忘れたくないことを忘れない為に日記を書くのは初めてかも知れない

 前回上げた『夫にちんぽが入らない』

https://note.com/undead_orange/n/n72d4618097e1

という小説に100円を払ってくれた人が居た。

正直全く想定していなかったから、これはちょっと自分でも驚くくらい嬉しかった。こんな自己言及的な日記をわざわざ書いてしまうくらいに。

"政治"を超えた実感があった。万が一俺がこれから文学賞を獲って商業作家としてデビューしたとしても、勿論俺はそのつもりだしその為に人生さえ賭けているんだけど、ちょっとこの嬉しさは超えないかも知れない。

だって、それは結局のところ「狙った弾が当たった」ということでしかないからだ。たとえ的がどれだけ先にあり、小さく、普通に考えれば当たる見込みはなく、だから誰も狙おうとすらしないものであっても、それでも狙おうとしたなら、そこに勝算がない訳はないのだ。だから、的に当てるというのは予言の自己成就的というか、分かってることを改めて確かめてみるっていうだけのことで、「全く予想もしなかったものに触れる驚きと悦び」を味わえる訳じゃない。見知らぬ誰かがインターネットを通じて俺の小説に払ってくれた100円は、俺にこの悦びをもたらした。

その人はタダで小説を読んで、その上で「面白かった」というただそれだけを理由に俺に金を払ってくれて、その行為に俺はこれまで感じたことのないような尊さ、純粋さのようなものを感じた。それは「商品が売れる」ことの喜びとはまた少し違う。勿論商品を買ってもらえることは嬉しい。自分がそこに注いだ心血が対価を支払われることによって報われた気がする。けれどその営みは「等価交換」という経済の仕組み、資本主義の論理の上に成り立つ、謂わば勝ち負けの話でしかない。より多くを売った者がより多くの富を、数字を手にするというただそれだけの話だ。

俺が今回100円を払ってもらえたことにここまでの感動を覚えたのは、つまりその人の行為が俺をこのような経済のシステムの外へと、一時連れ出してくれたように感じられたからだ。その人は一方的に受け取ることができた筈だ。潜在的には売り物かも知れないがしかし「商品」としての体裁を何ら整えていない俺の小説をただ読んで、笑って、金を払うどころかわざわざコメントを残すことすらせずにブラウザを閉じてしまうことができた筈だ。

それなのにそうはしなかった。しかもお互いに相手の素性は知らない。少なくとも俺は相手が誰かを知らない。要するに何の利害関係もない。買わなきゃ読めない訳ではないし、買わなきゃ人間関係に軋轢が生じる訳でもない。そもそも関係などないのだから。それでもそんな"する必要のないこと"を敢えてしてもらえた唯一の合理的な理由がつまり「作品の面白さ」だった訳だ。少なくとも今俺はそのように信じられる。そのことが、励みにならない訳がない。嬉しくない訳がない。もしかしたらこれは、俺が今まで生きてきた上で受けた、最も「純粋な評価」だったかも知れない。




ありがとうございました、頑張ります。

返礼に代えて。


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