が埳川ずその同盟軍を跳ね返した埌に成立した様だ。

故に、時系列で芋るず、長州は半ば自力で埁蚎軍に勝利した事になる。

䞀次、二次含めおの埁蚎期、坂本はず客芳的に芋るず、いや芋るたでもないか、ずっず朜䌏的に地䞋掻動をしおいたず芋るしかない。しかもどうやら䞀぀や二぀所ではない䞍明瞭な掻動を同時的に行っおいた、か

坂本に船が枡った、もう少し突っ蟌んで蚀えば、坂本及び土䜐の䞀団のよく分からない理由で保持しおいた船の運営の筆頭栌ずしお坂本に枡ったらしい、これは第二期埁蚎の開始ずほが同時期。

“薩長同盟”以前に船を掻甚した䜕某かの掻動は既に行われおいた。

坂本がそれを“匕き継いだ”。

こう抌さえるべきだ。

よく分からない䞍明瞭な件を幟぀も抱えおいた坂本にもう䞀件、その肩に乗った、ず。前項で功山寺の玛争で長州培底抗戊掟の歊噚の出所はず淡く疑っおみたが、これは正確に曞かない、いや曞けない、そしお調べたくもない。これは読者や歎史奜きな方にそれずなく臭わせる皋床が、味付けずしおベストだろう。

䞀぀、有名な眉唟物の゚ピ゜ヌドを敢えお茉せるが、埌に京郜で襲われる坂本、短銃をぶっ攟し応戊、その短銃の出所は問えば 

「あれは高杉からもろた」

この悪さ盛りのガキ二人に纏わる嘘かどうか刀らないハナシを倧人の目で冷静に考えお。

高杉の所には歊噚が豊富にあった
坂本はその界隈及び歊噚が豊富にある所に頻繁に出入りしおいた

ずなる。そうなるずこれたで項を進めお思考を耕しお来た、小束垯刀元の事業展開に埓事しおいた仮説も匱く暗くなる。

「おう、䞡方やっずった」

“坂本韍銬”に軜く、いなされそうだな。

六十䞀、

ここで䞭岡慎倪郎に぀いお螏み蟌む、ずいうか歎史孊者装っお資料远究する蚳ではない。飜くたで“衣装歎史孊的”に盎感的邪掚を持っおその道を蟿るだけだが。

生い立ち、経歎は省略。功山寺の反乱の時、共に郜萜ちした公卿を守護しおいた様子だ。䜕か螏み蟌み難いのは、たあテヌマの坂本にしろ、䞀぀の事に的を絞っお掻動しおいたのか、いや違うだろう、ず。かなりの量の“副業”的任務をこなしおいた、いや、こなし切れおいたかも疑問だが、兎に角よく刀らない件を䞀人䞀人数倚く抱えおいた事はみお取れる。故に䞭岡、公卿達の守護のみに圓たっおいたのか埮劙である。恐らく諞説ある。そしおもっず恐らく、功山寺の反乱に参戊しおいたか。曎に曎にの恐らくで、倚分資料を厳密に远えば90%方参戊しおいる。䜕ず蚀っおも、京の政倉劇及び蛀の埡門にも半ば長州勢ず心䞭物で参戊しおいた血気盛んな男だったのだから。

ただ功山寺にのめり蟌んで参戊し切れおはいなかっただろう、ず圓筆者の提蚀。ずいうのは、元を糺せばやはり最重芁任務の公卿守護が䞻であっただろう。培底抗戊掟の粟神的支柱の䞉条公以䞋、ずあれば埳川恭順掟に狙われるのは確実だった。呜は取らないたでも、この公卿達を保護しお京に安党に垰還頂く為に、狙われただろう。それから護らねばならない事、䞻呜である。

功山寺の反乱は培底抗戊掟の勝利で終わる。長州藩政執行郚が培底抗戊䞀色ずなる。この時点でも長州、半ば砎滅芚悟の舵切りなのだが、兎に角䞀臎した。

ここから、どうも䞭岡個人の“䞻呜”の様な物が倉わった様だ。

歎史埌远いの我々から芋るず、“薩長同盟”ありきなものだからそっちの方面に八面六臂するんだろう、ず疑いなく。しかし芋方を倉えれば、公卿の守護の重芁任務を倖された、ずなる。そしおそれ以䞊の重い任務が圌に課された、ずそう现かく芋よう。

この坂本韍銬远いの論考だが、やっずの事、この幕末最倧のバディ、坂本・䞭岡の話に入らねばならない。

しかし冷たくプレ段階を敎理する。

この二人は、この時点たで恐らくほが接点はなかった。掻動のベクトル、個人思想、党く異なる。仲は良かった、ずはちらほら散芋するが、䜕せ“人たらし”の坂本韍銬、あたり誰それず仲が悪かった等の話を聞かない。岡田以蔵でさえ知己があったずか䜕だか、有名な眉唟話、勝のボディガヌドを岡田に頌んだ、なる物たであるぐらいで。

坂本は瑞山ずは仲が良かった、぀たり䞊䞋もなく、同茩であった、ず。しかし、これは圓時の土䜐では非垞に特殊な事で、坂本以倖の男達皆“歊垂先生”、“瑞山先生”ず呌びその教えず思想的指導を拝聎させお頂きありがたやありがたや、な物だった様だ。

“䜕でこい぀が瑞山先生ず屈蚗なく話せるのか”

皆、そう思っおいたらしい。恐らく、䞭岡も。

䞭岡は瑞山心酔の若者、そしお曎にその栌䞊の長州の久坂儀助の心酔者、曎に玔粋攘倷思想の䜓珟者、真朚泉ぞず、尊王攘倷の道たっしぐらに疟走しおいた。

それに比しお坂本のキャリア 䜕をやっおいるのか 勝の所にいたず思えば幕府の海軍操緎所に圚籍しおいたり。たあ、容堂䞻導の土䜐䞀囜海軍・海運業匷化の流れはあった事はあっただろうが。䞭岡に坂本の行動を理解・把握する事は無理だった筈だ。

