スタート・フロム・ヨーグレット

 その白いボタンを押すのが楽しみだった。けれど押し過ぎてはいけない。一度に押せるのは三回までと決まっていた。
 ボタンを押すと、透明なプラスチックの薄い膜が凹み、裏に貼られたアルミを破って中から親指の爪くらいの大きさの半円が裏表に二つくっ付いたような形の白い粒が出てくる。人差し指と親指でそれを抓んで口に含んだ時、私の意識は宇宙の彼方まで飛び、そしてその粒が口の中で溶けてやがて消えてなくなるまでの時間を掛けて、徐々に私の身体へと戻ってきた。
 ヨーグレット。仕事帰りの父に迎えられた保育園からの帰り道、コンビニの棚に白と青で描かれた鮮やかなパッケージを認めては手を伸ばした。父はそんな私の両脇に腕を通して身体を持ち上げてくれたので、私は自分の手でその幸福の象徴を掴み取ることができた。そして家に着くなり、私はパッケージを破り、シートを引き抜き、白いボタンを三回押した。それをまさに無我夢中で口に運び、舐め、噛み、砕き、飲み込んだ。その神聖なる儀式の間、私は何者でもなく、何者でもないことによってまた私は紛れもなく私でいられた。幸福な、幼年期だった。

 しかし蜜月は、長くは続かない。物語はいつだって無粋な輩の無鉄砲によって盛り上げられるのだ。闖入者の名は、ヨーグルト。
 初めてそれを口に含んだ時、私は大泣きしたそうだ。ヨーグレットが好物ならと、明治ブルガリアヨーグルトを一口スプーンですくって舐めさせてみたところ、私はそれを吐き出して口を歪めたのだと先日母から聞いた。既によだれかけは取り払われていた為、唾液に稀釈されたヨーグルトによって私の服は大いに汚された。泣きじゃくる私の両腕を上げさせてシミになる前に服を脱がせるのが大変だったと、二十歳の私を前にして母は昨日のことのように笑った。
「砂糖が足りなかったんだね、きっと」
「でもパックに付属の砂糖は全部入れたよ。まあ無理に食べさせなくてもいっかって。あんたずっとヨーグレット食べてたし」
「それで、結局あたしがヨーグルト食べれるようになったのっていつくらい?」
「さあねえ。覚えてないけど、気付いたら食べてたよ。それヨーグレットの元だよ、って言ったら、知ってるって拗ねてたのは、小学二年生くらい?」
 ふうん、ありがと。と言って私は冷蔵庫からのむヨーグルトの900グラムパックを取り出す。ドアを開けて廊下に出ようとすると、ちょっとコップ持ってきなさいよ、と背中に声を掛けられた。振り向かずに廊下に出て、もう少ないから、と返事をする。そのままドアを閉め、蓋を開け、十歩歩いて自室のドアの前に辿り着く頃にはもう飲み終えてしまった。
 机の上のパソコンを起ち上げて、私は物語を書き始める。あらすじはこうだ。親にヨーグレットを一日に三粒までしか食べてはいけないと言われていた少女が、親の目を盗んで夜中にこっそりと四粒目を食べてしまう。歯磨きをした後なのに。その瞬間少女の身体は光に包まれ、異世界へと飛ばされてしまう。お腹が減って泣いていると、現地の人から白くねばねばした半固形の食べ物を与えられる。匙で恐る恐る口に含むが、そのあまりの酸っぱさに吐き出してしまう。けれど鼻腔を漂う微かな残り香に、少女は覚えがあった。間違いない、これは、ヨーグレットだ! そう気付いた時に突如地中から生えてきた巨大なスプーンを引き抜き、少女は魔王を倒す旅に出る。見事、魔女から与えられた魔法の粉を振り掛けてかき混ぜることで魔王を封印した少女は、布団の上で目を覚ます。お腹が減って冷蔵庫を覗くとそこにはパックのヨーグルトが。一口含むとその酸味の中に微かな甘さを感じ、少女は少し大人になった。
 うん、悪くない。これで行こう。提出は来週のゼミだし、まだ五日ほどある。ヨーグルトをテーマにした異世界冒険モノなんて書いてくる奴は他に居ないだろうし、最悪プロットだけでも上げれば面白がってもらえるだろう。
 それにしても、最初はヨーグルトが食べれなかっただなんて今となっては信じられないけれど、子供の頃の味覚なんてそんなものかも知れない。飲料も含めると、今やヨーグルトを摂っていない日の方が稀だ。ああでもそうだ。私が最初に食べたヨーグルトはヨーグレットだったのに、最後に食べたのがいつだったかももう思い出せない。そう気付いて感傷的な気分になって、そんなことで感傷的な気分になる自分に笑った。二十歳って、全然大人じゃないな。さて、ちょっとコンビニにでも行ってこようか。
 伸びをして椅子から立った私の舌に漂っていた甘酸っぱい風味は、さっき飲んだのむヨーグルトの所為じゃない、と思う。

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