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祖父が歩いた支那事変

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私の祖父、N田健吉が書いた支那事変従軍記を、私の言葉で書き直したものです。
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記事一覧

祖父が歩いた支那事変 〜帰還、第二の人生〜

負傷した祖父は後方へ移送される事になりましたが、その時祖父は信じられない光景を目の当たり…

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祖父が歩いた支那事変〜大激戦〜

祖父は原隊と合流すべく歩き続けました。 もう半分は来たかと言う頃、 「コラッ」 と祖父を大…

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3年前
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祖父が歩いた支那事変〜負傷〜

六月、人員の補充、体力の回復も叶ったところで、敵の包囲網を突破する事になりました。 敵軍…

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3年前
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祖父が歩いた支那事変〜行軍〜

蕪湖を発った祖父は、小さい汽船に乗って揚子江の対岸に渡りました。 そして和県、含山城、巣…

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祖父が歩いた支那事変 〜蕪湖警備〜

 12月17日、祖父の部隊は「南京入城式」を見ることなく、隣の都市「蕪湖(ウーフー)」へ…

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祖父が歩いた支那事変 〜南京へ〜

金山という町の中央には綺麗な流れのクリークがあり、所々に通潤橋のような橋がかかっていて、…

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3年前
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祖父が歩いた支那事変 〜杭州湾敵前上陸〜

8月に起こった第二次上海事変以降、上海では日本軍と国民党軍の戦闘が続いていました。 8月下旬には日本からの増援部隊が上海へ上陸しますが、敵兵力は既に30万に膨れ上がっていました。 クリーク(水路)を利用した敵陣地に日本軍は苦しみ、前進できずにいたのです。 さらに敵軍の背後には更なる増援の気配があったため、参謀本部は主戦力を北支から中支へ変更することを決定し、祖父の部隊は北支から抽出されることになりました。 日本は支那での全面戦争など想定していなかったので、一気に増援を

祖父が歩いた支那事変 〜戦場へ〜

人員の増強、弾薬、食料の補給も十分で体力も充実した9月、祖父たちの隊はいよいよ天津を出発…

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3年前
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祖父が歩いた支那事変 〜大陸へ〜

熊本駅から列車で小倉まで来た後は、出征兵士は船に乗って移動し釜山に到着、民宿で一泊するこ…

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3年前
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祖父が歩いた支那事変〜出征〜

〜はじめに〜 私の祖父「N田健吉」は、私が物心がつく頃には既にパーキンソン病に侵されてい…

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3年前
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