そしお幎霢も意倖に結構離れおいる。かなり坂本の幎䞋の䞭岡。

倧雑把に考えお、功山寺の反乱が接点の遠いこの二人を結び付けた。薩摩抱えで運甚は長州の埮劙な闇貿易の船に、“あい぀”がいた。぀たり歊噚の流れの最䞭に䞭岡もいた。公卿譊護を離れお。

“おんし、䜕故ここにおるが饅頭屋はよ”

“饅頭屋は死んだがよ”

“死んだ”

“おう、腹かっ捌いお果おた。せんかたなくあしがこん船、預かっちょる”

“そうか ”

小説にしおはならないので、今回ここたで。

六十二、

珟代で蚀う“人事異動”なのかあたり定かではない䞭岡の異動。たあこれもきっちり調べればあるにはあるだろう。しかし筆者の邪掚掚枬ずしお、同䌎公卿から盞圓信頌のあった䞭岡を倖す、ずいうのは 銖を捻る。こういう人は倖さずにぎったり殿䞊人に付けお安心させお然るべき。ずいう事は䞉条公及び同茩も䞭岡を偎から倖す事に同意した、ず芋なければ。䜕のどういった理由で信頌厚い䞭岡を離しおたで、圌にやっお貰うべき件が発生したそれは公卿にずっおも長州にずっおも、利なる事倧な事柄曎に進もう。

功山寺の反乱埌、いや成功埌、䞀気に躍進した人物。これも倚く意芋はあろうが、ここでは桂小五郎ずする。聞倚なども飛躍出䞖した口であろうが、ある意味桂もここで“桂小五郎”になったずしお異論なかろう。ここたでの長州の若い集の“顔”ず蚀えば儀助だったが、遞手亀代が成された。ちょっず逞れお、“長州の顔ず蚀ったら晋䜜以倖いねぇじゃねえか”ず来そうだ。たあ筆者も晋䜜が奜きだからそれでもいいが、䞀歩冷静に控えお。高杉ずいう男は本圓に“遊び人”だ。ちょっず経歎調べればすぐ刀る。兎角、責任職を嫌いすぐバッくれる。人気、カリスマ性、それは段違いで高杉にある。だが本人、“顔圹”になる事にサラサラ関心がなく、いや寧ろ嫌がっおいた様だから。奇兵隊ずいうより培底抗戊掟軍、俗に蚀われおいた“正矩掟”軍の総称ずしおの総督になる気もなかったずいう しょうがない奎だ。

桂の圹職的䞊昇、そしお第二期の埳川からの懲眰戊。盞圓に桂ぞの負担が掛かった事間違いなく。

筆者個人の幕末期人評。
幕末期第䞀の人物は桂小五郎である。
知勇兌備。容姿端麗。非の打ち所がない。
埡䞀新埌、その呜が長くなかったのが残念である。

吉田塟には正匏には圚籍しおいなかったらしいが出入りはしおいた様子だ。束蔭ず蚀えば匟子の人物評。たあ結構偏っおいるのず恣意的思い蟌みかであるずは思うが、埌䞖我々、圓時の長州人士の性栌キャラクタヌを探るには結構な資料だ。有名な、ほが長州の志士のほがキャッチフレヌズずしお通った物ず蚀えば

吉田塟の双璧
久坂ず高杉

では圚塟籍なき桂に察する物はあったのかあるのだが、最高の評䟡である。たあ寞評であるので調べおみお読んでみるに時間は取らないので、関心の湧いた方には勧める。たあこの情愛の深い指導者、教職的平衡感芚で評の仕方に非垞に行間に耇雑な物が垣間芋えるが、桂の評に関しおは極めお冷静。儀助、晋䜜に察しおは“もそっずこうであれば ”が豊最に詰たっおいるのだが、桂に察しおは“癟点満点。非の打ち所がない”ずいう感興が淡々ず綎られおいる。

人物評、の点で少し逞れる。
たあ所謂『幕末期』。英雄乱立で歎史奜事家各人思いが分かれる所だ。生きおいれば生き残ったのずは比べ物にならない者がかなりいた、ず熱くなるのが垞である。䟋えば、橋本巊内など。

その䞭で䞀人。
長井雅楜 

埌、ほが新政暩の最高暩力者栌ずなる岩倉をしお

“長井は、あれは倧久保や桂なんぞ比べ物にならんぞよ”

ず蚀ったずか䜕だか。
功山寺の反乱埌、自決する。この理由が䞍明瞭。培底抗戊掟の山瞣、赀犰等からはほが殺意を持たれおいたらしい晋䜜は埮劙が、客芳的に死んで責任取る様な圹職的絡れはなかったずか䜕だか。長州志士の英雄䌝説䞭、盞圓な悪圹ずしお眮かれるが、これも調べおみおその“衣装”が剥がれた次第を報告。

今段の本懐に戻り、䞭岡の異動、これに桂の圹職出䞖を絡める事を臭わせお〆る。たあし぀こいが、聞倚の出䞖䞊昇もある。このたた筆を進めたくもあるが、“バディ”ずしおの坂本、それに察しお䞭岡・桂の関係は“瞊”、実質“䞊叞ず郚䞋”に圓たるか
次皿たで埅たれい。

六十䞉、

功山寺の反乱で藩の意志がほが統䞀した長州が所謂“第二次長州埁蚎”ぞず進む。ほが滅亡芚悟、埡家取り朰し、幕府にずっお危険掻動家も負けたら呜はない。ただ負けない為の凡ゆる努力は為されおいた。埌から芋る歎史ではなく、同時代性“コンタンポレヌヌ”に歎史を芋る。故に所謂“薩長同盟”は長州延呜の四方八方、手に觊れる物ならばなんでも、の䞭の䞀策ずしお、そこに土䜐の䞀団の地䞋掻動が芋え隠れ、埳川執行郚から芋れば土䜐脱藩者の小さな䞀団の掻動など目に入らなかっただろう。

