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やりすぎ位が調度いい ー賭ケグルイ ドラマ編ー

賭ケグルイが流行った当初、私は漫画とアニメのみ鑑賞していた。作画担当の尚村透先生の絵と前作「失楽園」が好きで、良く読んでいたからだ。
確かアニメ1期が終了後、しばらくしてからドラマもスタートしたけれど、同じ筋書きをアニメで見ている手前、もう十分感があったため、長らくお蔵入りとなっていた。

今回、推しである『中村ゆりか』さんの出演作ということで、ドラマから映画1作目まで鑑賞した。今回はドラマのみの感想を綴ろうと思う。
長くなりそうだし。
というわけで、ドラマのシーズン1と2を鑑賞し終えた。

この作品の一貫した印象は、清々しいほどの「やりすぎ」ということだ。

「やりすぎ」

この「やりすぎ」こそが原作をリスペクトした演出であり、テレビの独特感がある。漫画はここまでだったっけ?というシーンや、やっぱり漫画のあのヤヴァイ顔をリアルでは無理ゲー過ぎでしょ、という色々な問題を良いバランスで保てていたように感じた。
目が光ったり、黒目が小さくなったり、現実的には無理だけれど、そこをCGで演出したのはちょっとコミカルで面白かった。
細かい演出に面白さと丁寧さが同居して、笑えるけれど原作を裏切らないと感心した。

賭ケグルイは原作を知っているが故の面白さがあるけれど、学園ものだから比較的馴染みやすいし、ギャンブルという非現実さが興味をそそる。
原作ファンの期待を含めて視聴者を裏切らないストーリーだったように思うけれど、やっぱりギャンブルが苦手な人はいるよね。
私はギャンブルを全くしないけれど、土壇場の勝負は嫌いじゃないし、何なら危機的状況の方が火事場の何とかが出る方だから、賭ケグルイのような駆け引きは好きな方だ。

そして、どのキャラクターも結構忠実で、それぞれの色濃さが演出と演技で引き出せていたように思うけれど、やっぱり原作は高校生離れしすぎているというか、ちょっとアダルトチックな高校生だからか、ドラマの方が放送コードに引っかからない可愛さとリアリティがあった。

そして、色々なキャラの中でも特に『早乙女芽亜里』は高飛車で狡猾ながら不完全なところを持ち、ドラマ中で何とも癖になりそうな小気味よさや抜け感に魅力がある。
『早乙女芽亜里』がこのドラマをよりコミカルに、内容をより軽く感じさせ、案外、作中でかなりの常識人なのではと思わせる、作中の「やりすぎ」を引き戻す微妙なバランスを保っている。

また、何といっても学園の理性であり、会長の狂信者でもある『五十嵐清華』。
正直、一番難しい役どころだと思う。
誰も彼も狂気の顔を覗かせるシーンがある中で、ボスの『桃喰綺羅莉』以外、唯一狂気の顔を隠し、努めて淡々と「狂気とは遠いところにある合理性」を貫いていた。

振れ幅のあるキャラの演技は、思い切り振り切ればで面白くなると思う。
大体の人はギャップには弱く、急に相手が変わると面食らうと思う。
かく言う私はギャップに弱い。

でも、振れ幅のないキャラの演技は、細かい演出が必要になるため、じっくり観ていくと、とても魅力があると分かる。
ドラマの中で、ほんの数秒の日常シーンが散りばめられているが、とりわけ普通の学生っぽい行動が『五十嵐清華』には幾度かあり、彼女の理性が良く描けている。
また、その理性を揺るがす妄信的なシーンもあり、アンバランスな理性が魅力を引き立てる。生徒会という化け物集団の中、『五十嵐清華』は『桃喰綺羅莉』に溺れても、ギャンブルに溺れていない。

ドラマで『五十嵐清華』は、学園内でギャンブルを外側から見ている一人として描かれている。
理性の看板を掲げた彼女は、ディーラーとして相応しい。
このディーラーがいることでギャンブルの狂気がグッと締まり、「人生」という愚かさと狂気に満ちた掛け金の手綱を握り、狂気と理性を秘めた勝負を展開させる事ができる。
ディーラーすら狂っていたら勝負は成立しない。
引き立てたり、引き締めたりする役どころは、慌てて騒いだり、振り回されるような大ぶりな演技をするよりも上手くないとできない。

ということで、私はドラマ版の賭ケグルイも大いに楽しめた。
私の推し『五十嵐清華』は、ここでも私の目を引く存在として、良い演技を魅せてくれた。
とても気持ちがほっこりした。

けれど、ラストは映画1作目に続く伏せんがレールに敷かれ、ここからは多少不安がよぎった。
原作とは違う展開だから、オリジナルになるのは薄々感じていた。
ちょっと続きが見るのが怖かった。

次回に続く。










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