感想文『響け!ユーフォニアム』

2015年春に第1期、2016年秋に第2期がTV放送されたアニメ。

ユーフォニアムは吹奏楽で使用される楽器。ユーフォを吹く主人公久美子と、北宇治高校吹奏楽部のおはなし。

結論から言うと、この作品は「音楽もの」ではない。

あっ待って待って聞いて。

こんなものは音楽とは呼べない!!
みたいなことが言いたいのではない。むしろまったく逆というか、音楽を軽々しく扱わないからこそその神性を貶めないままに音楽の存在そのものを背景とする物語を描くことに成功しているという点で稀有な作品でありつまり絶賛してる。

待って待って待って待って。

何を言ってるのかよくわからないと思うし説明できる気もしないのだけど、とりあえず僕の思いの丈を。

音楽とひとことに言っても、その意味するところ、そこへの関わり方にはグラデーションがあるよね、という話をする。そこに『響け!ユーフォニアム』を名作たらしめるポイントがある。

「良い音楽」「音楽する」みたいな言い方はあまりに意味が広くて、それゆえに適切ということもあるけど、僕がいま話したいこと、つまり『ユーフォ』が素晴らしいことを言い表すには解像度が足りない。

だからまず、音楽への関わり方についての議論を明確にするため分類すると、
「演奏」⇔「体験・感動」⇔「おんがく」
みたいな感じ。もちろん、「聴く」ことも音楽への関わりだ。
(大変申し訳ないが、これは完全に僕の個人的で内的な思想なので、異論はもちろん認めるが、否定されても困る。むしろ、その個人的な思想にたまたまフィットしたのがこの作品、ということでもある。さらに言えば、『ユーフォ』のおかげで思索を深めることができたとも思う。)

「演奏」というのはそのままの意味で、身体を使って主体的に音を奏でること。そのままの意味で当たり前のことではあるが、人はなんとなく演奏と音楽を同一視しがちでもある。基本的には演奏といえば音楽にコミットする入口の行為そのものを指し、そこには必ず主体となる人間がいて、たいていは技術や上手い下手が問題になる。

「体験・感動」は「演奏」したりそれを「聴く」ことにより、主体になんらかの影響を及ぼすこと。現実的にはこの段階で「良い(悪い)音楽だ」という判断をされる。
フィクションにおいても、この「音楽の感動」によってキャラクターが行動を変化させることがある。本来は「感動」と「キャラクターの行動」との間には何段階もあるのだが、音楽の解像度が低いままだと直通してるように見える。きちんと裏側に道筋が作られている作品もあるが、本当に何も考えずに直結していると大事故になるし、そういうフィクションは少なくない。

これら「演奏」と「体験・感動」が直結しつつ実際には主体の中で絡み合い、さらに感情や環境との相互作用があったりしながら「音楽する」ことになる。

でも、音楽はそれだけではない。

「おんがく」は、その向こうにある。

具体的なメロディがあってそれを聴くことができるものではない。
背景のようにいつもそこに存在するけど空気のように見えないし、手を伸ばしても触れることはできない。
もちろん嗅ぐことも舐めることもできない。
あるいはその五感のすべてを覆うのかもしれない。

「おんがく」と平仮名で書いたのは、まど・みちおの同名の詩を意識しているのだけど、そういうことなので読んでみてください。あと、伊坂幸太郎作品中で千葉さん(死神)が言うところの「ミュージック!」もそういうニュアンスだと思ってる。

僕の中では「演奏」から入った音楽の大向こうにはそういう茫洋とした何かが広がっていて、そこへ辿り着くために、或いはせめてそれを垣間見るために必要な架け橋が「体験・感動」であり、そこへ至る「演奏」なのである。
再びまど・みちおだけど、「うたをうたうとき」という詩がまさにこのプロセスを記述していて、ほんとうに痺れる。この人にはどんな世界が見えているんだろう。

このような音楽参加のグラデーションにおいて、『響け!ユーフォニアム』では焦点が常に「演奏」にある。主人公の久美子をはじめ部員達の思いは「上手くなりたい」であり、「コンクールで全国に行きたい」なんである。

「演奏」という意味合いをきちんと認識してるなあと感じる場面は多々ある。たとえば2期最終回、TVシリーズの最後となる演奏シーンとか。「これが最後なの!?」と驚いたが、それは「演奏」してきたキャラクターたちにとっては最高かつ当然の演出なのだ。

そして、「演奏」から「体験」(良いものも悪いものもある)を導くのが、この作品における音楽の描き方である。

一方で「演奏」によりその主体であるキャラクターは感情を生み出し、感情が行動や言葉として描かれる。物語が紡がれる。

つまり。

物語 ⇔ 行動・言葉 ⇔ 感情      
↑↓
キャラクター 
↑↓
        演奏 ⇔ 体験・感動 ⇔ おんがく

こんな感じで、キャラクターを中心として「物語の宇宙」と「音楽の宇宙」が結びついているような描像だ。だから音楽を描くには「演奏」を描くことになるし、それによる「感動」はキャラクターを介してのみ感情となって物語に関わることになる。
「おんがく」は、物語からもっとも遠く、かつ重なり合いながら常にそこに存在するような、いわば背景、舞台装置としてのみ存在している。

「音楽スゴイ!」「音楽しようