「トーキョー王」 #1

【スリン-1】
 トーキョー王の後見にふさわしいのは誰か、と尋ねる将軍に、その場の一同は「偉大なる首領様です」と唱和した。云い方までまったく皆が同じなのはリハーサルではなくこれまでの「教育」の成果だ。

 諸君の敬愛に満ちた不変の支持に感謝する、と将軍は目を細めた。トーキョー王は我らが父祖の打ち立てた崇高な理念を世界へ広げ世界革命を推進する、我々の大きな力となるであろう--そう続ける将軍の朗々とした声に、議場の一同は歓喜の涙と万雷の拍手をもって応える。

 --ばかばかしい。スリンは内心で吐き捨てた。彼女の冷えきった意識はこの茶番をもたらした、将軍に「トーキョー王」なる存在のことを吹き込んだ連中を憎悪している。それを信じているのかいないのか、自分の夢の帝国に住まう将軍を憎悪している。

 その一方で議場の最後尾、警備随行員用の席に収まった彼女の体は、涙にむせび懸命に拍手を続けている。こうした場面で「歓喜の涙を流しながらせいいっぱいの拍手を行う」のは訓練によって会得されたスキルであって、彼女たちの処世術にすぎない。スキルが充分でなければ、いかに優れた能力を発揮しようと「我が国が掲げる崇高な理想に対する理解が未熟である」とみなされ、再教育が施されることになるのだ。

 手をつかって穴を掘り、数十粒のトウモロコシを与えられ、それでは足りずに鼠を捕らえて貪り、泥水をすすり、ムシロにくるまって眠る教育。

 伝え聞く悲惨を思い、スリンは身を震わせた(怖気に震えても「歓喜に震える女性軍人」にしか見えないこの状況は幸いだった)。

 スリンは思う。ここに私を座らせた上司は、つまり私をその「トーキョー王」とかいう何者かに関する任務につけるつもりなのだろう。思想的武器でも物理的な武器でも、なんだったら女性的な武器でも(王というからには男性なのだろう)使ってトーキョー王を我が国に協力させるといったところだろうか。もしも後方支援であれば、自分がここに座って「トーキョー王」という言葉を聞く必要はないはずだ。暗号で書かれた電文を指定先に流したり、ちょっとした荷物を受け渡したりするのであれば、この単語を知る必要もない。

 --つまり自分は、抜き差しならないところに来たというわけだ。そう考えてスリンは、歓喜の表情のまま意識だけで苦笑した。いまさら何を云うやらだ。

 この国に生まれた時点で皆、とうに抜き差しならなくなっている。   


【アキウ-1】
 講義の合間にサークル仲間と近くのカフェでお茶していたら、姫ちゃんが突然、びくぅ、と体を震わせた。
 あまり表情の変わらない、つねに穏やかな笑顔になるよう生まれてこのかた訓練された彼女が、今はうつろに宙を見つめている。

 僕は近くのテーブルに腰掛けている松尾さんに目配せした。あまり周囲から浮かないようにドレスダウンしているけれど、グレーのパンツスーツに身を包んだ松尾さんの凛とした雰囲気は、よく気のつく人であればすぐに「誰か重要人物のエスコートについている人」だとわかる。

 姫ちゃんが動揺した瞬間からタイミングをうかがっていたのだろう松尾さんは、すぐに立ち上がって姫ちゃんのそばにやって来た。彼女の耳元に口をよせて何事か言い交わすと、姫ちゃんの加減がすぐれないので今日はこれで失礼する、と姫ちゃんに代わってその場のみんなに告げた。みんなもこうした場面には慣れたもので、とくに怪訝な顔もない。

 姫ちゃんは僕に講義のノートを、大沢先輩にゼミのレジュメのフォローを請うと、少し青ざめた顔をして松尾さんとその場を離れていった。

 なんとなく気がぬけたようになって、姫ちゃんが抜けてすぐにその場はお開きとなった。
 キャンパスに戻る途中、大沢さんと相談する。講義ノートやゼミのレジュメじゃなく、本来の--僕らの「仕事」のほうの相談だ。

 血統才能はるかに及ばないけれど、僕も姫ちゃんと同じ類の能力を引き出されて、それでこうして彼女の「ご学友」におさまっている。何が起きたか、僕にも薄々わかっていた。

 あのカードに、何か動きがあったに違いない。


【サヤ-1】
 その獣が身にまとう不可視の炎を「視て」サエ姉さんは笑った。まあ可愛らしいこと、と花でも愛でるように云うと、右手の扇子をぱっと開く。

 そこにもまた、不可視の炎がゆらめいている。周囲のスーツ姿の皆さんはなにやらわけもわからずに気圧されているだけだけれど、姉さんと同じ<眼>をもつ私には姉さんの扇子にからみつく青い炎が、いよいよ姉さんの右腕を包もうとしているのがはっきりと見える。

 くぐもった唸り声をもらした獣が、突進の準備か前足で石畳を掻いた。石の削れる耳障りな音。それでも周囲の民家から人が顔を出すこともなければ、何事かと路地へ入ってくる人もいない。獣の邪気と私たち姉妹の結界が、街の人々をこの静かな戦場から遠ざけている。

 ゴッ、と音をたてて獣が私たちに突進してくる。サヤ、と私の名前を呼びながら姉さんが扇子をふるう。

 姉さんの腕から炎が放たれ、獣にからみつく。ふたつの炎がせめぎあうのを見つめながら私は、懐中から取り出した鈴を鳴らした。
 次の瞬間、さっと炎は消え去り--後には、生気を抜かれてふらつく猪がいるだけだった。

 妖術によって邪気の炎に包まれた、哀れな動物。じっさいのところ、もう長くない。あの炎は獣を大きく強くするけれど、その生命を貪りながら燃えさかる。

 これをどうすれば、とスーツ姿のおじさんの一人が訊いてきた。私が何か答える前にサエ姉さんはすげなく、こっから先はあんたらの仕事やわ、と云った。かよわい女性に猪退治せいて云わはるのん?

 猪どころか魔物退治しといてそれ…と困惑ぎみのおじさんだったけれど、心配の種はすぐになくなった。生命力を絞り尽くされた猪は、私たちが手を下すまでもなく石畳に倒れて動かなくなったのだ。

 面倒がのうなってよかったやん、とサエ姉さんが笑うと、まわりのおじさんたちになんともいえない苦笑いの空気がながれた。どうしましょうかね、とまたしても訊いてくるおじさんに、姉さんはうんざりした顔を見せて背を向けた。さっさとその場を離れながら、背中に向けてサエ姉さんは「ぼたん鍋セットでもこしらえて、飼い主の領事館ところに送ったげよし。あの人ら、机と椅子以外やったらなんでも食べはるって聞きましたえ?」と笑った。

 翌日、領事館にはぼたん鍋セットが届いたはずだが、送り主不明のその「ご進物」がニュースになることはなかった。


【サヤ-2】
 家に着くなりサエ姉さんは私の部屋に一緒に入ってきて、私のベッドに体を投げ出した。とがめる間もなく姉さんは、しっかしめんどくさい人らやなあ、と呆れたような怒ったような声をあげた。トーキョー王いうんやからわざわざ京都まで来てごそごそやらんでも東京で好きなだけうろつきまわって探すなり呼び出すなりしたらええねん。

 憤懣やる方なし、といった調子の姉さんに私は苦笑いした。たぶん、王ていうからには「本家」と関係してるんやろ思て来はったんやろねえ。私がそう云うと姉さんはぱっと身を起こした。せやねん。本家のほうかてこれは知ってるやろし動いてるはずやろ。あんたなんか聞いてへんのん?

 姉さんは鋭く云うけど、姉さんが聞いていないものを私が聞いているはずもない。まあもともと本家は穏やかに何事もなく日々が過ぎるのをよしとするタイプやからアレやけど--姉さんはつぶやきながら目線を膝に落として考えこむ。

 云いかたはともかく、これは姉さんの云うとおりだ。本家はもともと野心をもたない、というか、野心をもつことそれ自体を自分で自分に禁じているふしがある。過去のいざこざで懲りたとはいえ、今もこの国の霊的領域に大きな影響力をもつ彼らは、自分たちの能力に不釣り合いなほどに奥ゆかしい。むしろこのままひっそりと、霊的支配をめぐる鞘当ての背景に溶け込んで消えていってしまおうとしているかのようだ。

 ただ一人を除いては。

 ――問題は、あの学生さんやな。
 サエ姉さんが云った。さすが双子だ、と私は思った。


【アキウー2】
 大沢さんは既に手元のスマホで「事務所」と連絡を取り合っている。複数のメールアカウントとTwitterのDMにメンション、FacebookとLINEを行き来しながらの連絡手法は研修所で見て以来、つまりそれだけの大ごとというわけだ。暗号符丁と隠喩暗喩のクロスオーバーで、たとえ全てを読んだ人がいてもなにげない日常のやりとりとしか思えないし、そこにある脈略、それがひとつのことに関する一貫したやりとりだと気づくことはできない。

 消えてるらしい、と大沢さんは云った。例の「これを引いた人は東京の王になる」ってカードが、Plag上から消失してしまったというのだ。

 そのカードの存在は、しばらく前から「事務所」で話題になっていた。Plag**(当時はそう名乗っていた)なんてアプリは誰も知らなかったけど、何か強い霊的作用の気配を追っていくと、そのアプリにたどり着いたのだった。そのアプリは東京とかパリとか都市圏ごとの「エリア」とWorld(これは全世界共通だ)エリアとに情報を「カード」として投稿するもので、読むときはランダムに配られるカードをひとつひとつ、次の人のために送るかそこでカードのバケツリレーをストップするか、ユーザの側で決められる。カードの枚数には限りがあるから、ユーザは(途中で飽きないかぎり)エリアのカードがなくなるまで、読んで送るか止めるかしている。