しかし第二次長州埁蚎の機、長州の執行郚の掻動のフレキシブルさは特筆物である。時間がある方はざっず長州偎の兵力の数を芋おみるずいい、各郚隊10から100の話にならない小兵隊の寄せ集めだ。そしお数倀的な物から目を離しお文章による蚘録に関心を移せば、執行郚内のガタガタさえなければ戊ずしおは問題になり様がない“袋叩き”状態。

確認で留意点ずしお、所謂“薩長同盟”はこの埁蚎戊の埌にオフィシャルに成立する。

桂は第䞀次期及び功山寺期は自囜ではなく近隣各囜に朜䌏しおいた様子だ。これは恐らく歎史家ははっきり明瀺し埗ないだろう。䜕凊そこにいた、ずは芋受けられるが恐らく本囜にも頻繁に出入りした筈で、“いた”ずいうよりかは䞀時滞圚の蚘録。たあ桂のみならず高杉、俊茔、各人北九州にいた長厎にいた九州党土を回っおいた四囜にいた、収集付けようがない。たたの恐らくの邪掚で本人達も自分が䞀䜓䜕凊にいお䜕をする為に生きおるのか、刀らぬたたただ無我倢䞭で“生きおいた”のでは“青春”であるな。

晋䜜、俊茔の兄匟分は眮いお、狂介・桂はちずニュアンスが違うだろう。“青春”では“生きお”いなかったかず。山瞣などはこの時期のお膝元の実戊に斌いおほが前線で指揮を採っおいる。桂は 

江戞川乱歩の有名な創䜜アむコン・フィギュヌル

『明智小五郎』

これは桂小五郎がモデル
こんな事は歎史奜事家の方に付蚀説明する事、烏滞がたしく、申し蚳ない。

京郜の政倉・蛀埡門の乱埌、郜内及び呚蟺に散った同志達を朜䌏的に救呜行動を採っおいた、ずいう。信じ難い勇気ず腕力ず知力だ。筆者個人的に晋䜜の方が奜きだが、この責任感・䜿呜感・正矩感には遥かに桂に軍配が䞊がる。ほが少幎マンガの䞻人公然、ど真ん䞭の正矩感。それをフィクションではなく地でやっおいたのだから。たあちょっず穿っお、䜕ずか残党を集めお本囜に垰還させ幕府ずの戊いの兵力に圓おる、ずの目論芋もあっただろうが。

桂ず䞭岡

故に、䞭岡慎倪郎ずは桂の衚舞台登堎・圹職的躍進がなければ所謂“䞭岡慎倪郎”にならなかった、ず思うのだ。“故に”、の前が抜けおいるでは取り付けよう。䞉条実矎ず同茩公卿の郜萜ちに同䌎しおいた䞭岡。そしお玔粋尊王攘倷思想の真朚ず共に戊っおいた䞭岡。桂には“䞋”から芋る芖点も逊われおいた。

人の真の努力ず本懐は、その人の背䞭を芋おいる人に、蚀葉ではなく盎感で感知される。

その人を助けず、応揎もせず、寧ろ反察に凡ゆる意地の悪い遮りをしようずも、そんな茩にすら、うっすらその努力ず本懐は無意識䞋に映像ずしお録られおいる。

薩長間の秘密裏の闇亀易、藩内の動乱、土䜐脱藩者偎の頭目の近藀の自決、藩の執行郚の亀代・若手の躍進、その䞭で聞倚もこの密貿易の件に掛ける比重が枛ったか聞倚は聞倚で䞃面六臂しおいる。ここに誰かを圓おお眮かねば薩摩経由の歊噚が滞る恐れがある 

『䞭岡君』

呌び掛けたその背䞭に、真朚、来島、そしお 
振り返ったその瞳に、儀助、そしお 

“この土䜐の男の魂には僕達の同志の魂が宿っおいる”

䞀石、公卿随䌎から䞭岡を離したのは実質的に桂だろう。

六十四、

かなり掻動家ずしおも有力な若き土䜐脱藩者の䞭でも䞭岡が“ここ”を実質担圓する。長州偎の窓口ずしおの顔ずなったのは前皿に臭わせた様な理由か。たあおさらいで、聞倚の過重劎働、桂の躍進、䞭岡の信甚等で䞊手く嵌った、ず。そしおもう䞀点おさらいで、この時期の近藀の倉、自死による欠員、ず。この近藀の欠が、薩摩ヌ長州の密貿易の商売的ニュアンスから倉貌したのではないかずいうのは、近藀存呜で密貿易が継続しおいたならば、ず仮定せば䜕ずなく䌝わるかず。恐らくは珟代におけるここたでの掻劇調の物語ずしおは䌝わっおはいない。“熱さ”よりクヌルなビゞネス色の“蚘述事項”ずしおしか䌝わっおいないだろう。

時代を超えお䌝わるには、“熱”、人の心を熱くする“熱”が必芁なのだ

䞭岡が立ち、いや立おられ、この件にその“熱”が、冷たいビゞネス・歊噚の密茞ずいう死の商売に“矩”の炎が圓おられ加熱した、か

倧䜓、この玔粋尊王攘倷思想掻動家の䞭岡にこの入り組んだ“ビゞネス”が務たるのだろうか

これは桂の“賭け”だっただろうな 
よっぜど“男”ずしお芋蟌んだのだろうな 

他方、あたり聞倚のバむオグラフィヌは抌さえおいないが、功山寺ヌ第二次長州埁蚎ず倚忙を極めおいる。䜓が䞀぀では足りないぐらい働いおいる。蛇足で、ちょっず目を離すず兄貎の高杉・兄匟分の俊茔がむギリスに遊びにバックれ行こうずするから目を離せなかったろうし。薩摩ずの貿易の件は、聞倚の性栌から絶察自分が関知しおいたかっただろう。アガリがデカいから。ただ藩の窮状からさすがの“カネの聞倚”も個人のアガリを考慮する隙間がなかったのだろう。

長州偎に䞭岡が立ち
薩摩偎は
我らが“坂本韍銬”か

読者をがっかりさせおしたうかこの点は埮劙である、ず掚枬する。たあ資料䞊、䞭岡及び関係者ずの裏亀枉は重ねおいた様だが 泚意喚起ずしお、この男は“ホラ吹き”で有名であった。そしお、これは蚌蚀でもある様に男ずしおの傟向が高杉ず䌌おいた。たあ、坂本の方が高杉より幎䞊だが。

䜕が蚀いたいかず蚀えば、この密貿易に本圓に誠心誠意関心を持っお働いたかどうか、甚だ怪しいのである。圌、坂本の関心を動かす、ず蚀えば 

船であろう
船は船でも蒞気船

“ありゃあこりゃ饅頭屋から預かった船じゃけんど、あし、こん船、動かせるじゃないがか”

操緎所で培った航海術
習った事が掻かせる

これは人間にずっお最も嬉しい機䌚ではなかろうか

それ以前ごく短い操緎所閉鎖〜薩摩保護䞋期の間でも、船に携わる機䌚はあったにはあったろう。ただ䞀隻、責任職ずなる、それは䟋えオフィシャルなものでなくずも、事実䞊圹職的付䞎・䞊昇で普通の人なら嬉しいものだ。ただこの男は晋䜜ず䞀緒で普通ではないので、責任職自䜓嫌だった可胜性もある。しかし“我の為す事、我のみぞ知る”の圌氏なんだから、本心远求はここたで。

“薩摩の䞋に坂本君か 近藀君は実に惜しかったが。だがあのスケベな話の奜きな坂本がいるのか。色々聞き易いな”

話し䞊手に聞き䞊手。桂の脳裏に奎の顔が過った。

六十五、

桂は第二次の戊に入る前に、どうやら四囜各地朜䌏しおいた、ずも。ただ、この時のこの男である。明日明埌日どこにいるのか、自分でも想像付かなかっただろう。蛇足で、著名な江戞川乱歩のアむコン・明智小五郎であるが、倉装の名人。そしお蚀わずもがな、桂小五郎も、いや桂小五郎が倉装の名人。いや、実圚の人物桂小五郎の倉装の冎えが䌝説的であったからこそ、“明智小五郎”が生たれたのだろう。逞れた、次。

第二次の戊でその名を日本史䞊に茝かせた人物ずいえば 

倧村益次郎、であるな。

曰く“掻劇・明治維新”では長州埁蚎ずいえばもう䞀に高杉、ニに高杉、䞉に高杉 ず䞻人公になっおしたう。絵になるから仕方ない。足しずしお、高杉は䞋関海峡を䞻戊堎ずした戊を担圓した様で、高杉的芋地からはずいうよりも半ば䞀般的にもこの時期の戊を“四境戊争”ず。幕府偎の九州諞藩VS長州䞀藩ずいう 盞圓に無理のある戊い。この海戊及び九州䞊陞戊は、たあ蚀うたでもなく盞圓に苊戊を匷いられたずいう。倧村担圓は西埁進軍しおくる幕府陞軍、ず。倧枠ではそうか。

この戊の䌝説的な逆転劇、それはしかし“掻劇・明治維新”でも倧村に誉れを䞎える事は端折らない。

この倧村の登堎キャリア躍進に、坂本のキャリアが若干觊るのも觊る、ずいえば觊る。

宇和島の倧村を招聘したのは、実質桂だろうな。でなければ四囜に朜䌏しおいなかっただろう。地䞋で倧村ず盎談刀しおいた なんぞ簡易な空想も働く。

倧村もよく長州ぞの招臎に乗ったものだ。半ば死にに行く様なものだ。党おが逆転した結果になったものだから、“倧村益次郎”なのではあるが。

だが、“軍神・倧村”。勝ちの芋蟌みがなければ動かなかっただろう。ただでさえ、宇和島の四賢公の䞀角䌊達宗城に重甚されおいたのだから、そのたたポストに鎮座しおいれば自動的にキャリア䞊昇する事疑いもなく。それ以䞊の将来性を確信した、か。

しかし圌を動かしたのは 
圌の勝算ずは 

長州埁蚎招臎は倧村にずっお最倧のギャンブル、賭けでありダマを匵っお、圓おた。

抌さえたい点の挙瀺。

埌䞖の我々から芋るず、どれも戊䞊手の列士ではあるが、西郷はじめ、ほが戊の経隓のないたた戊争に突入しお功を䞊げキャリアを築いおいる事。

他者からの評※蚌蚀はありも高い戊䞊手、ずいえば西郷に高杉。だが我々は圌らを䟋えば昌倜問わず戊に明け暮れた䞭䞖期の人物ずは比べおはいけないだろう。

西郷、高杉に戊の䞊手さがあったずすれば、それは“求心力”がモノをいったのだろう。カリスマ性ずいうか。隊䌍を組む䞊で纏たり、䞀䜓感が匷かった。そしおその䜜戊に兵が玠盎に埓い呜什実行する事に柱みが少なく、偎から芋お“これは戊䞊手”、ず。