 僕らがPlagにたどり着く少し前から、Tokyoエリアの残りカード数が1から減らない、つまり「誰にも引けないカード」が残されるようになった。どのユーザに聞いても同じ現象で、それはアプリというよりサービス側、システム側の問題のようだった。しかも、どこから流れてきた話なのか今も判然としないのだけれど、そのカードには「これを引き抜きたる者トーキョーの王たるべし」とあるという。「事務所」はそのカードに何らかの霊的(もしくは呪的…どちらでも同じことだけどね)作用が仕込まれているものと推定して、それをいつ誰が「引く」のか、そのときに何が起こるのか(まあ、いきなり東京が独立した専制君主国家になるとまでは思っていないけど)注目してきたし、何かあったときすぐに情報が得られるよう、「事務所」関係者をTokyoエリアのオフ会に送り込んで、常連さんたちと仲良くなってきた(なんでもTokyoエリアの常連さんたちときたら、世界でも類を見ないぐらい仲良しでオフ会熱心なんだそうだ)。

 そのカードが消えたのだと「事務所」が云っている、と大沢さんは僕に云った。誰かが引いたんですか、と尋ねると大沢さんは首をふった。「事務所」の分析チームは、誰かが引いたらそこに収束するはずの作用が、むしろ拡散的に消え去ったようだとの報告を上げているという。なんだかわかったようなわからないような話だ。まるでカードが、抜き取られる前に爆発でもしたみたいですね、と僕が云うと、大沢さんも真剣な表情でうなづいた。もしかしたら、カードを仕込んだやつと今回カードを始末したやつが別々にいるのかもしれない、と大沢さんはつぶやいて、僕に向き直った。東京で面倒な勢力がぶつかり合うことになるかもしれん、お前も気をつけておけよ。

 真剣な顔でうなづきながら、僕は姫ちゃんのことを思った。とりあえず東京が王政国家になって姫ちゃんが屋敷を追われることにはならなさそうだけど、自分たち以外が東京の<あっち側>でごちゃごちゃやるのを見たら、姫ちゃんは心を痛めるだろうし、あと――

 ――問題は京都だな。僕の心を読んだみたいに大沢さんが云った。京都っすよねえ、と返事する僕の声がうわずったのを、大沢さんは気づいたろうか。あの双子のおねーさんたち物騒なんだよなあ。


【エド-1】
 遊戯室の面々は、揃って憂鬱な表情をしていた。
 もう2日、館の主は書斎に篭って出てきていない。誰も入れてはならぬときつく言い渡し、以来いっさい顔を見せていない。家令に聞けば、ドアの前に置かれた食事にも手をつけたようすはなく、ただ部屋から漏れる呻きとも詠唱ともつかぬ低い声が、主の意識が保たれていることを示すのみだという。

 館の使用人たちが持ってきたサンドイッチを暗い顔で口に運びながら、<協会>中枢の面々は時おりお互いの顔を見やり、困ったことになった、というその感想を無言のうちに交換してはまた視線をさまよわせる。ブリッジに興じているように見える数人も、心ここにあらずといったようすだ。

 星の動き、大気の流れ、すべてを読んで周到に準備された計画であった。この館からはるかな彼方、極東の都市に<協会>の叡智を結集した魔術装置を顕現させ、その都市を中心とした魔法圏を支配する存在を打ち立てる。その支配の助勢により吸い上げた霊的エネルギーを、館の魔法陣で捕集することによって得る莫大な力で、この館の主をはじめとする<協会>の主たるメンバーは霊的な階梯を上昇し、文明を導く<賢者>となる――それが、<賢人協会>積年の悲願であった。

 それなのに、主はその栄光の刻を前に、血相を変えて書斎に飛び込むや出てこない。残された幹部たちは最初、<協会>主宰でもあるこの館の主人が、今になって栄光を分かち合うのを惜しみ、成果を独り占めしようとしているのではないかと疑った。

 幹部たちはそれなりに魔術的知識に通じていたものの「本職」の魔術師はわずかで、あとの者たちは<協会>の存在を世間から隠匿する権力をもっていたり、<協会>が諸々の活動を行うための財力が頼みにされたりして<賢者>たらんとする仲間に加えられた者たちだ。主宰が何がしか秘密の仕掛けを施して、館を覆う魔法陣が吸い上げるはずのパワーを、書斎の自分にだけ吸収する手はずを整えていたとしても、それを事前に察知できたとはかぎらない。