線集柳井の芋た所、この時期で最も実戊を積んでいたのは山瞣有朋なので、戊の䞊手䞋手ではなく“戊”の蟛酞・習わしを䜓で芚え蟌んでいたのは、西郷・高杉ではなく圌だっただろう。しかも戊った敵はペヌロッパ連合、そしお時の暩力“埳川”ず。倧村の茝かしさに比べお、山瞣ぞの評䟡ずいうものは実に これも傍に眮く。

倧村が長州に客分でしかも軍の統率の執行郚に圓おられたのは、今でいう“孊歎”か。軍事研究及び欧米補の軍備に関する“知識”ず“歎”の“前評”のみの刀断。遞んだのは桂かたあ䟿宜䞊桂ずしよう、この人的チョむスも倚分に危険で“賭け”である。倧䜓が、このファナティックの長州人士が“䜙所者”の倧村の蚀う事などよく聞いたな ず。この人事に賭けた桂か聞倚かそれずも、兎角盞圓な勇気ず根性のいる人遞ではある。

勝算 

この誰がどう芋おも勝ち筋の䞀条も芋えない戊に“勝算”を芋出すならば 

兵の士気が昂い事
歊噚が豊富にある事
最埌に、いや最終的に 

盞手方の情報をどれだけ抌さえおいるか

兵の意気は盛んである
小兵でも怯たぬ

歊噚の量は
そしお、埳川はどれだけの匷さなのか
どういう手を打っお来る

赎任した間もない倧村が芋るずすれば、幕府の内情に通じおる人物は 貎重であるな。欧米匏の歊噚をこちらに流入させるルヌトず仲介人は貎重であるな。それが薩摩に近い人物ならば尚䞀局、抌さえたい人間では、あるな。

六十六、

倧村ヌ坂本、ず。盎接的な関わりはそしお䜕故この点に評者ずしお介入するのかずいうに 

①第二次の埁蚎を芆した手品の皮明かし

②薩長密貿易から事実䞊軍事同盟ぞの道皋

に挑戊したいからで。

ほが軍の党暩を任された正確に蚀うずそうでもない倧村ずしおは、そしおこの手のタむプの人間はたず数的に自分の担圓する範囲に䜕がどれだけあるかを抌さえる、抌さえただろう。倧村ヌ坂本、ずいうよりかは想像するに容易いのは桂か聞倚だろう。もっず突っ蟌んで、桂よりかは聞倚だったろう。䜕ず蚀っおもカネの聞倚、物資調達、亀枉事、それに蟣腕奮っおいた、ずは呚知の通り。

幕府軍が西䞊する速床、これを鑑み䜙り猶予も無かった事だろうから、“坂本韍銬”なるよく知れぬ玠性の者ず倧村が亀枉を密にしおいたかは信憑取るに危うい。危ういが、聞倚ずは亀枉が倚かった事だろう。䜕せ、客分の倧村。䟋えに出しお少々気が匕けるが、で䟋えば歎戊の勇士の山瞣、赀犰など、䞀筋瞄で、おいそれず蚀う事聞く蚳がない。ない所を通す為、䜙り評䟡はしないがこの時期の聞倚の働きには頭が䞋がる。

もっず手に負えないのは、蚀うたでもなくカリスマ“高杉晋䜜”だっただろうが、これは海峡の戊に圓たった誰が晋䜜をここに圓おたか 本人ではなかっただろう、恐らく。むギリスに遊びに行きたかったのに聞倚に説埗されお止めさせられお本人䜙りモチは高くなかった説 ので、接点は珟実的に少なく芋積もれる。簡単に蚀えば、第䞀次倧戊期のドむツに䌌お、東郚戊線ず西郚戊線でほが別物の指揮系統を持った軍が戊っおいた

坂本韍銬、これは高杉晋䜜ずは昵懇だった。では倧村は坂本のコネ、ずいうか瞊の繋がりずいうか、グラバヌに芋られるむギリス商䌚界隈及び薩摩の小束閥。この時期語られる所謂"新匏銃"、これのむギリス経由ヌ薩摩ヌ䟿宜䞊土䜐脱藩組の“瀟䞭”ヌ長州の各戊線、ずいった入念で入り組んだルヌトには、近藀長次郎亡き埌の頭目ずしおは介圚しおはいた事はいただろう。

東郚戊線の指揮系統の䞀翌を担う倧村ずしおは、新匏銃が必芁なだけ揃えば揃ったでそれ以䞊はなかったろう。揃うか揃わないかが、たあ最倧の問題ではあるが

歊噚のルヌトの確実な螏み固めは、圓連茉で可胜なだけ远っおはみた。小束、五代ヌ近藀ヌ聞倚間で既に暋は堅かった。そこに坂本がどうのこうの䜙り介圚する䜙地がない。近藀没埌の二名の頭目ずしお坂本、䞭岡ず。しかしここで瀺唆させお頂きたく、䞊文を朱線で匕く。

朱線の理由。この軍事䞊の物資の流れに関われば、江戞幕府偎からは危険人物指定されるのは圓然。぀たり、この時代的な点より、“我らの坂本韍銬”はここにお謂わば“反䜓制人物”指定芖されたず垰結出来る。青幎期の江戞の青春時代の晎れやかさから、ぐっず趣きを倉えお、政治犯“坂本韍銬”ぞず脱皮する。

故に、幕府偎の認知しおいる限りの情報は長州に䌝えおいた事だろう。悪い響きの蚀葉で、タレコんでいた、そうであろう少々苊味がき぀いか

六十䞃、

倧村が、たあ数歩譲っお坂本を幕府軍情報のタレコミ屋ずしお芋た、ず仮説立おるのは苊しい物がある。ずいうのは、幕府軍の内情に、この䞀脱藩浪人が通じおいたかず問うおもそこたで知っおはいなかった、海運の操緎所にいたぐらいなのだから、ず。ただたあ、薩摩の西郷の偎にはあった事はあったので西郷出本の内郚機密はある皋床 苊しいか。倧村はより粟緻な情報を求めおいただろうから。

軍需品の出元は準備出来る量はこれは聞倚。100%で聞倚。聞倚でなかったら聞倚の息のかかったのだ。だから䜙り坂本が介圚しない。桂ヌ聞倚ヌ倧村で戊の䞋準備が運んだ、だろうな。恐らくこのトップ以倖にもっず人間が動いおいた筈。その倧移動的運動の䞭での土䜐脱藩組、䞭継点に䞭岡ず坂本がいた、ず付点を眮ける。

先に倧村の“神懞り”ずたで評される、東郚戊線の勝利の皮明かしをしたい。

䜕の事はない、幕府軍の情報がダダ挏れだったのだろう。

所謂、“掻劇・長州埁蚎”では“坂本”達による歊噚の闇斡旋、新匏の歊噚ず旧匏の歊噚で差を付けた、倧村の倩才的軍略 たあ、爜快である。これから“掻劇”の掟手な色調を取る。

新型の歊噚を埗おも、軍はそれに緎兵されおいなければ匱い。長州偎の戊意、モチベヌションは高かったが、いかんせん兵力の差は埋め難く。そしお䜙り考慮されおはいないが、幕府軍にもこの時期の最新の歊具はあり寧ろ緎兵もある皋床為されおいた蚳で。

぀たり歊噚の新旧はどっこいどっこいだった、ずみる事の方が客芳的で冷静か

曰く、旧匏歊装の幕府軍 ずこれは倧分前の皿で掚枬したが、応揎寄越した藩からの半ば嫌がらせ、かこんな戊いに本気で参加したくはないわな、ず。日和芋日和芋。そんなのは論じるのも無駄なので次ぞ急ぐ。

正面衝突、䞀觊即発、ずは来るが、倧村益次郎を奜きな方には申し蚳ないが、この軍略家は恐らく幕府軍の機密情報を党お、匷調したい、党お掎んでいた、ず。盞手がどう来るか、を党お掎んでいたなら小兵でも確実に近い戊法を打おる。そしおそうなった。倩才でなくずもそこそこ兵孊に造詣があれば、神業ずはいかず、それなら勝おるよな、で。

倧村ずしおのネックは、どれだけ長州兵が自分の打ち出す戊法に埓っおくれるか、いや埓うかが最倧の懞念で。これは珟圚の䞀般の䌚瀟や団䜓にも通じる所、䞊が指瀺出しおも䞋が動かなければ死に䜓、レヌムダックだ。この蟺り、やはり桂、聞倚ず珟堎ずの䞭継で骚身削っおいただろう。逆によくも山瞣達がこの新指揮官に玠盎に埓ったものだ。普通は蚀う事を聞かない。それが普通じゃなく蚀う事聞いたものだから、圓たった。たあ山瞣は西郚戊線、曰く“四境戊争”を䞻戊堎にしおいた、かちず怪しい。

ざっくり本質突いお、桂が軍事䞊の庶務雑務を取り仕切り、花は倧村に持たせたか。軍事理論は倧村の知を最倧限に発揮させ、同志ずの折衝・歊噚の手配は自分の責務、ず。

この戊の前埌で人の躍進もそれぞれ華々しいものではある。ならば、ず来るに我らの坂本、そしお䞭岡ず 坂本は長州埒倖ではあるが䞭岡の起甚・転職的移動、ず。ずいう事は 

この戊の埌に正匏に締結される所謂、“薩長同盟”。小束スクヌルは薩摩の意志、では長州偎は掚枬の暎走で、桂の敷いたレヌルがあったそのレヌル䞊の、䞭岡が“駒”だったずしたら

倧村の神話的な倧勝利の内情を実は実質䞊桂の手ずすれば圓時ではたさかの逆転劇の筋曞きの䜜者は 桂小五郎、ず。薩摩経由の欧米補歊噚の発泚・賌入・甚意。桂芖点で芋るず、坂本も䞀぀の駒。しかし党おが繋がっおいないずいけない、倧倉に危うくもキナ臭い闇ルヌト。倧村の神話は、そんな闇の雲の䞊に鎮座しおいる、ず倧局仰々しいが定矩しお、皮明かしの玛いの今回は結ぶ。

六十八、

長州埁蚎が本栌化した、ずいう事は本気で物流が始たった、ずいう事。぀たりは土䜐脱藩組の出番ず、ここは掻劇調でも差し支えないず。緊密か぀内密的煙幕に芆われた歊噚の物流。たあ冷静に、第䞀次期の埁蚎や功山寺の玛争で既に歊噚の物流の基盀は出来䞊がっおはいただろうが。ただ第䞀次期埁蚎はほが䞍発の戊争案件、功山寺は混迷しただろうが、飜くたで“内茪揉め”。思想違いの同郷人志の殺し合いもあっただろうが※意倖ず晋䜜が他囜同郷問わずの思想違いの筋から呜を狙われおスレスレに枡っおいる。俊茔も。けど䜕か危機䞀髪の所で逃されおいる、スルヌしお“貰っおる” 、幕府による倚囜籍線成軍ず䞀藩の衝突であるから、歊噚の入り甚も桁が違う。

近藀長次郎がいない 

ここに来お、商才のあった近藀がいなかった事は盞圓にルヌトの流れ䞊䞍安であった事だろう、長州及び薩摩の幹郚。

匷調点。

坂本にも䞭岡にも、“商い”の経隓は未知に近いものだった。

ただ坂本は、“ほが商家”な歊家の埡家柄ではある。
䞭岡は貧しい䞋玚歊家の生たれ。

近藀の略歎など怜玢しお芋お貰いたいが、この男は勉孊に励み、チャンスを貪欲に欲し、それを掎み、“饅頭屋”ず半ば揶揄内茪の気の眮けない戯れずも蚀えるがされおいた所以の幌い頃からの算盀匟きの修逊豊富な“人間的地盀”があった。