 しかし彼らのその疑いも、主がまる一日も姿を見せない頃には消えてしまった。予定の時刻は過ぎており、発動していればさしもの彼らにも霊的な力の鳴動を感じ取ることができよう。それも起こらぬ、主宰は出てこぬという状態に至っては、幹部たちも疑念を取り下げ、なにやら予期せぬ方向へ進んでいる事態を見守るほかはなかったのだった。

 誰やらの妨害が入ったなどということはございますまいな、と若い企業家が皮肉めかして云った。そんなはずはなかろう、と議員が応じる。いらだたしげに葉巻をもてあそびながら、たとえ<協会>の存在に気づいたところでこの計画が漏れるはずはないと言い捨てる。日本に――東京に狙いを定めたのは、人の情念が渦巻く巨大な都市圏がこの魔術的計画に好都合だっただけでなく、計画に気づかれたとしても容易には手を出せぬよう、わざわざこの本拠から離れた場所で実行するという意味もあったのだ。

 大きな音をたてて鏡が割れたのは、あるいは内通者が、となおも企業家が言いつのり、議員と銀行家が目をむいたそのときだった。


【エド-2】
 壁の鏡が音を立てて割れた、いや砕け散った。ほとんど同時に部屋の外から、あちこちでガラスの割れる音と使用人たちの悲鳴があがる。だというのに遊戯室の窓に異常はなく調度にも異変はない。

 屋敷じゅうの鏡だけが割れていっている。遊戯室に集った誰もがそのありえない想像をしたとき、激しいが不規則な足音が近づいてきた。使用人たちの声と、喚き散らすような男の太い声が重なりながら遊戯室のドアを叩く。ドアが開かれたとき、はたしてそこにいたのはこの館の主にして<賢人協会>の主宰であった。

 落ち窪んだ目と乱れた頭髪、いかにも病的な顔色で口の端から泡をふきつつなにごとか呟き続ける姿は、部屋の幹部たちが最後に見た紳士とはおよそ似もつかぬ。せわしなく遊戯室を見まわす彼の目に<協会>の面々が映っていないことは明らかだった。目だけがぎらぎらと異様な光を放ちながら、彼はそこにいない誰か、その憤激の対象を探しているかのようであった。

 おのれ、おのれ――ビリニュス!

 その場に居合わせた人々にはそのように聞こえたが、本当のところはわからなかった。叫びながら彼の口から鮮血があふれ出て、最後のほうはごぼごぼいっただけだったからだ。血を吐くというより口から血が、後から後から流れでてきた。鼻からも耳や目からも血が噴き出し、彼が好んで身につけている高級なトラウザーズの股間に失禁の染みがひろがっていく。彼は血を噴きながら床に倒れ、そのまま動かなくなった。あとには、稀代の魔術師とされた紳士の亡骸と、その周りになおも広がり続ける血だまりを呆然と見つめる、<協会>幹部たちと館の使用人たちが残されるばかりであった。


【エド-3】
 最初に動いたのは、遊戯室に集っていた幹部たちの中でも比較的若い男だった。彼は主宰のもとへ歩み寄ると、三つ揃いが血で汚れるのもいとわず彼を抱き起こし、血で真っ赤になったその顔を胸ポケットのチーフで丁寧に拭い、最後に彼の見開かれた目にまぶたを下ろした。他の者たちに声をかけ、主宰の体を血に濡れていない床に横たえると、家令に後のことを任せて遊戯室を出た。

 遊戯室の前では、屋敷の使用人たちが恐怖にひきつった目で、かつて主人だった男の亡骸を見つめていた。ここ数日の異様なできごとと主人の奇怪な死にざまに耐えきれず、泣きじゃくっている娘もいる。彼はその中から、比較的気丈そうなハウスメイドに声をかけて、書斎の真下の部屋に案内するように云った。

 とまどいながらも、使用人の娘は客人である彼の指図に従った。奇妙な指示ではあったが、彼の平静かつ断固とした物言いは、混乱した彼女たちに信頼感を与えたのだった。

 書斎の真下は今は空き部屋で、彼女たちがたまに入って掃除をするぐらいだったという。メイドにその部屋へ案内される道すがら、彼はそこかしこの部屋を見てまわった。案の定、部屋のいっさいに乱れや異変はなく、ただ鏡だけが何かの力で砕け散っていた。

 そのメイドが云うとおり、書斎の真下である空き部屋は、がらんとした何もない部屋であった。彼はメイドを下がらせると一人で部屋を検分し、何もないことを確かめると中から部屋のドアを閉じた。ドアの内側には鏡が――おそらくこの屋敷で今ただひとつの割れていない鏡がある。

 そこには、苦痛に顔を歪める女の顔が映っていた。

 青二才のくせに力ばかり強いばかものめ、と鏡から声がした。しわがれた女の声は、しかし自分の勝ちであり身のほどをわきまえぬ愚か者に術を反転させてやったのがあのありさまよ、と笑った。そのわりにはお辛そうではないですか、と彼が気遣うともからかうともとれる口調で云うと、女は彼を激しく叱責した。

 ひとしきり悪罵を投げつけたあと、まあよい、と女は平静を装う耳障りな声で笑った。愚かな若造をしつけに出張ってきただけだから自分はまた研究に戻る。そう言い残した女の顔が、鏡の中でぼやけてくる。彼は残された<協会>メンバーに危害の及ぶことがないよう、いかに彼らがろくな魔術を行使することもできない凡夫であるかを説明しながら、ゆっくりとその鏡から後退った。

 女の姿が完全に見えなくなるのと、ドアの鏡が、屋敷のほかの鏡と同じように激しい音をたてて砕け散るのは同時だった。

 ――魔女め。魔術の気配が消え去った部屋で彼、エドワード・クリストファー・ローレンス・エインズバーンはつぶやいた。 


【ミノル-5】
 その店のことは気に入ったけれど、今も暖簾をくぐるのは少々照れくさい。

 良い店ではある。こじんまりとしていて、渋い店構えは学生さんたちを寄せつけない。ご店主の仕事は丁寧で、つまみのセンスもいい。気取らない居酒屋としては充分に丁寧な客あしらいだし、こうした場所の店にありがちな、近所の常連たちと話し込んで一見客にかまわないようなところもない。自宅の最寄り駅からひと駅の距離も、ご近所さんに見とがめられたり鉢合わせしたりしなくていい。もちろん、ほろ酔いかげんで歩いても30分かからず帰宅できるということもある。

 しかし最初に入ったとき、昼間、電車で席を譲ったお嬢さんが給仕をしていて(私は服装が違っていたので気づかなかったのだが)彼女がビールをサービスしてくれたとなると、いささか事情が違ってくる。これで通ってサービスをねだっているように思われては困るし、お嬢さん目当てと思われてはなお困る。気に入ってはいるのだが通うに通えない、そんな状態でやはり迷いながら通りがかった私に声をかけたのは、やはりというべきか件のお嬢さんだった。

 おひさしぶりですどうぞ、と云われて拒むのも失礼だし、けけ結構ですなどと口走ってあわてて駆け去るような子供でもない。お嬢さんがもちあげてくれた暖簾をくぐって2度めにカウンターに座ったのは、先々週のことだった。以来、ちょくちょく店に来るようになった私は、この店に居着いてしまった。

 今夜もいつものようにカウンターで炙り〆鯖をつまんでいたら、ひとつ離れた席に二人連れの男性客が腰かけた。それだけならなんということはないのだが、席についてほどなくして、私に近い側…五十ぐらいの男が手元のケータイ(今どきガラケーだ)を落とした。私の近くに床をすべってきたそれを拾い上げると、開いたままの画面には「トクさんお仕事です」と表示されていた。

 電話を持ち主に返し、私はまた焼酎のグラスを手にした。隣の二人連れは仕事の愚痴まじりに、今度は中国から取引先が来るからアテンドしないといけない、しかもそれが実は中国人じゃなくて「北」のほうの人間だってのよ、などと話している。二人連れの若いほうはジョッキ片手に、へぇそんなことあるんすか、とおおげさなほど驚いている。

 私は集中して彼らの会話を記憶にとどめた。なぜならその会話はすべて「トクさん」――特殊協力者である私に向けられたもので、その内容はすべて私に起こることだからだ。

 私は会社の仕事として、中国人のふりをした北の工作員に協力することになるのだ。


【アキウ-3】
 大沢さんは「事務所」との通信を終えると、やれやれといった感じでため息をついた。カフェから大学への帰り道をずっと連絡に費やして、それでも足りずに学食の隅で20分。僕が教えてもらったのは、

 例のカードは消えたけれど、誰かが引き当てて「東京の王」になった気配はないこと。

 カードは…ていうか、カードに仕掛けられていた霊的な作用(つまり「術の効果」っていえばいいかな)は周りに飛び散っていったらしいこと。

 Tokyoエリアの残り枚数がちゃんとゼロになる、つまり例のカードが消えたことに気づいたユーザはPlagにそのことを投稿したけれど、「事務所」のメンバーたちがそのカードをスキップ、つまり「次の人にまわさない」ようにしたので、まだ話がひろがっていっていないこと。

 そのカードが事務所の近くで投稿されたこと、そのユーザが比較的最近Plagを始めた人で、あまりたくさんの人にカードを提供できなかった(ユーザとしての経験値が上がると、同時にカードを配れる人数が増えるんだそうだ)ことが幸いして、いくらかの間、情報が封鎖できたらしい。そして「事務所」は今もPlagのシステムに負荷を与えて、ユーザたちがTokyoエリアへアクセスするのを妨害している。つまりみんなが例のカードが消えたことに気づくのを遅らせようとしている、ということだった。