薩摩ヌ坂本
長州ヌ䞭岡

埌のキャリアをれロにしお考えるず、客芳的に芋お、盞圓危なっかしい。

プレ・戊況ずいうか前線にいる方、䟋えば倧村蟺り、もう土䜐の者がどうのこうの無かっただろうな。粟々聞倚が“OKOK”蚀っおたらそれで。

倧村は東郚戊線で 西郚戊線はずいうず我らが高杉、そしお歎戊の勇士の山瞣など 䜕だか西郚戊線の方が人的にワクワクするが、それは眮いお、西郚戊線、所謂“四境戊争”の長州的テヌマは北九州からの連合軍ずの海陞察決、䞋関ヌ長厎の海運ルヌトの死守等 これだけではなかっただろうが、たあザッず。晋䜜的には“もういいよヌ。埌は狂介䞀統でやれよヌ。指揮が二人も䞉人もいたらやり難いだろうが ”かなむギリス行きたかったから。

さおおき

薩摩偎は坂本、これは 航海術に芚えが少しあるぞ、たた小束による薩摩藩䞻導の列島芏暡の事業展開に少し携わっおいるぞ 薩摩銖脳的芋地から芋お、結局五代が実質䞊取り仕切れば埌はその指瀺に埓えばいい面子で充分やっど かな

長州は
䜕故、䞭岡
倧分前の皿で少し觊った。
桂、聞倚から芋おの䞭岡慎倪郎、ずは
䜕か旚味があった
長州にずっお 
この玔粋囜粋䞻矩者。
こういった茩にはパッず考えおも商業は向かないが。

䜕故、䞭岡慎倪郎を長州偎の“顔”ず、立おたのか

桂の目論芋は
絶察的な刀定は付けられない。
故にここからは党お、たた䟋の劂く評者の勝手な掚枬ずなる。

そこに進む前に䞀点喚起。
この点、い぀もの圓皿ずは逆に、“結果論”、埌ろ芋お考えおみたい。芁するに 

埁蚎埌に、薩摩ず長州は盟玄を正匏に締結した。
そしおこれが倧いなる呌び氎ずなっお埡䞀新たで雄藩が突き進めた。この盟玄動議の、氎面䞋であろうずも携わった者には“誉れ”が付いお遜色ない。

぀たり、䞭岡の着任が誰なのか圌なのか、それを桂ず仮定しお、その人事が正しい人遞だったずいう事が蚌明が出来る。

倧村、䞭岡、ず。それだけではない量の人事的動きが急か぀激しかったこの時。人遞をギャンブルずすれば、この時の長州はギャンブルに党お圓たった。これも断蚀出来る歎史䞊の事実である。

六十九、

長州埁蚎の第二期

桂小五郎ヌ薩摩藩

い぀からの䞋地なのか 

京で激しく䞡藩ぶ぀かり合っおいる

ずいうのは、双方に死傷者があった蚳で

有名な話、長州の物は草履の裏に“薩奞”ず曞いお螏んで歩いおいた、ずも

埡所関係では蚎ち払われおいたが、䞋関では陞から薩摩船を砲撃、駆逐しおいたずも

仲が悪い

その割に 

薩摩の小束ず俊茔・聞倚他は昵懇だったずも

桂は

山瞣ず西郷は、ちょっず前に流行った蚀葉で、“朋友”だった 

土䜐組は

土䜐の者は

第二期の埁蚎でやはり、キヌポむントずなるのは西郷が幕府軍から離れた事。

そしお䜕故か 西郷が薩摩偎の顔ずなる、所。

埁蚎の西郚戊線は四境、長州䞀藩で察抗。

冷静に 勝おる蚳がない

これがよく刀らない圢になったのは、九州諞藩が戊に党く消極的だった事。諞藩連合、ずしお立っおはいたが䞞で動く気配がなかった様子で。長州の䞻県は小倉。䜕故ずいうに、この小倉が九州に斌ける江戞埳川の衛星地。故に 曞くのもなんだか阿呆らしいが、九州諞藩にずっおこの衛星地が長州によっお萜ずされれば、もう俺たちは幕府の蚀う事なんか聞かなくおもいい、ず。ずっずず萜ずされろ、小倉なんか ず。

少し遡っお、功山寺期、晋䜜・俊茔は四囜のみならず、いや寧ろ九州での地䞋掻動に執心しお、いや尜力しおいた。単なる䞍穏分子ずしお認識されおいたなら、盎ぐに消されおいただろうが、遊説出来る䜙地があっお諞地回っおいただろうから 

芁するに、九州党域で、この時期、江戞埳川に埓属する気が無かったのだ。

そう考えるず、普く日本史的に、雄藩連合、薩長土肥、ずはあるが、列島芏暡で西東分断状態であるな、ポリティック・パワヌ図。

倧村の蚈算 

桂の倖亀的目論芋 

京を境に、いや京すらも、それより東の数藩しか埳川に埓属しおいないじゃないか、実際の所。

西偎諞藩の倧連合が結成されれば、埳川に䞊回る力が埗られる。

桂の苊枋 いや桂のみならず執行郚 

劂䜕に自囜の士を玍埗せしめるか

䜕ず蚀っおも、同郷の者が幟倚、殺されおいる

そこの䞭間点に、䞭岡慎倪郎が収たる。

誰が指名したのか 

薩摩偎ではなく、長州偎ずしお

倧村の起甚も冷静に芋るずかなり無謀乱暎

䞭岡の配眮、これは冷静に芋なくずも無謀乱暎

長州統の玔粋攘倷思想の塊で

たずもに薩摩ず亀枉出来る

ず、出来る蚳がない

そこに薩摩偎の顔ずしお

坂本韍銬がいた

ここの人間関係䞊の化孊倉化たで桂が蚈算したか

しおないだろう

故に偶然だ

坂本を過剰評䟡する者ではない、圓方

ただ人ずの亀枉䞊、この男は“広く聞き、己が䞻匵に走る事少ない”男ではあった、ず。

経歎も特殊。埳川の海運士蚓緎孊校にいた、今は薩摩抱え、埡囜の土䜐は脱藩、長州・薩摩にはどうやら数床回遊しおいた、尊王攘倷であるのかないのか、その割に歊垂瑞山べったりでもなかった 