 よく考えなくても迷惑な話だし、遅かれ早かれ誰かが気づいて常連さんたちが拡散して、運営サイドに近い人々がご注進に及ぶにちがいないのだけれど、それでもこの時間稼ぎには意味があると大沢さんは云う。
 何が起こっているか先んじて掌握すべきは自分たちだと、「事務所」の皆さんは考えているようだった。

 それはそうかもしれないけど、既になくなってしまった例のカード、効力を発揮しなかった術なんて不発弾みたいなものだし、自分で飛び散ってしまったんだから、爆弾処理班を呼ばなくていいぶん不発弾よりましなんじゃないかな。僕がそう云うと、大沢さんはいっそう渋い顔になった。僕らがPlagを知る前から気配のあった大規模な仕込みが、なんの影響も及ぼさずに消えるとは考えにくいと大沢さんは云う。一定の目的があるぶん、まだ術の格好をしてしてたほうがましかもしれないぞ、と。

 それは困った話だ。姫ちゃんはそういうのを喜ばない。姫ちゃんは類まれな能力をもっている。カードが消えたことをいち早く察知しただけでなく、顔面蒼白になるほどの影響をうける霊的感受性に加えて、その行使能力も絶大といっていい姫ちゃんは、だけど基本的に何事もなく穏やかであることを好む。

 姫ちゃんの安寧が侵されるのは許しがたいな、とそのとき僕は思った。けれどほんの二日後、僕はその姫ちゃんからの指令に驚かされることになるのだった。


【     】
 世界に数多くあるPlagエリアのひとつに、ちょっとした異変が起こった。ユーザがスワイプしていくことでカウントが減少し、やがてゼロになってそのエリアの未読カードがなくなるはずが、Tokyoエリアだけはいつまで経っても残り1枚のカウントが消えないのだ。

 Tokyoエリアのユーザから連絡をうけて、エンジニアたちはすぐにその事態を把握した。彼らはシステムにあまた残された(今なお増えているかもしれない)バグのひとつと判断したが、少しいじった程度では修正ができなかった。さらに調べていくと、それが芋づる式にいささか厄介な問題へ行き当たることがわかったため、彼らはいったんそれを放置することにした。

 カウントが減らないだけでTokyoエリアの動作に実害もないので、運営チームはこのバグを、対処リストの下の方に置くことにしたのだ。要するに「しばらくほうっておいて、何か深刻な問題が出るようなら考えよう」というわけだった。

 彼がPlagチームに加わったのは、その頃だった。

 誰もが彼を、非常に有能なエンジニアだと思った。人づきあいのよいほうではなく、口数も少なかったが、天才肌のエンジニアにありがちな奇矯なところもなく、まじめに仕事をこなしていた。

 彼はそのうち、例の「トーキョーの消えないカード」バグをリストから見つけて、空いた時間に取り組み始めた。するとほどなくして、Tokyoのカウントは正常となった。誰もが彼を賞賛したが、彼自身はその修正について言葉を濁し、いまひとつ得心のいかない顔をして、自分でも何をしたかわかっていないようだったという。

 その直後に、彼はPlagを去った。退職を告げるでもなく、いつのまにかオフィスに出てこなくなったのだ。連絡先とされていたメールアドレスに送信しても、user unknownのサーバエラーが返ってきた。他の連絡先を誰も知らなかったし、この業界では珍しいことでもなかったので、皆そのうちに忘れてしまった。

 いくらも経たないうちに、彼は水死体となってバルト海沿岸に打ち上げられたが、奇妙なことにPlagの人々は誰ひとり彼の顔も名前も思い出せず、従業員データにもメールサーバにも該当者はなかった。


【スリン-2】
 スリンはまず中国に渡るように指示された。通常の手順を踏んでも難なく渡航が可能だが、今回は任務の性質から密入国の形をとるように云われた。もっとも、隣国の友党にはちゃんと話が通じていて、「いつもの密入国ルート」を使うというだけのことだ。非正規なルートで隣国に渡る、半ば公然のやりかただった。

 彼女はそこで中国のパスポートと身分証を受け取り、中国商社の社員となった。偽造ではなく、れっきとした政府発行のものだ。これで中国の公安当局にとって彼女は自国の人間であるし、日本に行けばなおさらそうだ。そもそも多くの日本人は朝鮮民族と満州族はおろか、満州族と漢族を見分けることもできないのだ。

 ここだけの話だが、と中国旅券を差し出しながら協力者(案外と党の人間かもしれないが)の男が云った。あんたの任務内容を持って俺と一緒に来れば、その旅券を「ほんとうの本物」にしてやれる人のところに連れていける。あんたもあんな国でおっかなびっくり暮らすより、改革開放で住みやすいこっちのほうがいいだろ。スリンは困ったようにうすく笑ってみせた。