今は、ちょっず乱暎な蚀い方ではあるが、近藀の残した船の実質的所有者 

西郷に近いらしい 

小束・五代ずも 

たあ、連絡係ずしおはいいかな二名ずも。䞭岡君が少し心配だが 

芁するに、薩摩の意向正盎な所をオフレコで知る事

こっち長州の意向を匱い所突かせずに䌝えられお ず

近藀君が生きおれば もっず闇・地䞋レベルで事が運べたものの 

しかし 時がないな、もう 

だが 

“僕は䞭岡君を育おなければならない

冷静な蚈算ではなく

感情

出来る出来ない
向き䞍向き
それではない

背負える男だ
僕らの同郷志士の死を芋お来た
そしおその魂を宿した男だ
僕は圌らの分
圌らにしお䞊げられなかった事を
䞭岡君にしおあげなければならない

䞭岡君を䞀端の男に
しなければならない”

桂にこの様な感情的な䜕かがあったずしなければ、䟋の有名な䞭岡の倱敗劇ず登甚継続の理由が、刀らない。

䞃十、

戊の準備で倧顕だったのか、䜕なのか
そしお どこのどの蟺りから、このバディ“坂本・䞭岡”が始たったのか 

倧枠、ずいうかマクロずいうか、ドラマなり掻劇系の物なり䞀色単に語られるのが“長州埁蚎”ず薩長同盟”。だが薩長同盟は長州埁蚎の埌に成立する。故に、我々は今埌もっず限定的に芋た方が良い。ザク切りするず 

長州埁蚎は実質䞊、長州䞀藩で勝った戊
薩長同盟は名を䞊げた長州ず力を蓄えおいた薩摩の匷囜同盟

長州埁蚎時の長州偎の勝利に薩摩の貢献倧ずしたい埌䞖の者の恣意、しかもその“恣意”が人々の支持を集めるものだから、もうそう流れる。

倧䜓明治維新の物語が奜きな者は 

韍銬も奜き
晋䜜も奜き
西郷も奜き

䞉者を応揎する偎の䞉者䞉様垳尻合う様に物語こさえた方が良いのだ、喜ばれるには。

話題を垰しお、埁蚎は長州䞀藩で埳川連合軍を跳ね返した。裏の密玄で䞻に薩摩経由の欧米歊噚、それはあっただろう。だがこの第二期で既に絶呜しおいた商売䞊手の近藀が、埗意先を薩摩-長州のみに限っおいたずは考え難い。長州に売る為に、恐らく諞藩の算盀所ず繋がっお利を埗る事ぐらいはお手の物だった筈だ。薩摩ルヌトが固く利益が倧であったず考えられるのは、小束がむニシアティブを握っおいたからだろう、あくたでも裏で。

故に、限定的に 第二期の埁蚎期、䞭岡ず坂本は、実質的に䜕をやっおいた 

䜕をやっおいたの疑問笊が付く時、それは資料的に曖昧である時期である事の蚌巊。

䞭岡が䞉条公達の護衛を倖され、䞋関に ずいう事は晋䜜・山瞣の指揮䞋、四境に参戊する目論芋だったプレ・䞭岡の人間的圢ならその方がスッず玍埗出来る。埌ろから芋る歎史䞊の䞭岡慎倪郎から考えるず、玍埗するのに違和感が生じる。

䞀方、坂本はこの時期は薩摩の居候で間違っおも薩摩の意に介さない掻動は出来なかった筈だ。結論するに容易なのは、“間違っおも長州の息のかかっおる者”ず思われおはならなかっただろう事。たあ小束ず繋がっおいれば、そこそこ、長州ず繋がりが散芋されおもマヌクはされなかっただろう。元々、土䜐脱藩の浮浪志士なのだから。

䞭岡の芖点では勿論、“薩奞”であった事は疑いない。䜕故ず蚀っお、同志を殺されおいるから、京郜の倉で。憎しみしかなかった、ず考えおも誇匵でない。プレ・䞭岡の心情察するに、四境迎撃に呜を賭けおたか䜕ず蚀っおも䞊官があの“高杉晋䜜”ず“山瞣有朋”で。心から長州の䞀員ずなっお戊える。若しくは 死ねる。思いのたた戊っお死ねる、ず。

“日本の倜明け ”ず坂本が蚀ったずか蚀わないずか 

この時のそれぞれの心情を慮るず、埁蚎戊で勝おるず思っおいたのはそんなにいなかっただろう。そしお自分が新しい䞖を芋れる、ず甘く思うだけで、皆死を芚悟しおいただろう。生きる率の方が極小だった。故に 

この時期の、特に土䜐脱藩組など、半ば死堎所を求めお時代の激流に流されるたただったに違いない。

ただでさえ、二十代〜䞉十代の若者達だったのだから。

たあポむントずしお、蚀わずもがな、ではあるが第䞀期の埁蚎ず異なり第二期は薩摩が手を匕いおいた事。第二期の戊には超然姿勢で。

終始、長州容赊に気を配っおいた西郷が、列島䞭倮から西にその鎮座䜍眮を倉える。この時、既にその動向が日本囜党藩に泚芖される迄に躍進した西郷が。

✍フォロヌずいう支持、支揎はずおもありがたい。曎なる高みを目指しお『レノェむナ』をクリ゚むティブな文芞誌に育おお行きたい。🚬