 相手が気に入る「おみやげ」を持って行けば中国の国籍を得ることができる、というのは彼女たちの間に伝わる、ある種の伝説だった。それなりの任務の際でないと向こうから声はかからないらしく、任務から帰って来たが誘われなかったという者がいる一方、実際に任務から戻ってこなくなった者もいる。戻って来なかった者の家族がいつのまにか家からいなくなっていることがあるのは、当局の追及を恐れて夜逃げしたのだとも、今後は愚かな裏切者を出すことがないように一家全員が「再教育」を施されることになったのだとも云われる。

 今回の「トーキョー王」にまつわる任務は、覇権主義の独裁政党にとっては有用な情報なのだろう。「トーキョー王」が何者かは知らないが味方にするに越したことはないし、なびかないとなれば早々に潰すという方針が、スリンには最もありそうに思えた。未だに自分のところには詳細な任務情報が届いていないが、今のうちに渡りをつけておき、任務情報が届きしだい連絡すればよい。

 任務を詳しく知るのは日本に着いてからかもしれないが、日本にいる間のほうが自由に行動しやすいし、大使館に駆け込みさえすれば国の連中はもちろん日本政府にも手は出せない。日本の利口な外交官たちは外交カードに使いたがるかもしれないが、送還に手を貸したとなれば政権が批判を受けるのは必至であり、わざわざそんなことをする理由のあるはずがなかった。
 つまりスリンは、ロッポンギまで行ければ、国を捨て新しい人生を得ることができるのだ。

 ばかなことを云わないでちょうだい、とスリンは微笑みながら、だが断固として云った。あなたからいただいたのはこれだけ、と旅券と身分証を掲げて見せ、あなたも今の仕事を失いたくはないでしょうから今のは聞かなかったことにしておきます、と答えて彼女はその場を去ろうとした。男はにやにや笑いながら、気が変わったら電話しろと云って去っていった。旅券には電話番号を書いたメモが挟まれてあった。スリンは番号を記憶するとメモを破った。

 今回の任務をともにする上官、中国商社の社員であるユン・スリンの上司とは2日後、上海の空港で落ち合った。それは彼女に旅券を手渡した男だった。男はにやにやしながら、テストは合格だ、と云った。スリンは驚かなかった。


【エド-4】
 ――その死んだ男の人が<魔女>のさしがねだったっていうのね、と画面に表示された少女の顔が険しくなった。エドワード・エインズバーンはiPadのカメラにうなずいてみせた。

 エドワードが今回の顛末と、その背後で行われた闘争に関する推測を説明したのだった。エドワードとその仲間たちのもくろみ、Plagシステムを利用したこと、わざわざお膝元ではなく遠い東京で術を実施し介入を防ごうとしたこと、彼らをあざ笑いPlagシステムに介入した<バルトの魔女>、利用されたエンジニアとおぼしき身元の分からない水死体、抵抗を試みたエドワードたちのリーダーとその死(それがいかに凄惨で奇怪な最期であったかは聞かせなかった)。

 わたし東京じゃなくてビリニュスにいたほうがよかったかしら、と画面の少女――アリスンはつまらなさそうだ。淡い金髪をもてあそぶアリスンをエドワードはたしなめた。リトアニアに旅して<魔女>とやりあうのはお奨めしないね。

 じゃあわたしはどうすればいいの2・3日観光してから家に戻ればいい?と尋ねるアリスンは、なんだか不機嫌そうだ。

 何かあったのかとエドワードが問い返すと、アリスンはもはや不機嫌を隠そうともせず、東京に霊的な警戒網が張られているのだと云った。

 エドワードたちの計画が<魔女>の介入によって阻止されたときから、東京は組織だった警戒網によって監視されている。東京はあちこちに寺や神社といった霊的施設が存在していて、それらを結ぶように網を張ったやつがいるのだ。きっと背後には、これあるを期して待機している組織が存在するにちがいない。

 おかげで窮屈ったらないわ、とアリスンは横を向いた。多少の探査でもしてみたいのだが、あちこちに「センサー」つまり寺社があるからうかつに動けないのだという。

 でもわかったこともあるわ、とアリスンはカメラに横顔を向けたまま、目で笑ってみせた。カードは消滅したんじゃないわ、砕け散ったのよ。

 興味深い話だねと、エドワードは相当にわりびいて返事した。


【エド-5】
 アリスンの、幼い頃から鍛えられてきた魔術の素質は、東京でそのとき何が起こったかを感じ取っていたのだった。おそらくは東京で唯一、何が行われるか事前に知っていた人物であったことも幸いした。あのカードに注目していた勢力が他になかったとは云えないが、彼女だけは「その瞬間」を待ち構えており、何を見届けるべきか知っていたのだ。実際、エドワードが彼女を東京に送り込んだ目的のひとつはそれであった。

 アリスンによれば、「トーキョー王」を構成する予定だった術の魔力は、大小いくつかの「破片」に分かれて飛び散ったのだという。どうなったか正確にはわからないものの、投入された魔力が雲散霧消したわけではなさそうだ。

 しばらく東京を散歩してみてはどうだい、とエドワードは提案した。彼女は横を向いたまま、そんなのでいいのとつまらなさそうに云う。エドワードは、物騒な連中に見つからないように魔術の行使を控えてほしいこと、それでも彼女の能力は「カード」の破片すなわち強い魔力を感じ取ることができるという推測を、彼女の力量に対する信頼と期待をまじえて説明した。

彼女の能力に対する高い評価が、彼女の自尊心をくすぐったようだった。おじ様がそこまでおっしゃるならしかたありませんわね、とアリスンは相好をくずし、しばらくはパッシブ・ソナーに徹して東京観光していることにすると横目で笑った。エドワードは、こうして笑うとアリスンの母――彼の妹によく似ていると思った。


【レナ-6】

 ミナによると、私の魔法反応(苦笑)はだんだん弱まっているようだ。最初にミナの「魔法センサー」(笑)に反応があった日以来、日によって上下しながらも傾向としては落ちていっている。ほらね、とミナがスマホの画面を見せる。ばかでっかい画面にはアプリの簡素な画面が開いていて、ぶれながらも全体のトレンドとしては右肩下がりのグラフが表示されている。

 この子ずっと記録とってんの、ていうかなに、センサーからスマホにデータ飛ばしてるの?今の魔法ってこういうことするの?呆れて私が云うと、ミナはマニアックな趣味のくせにそこだけ今どきのジョシコーセーらしく、えーなんでー違うよーところころ笑った。彼女に云わせるとこれはべつに魔術でもなんでもなくただのデータ処理で、検出器からのデータをクラウドにアップロードして、スマホの表計算アプリでグラフにしているだけだという。妹はマニアックだが頭がいい。

 それでねお姉ちゃん、とミナは私が見たこともない機種(まあiPhoneとXperiaぐらいしか知らないけど)の画面をタップして、最初にその魔法反応だかなんだかが跳ね上がった日の、時間別データを見せた。その日は2つピークがあって、ひとつは午後4時すぎ、もうひとつは午後9時半ぐらいで、後ろのピークのほうが大きく、いってみれば2段階に反応(失笑)が跳ね上がっているようになっていた。ミナが云うには、こういう「2段ピーク」の日もあれば、1段だけの日もありながら、だんだんと弱まっていっているのだという。

 あーくやしいなあ、とミナは顔をしかめた。なんでもその日は都内で大規模な魔法反応があって、なにか重大な「事故」でもあったのではないかと考えられている(誰にだ誰に)のだという。なによ魔法の事故って、と思ったが、ようするに魔法はなにかの目的をもって行われるものだから、全方向にスパークするみたいに魔力が炸裂することはありえないらしい。

 その同じ日に自分のすぐ近くで魔法反応が跳ね上がったものだから、ミナはその「事故」と自分の「魔法センサー」(失笑)の反応とに、なにか関連があるのではないかと考えているのだ。

 そりゃあんたの退屈まぎれの願望でしょ、と言い残して、私は店に降りた。家業の居酒屋は、私にとってはバイト先でもある。最低賃金ぎりぎりで使われてるけど、就職活動の交通費ぐらいは賄えるし、雇用主が父親だから就活の都合で急に抜けたり入ったりするこの時期、なにかと融通がきくのはありがたい。

 雇用主のほうに融通きかされるケースもあるけどね、と私は心の中でつぶやいた。そういえばミナのアレに強い反応があった日も、父親から急にヘルプを頼まれて店に入ったのだった。

 私を門前払いにした会社の最終面接で本社に行くことになった、バイト就活生の穴を埋めるために。私はドリンクを作ってるシンイチをにらみつけながら、焼酎のロックグラスが載ったお盆を取りあげた。カウンター3番さん赤兎馬ですと、シンイチが同じ学年の私になぜか敬語で云う。

 3番さん――シンイチのヘルプに入った日、就活で足が痛かった私に、偶然とはいえ電車の席を譲るかっこうになったオジサン改めオニーサン(特別扱い)に焼酎のグラスを持って行きながら、私はふと気づいた。ミナの「魔法センサー」(笑)に反応のある日というのは、私が店を手伝った日というだけじゃなかった。

 ピークが2段階に――まず夕方、私が店に入る開店前の時間に訪れ、お店の営業時間つまりお客さんが出入りしている時間にもう1回やってくる理由、それは。

■*Tokyoking*■


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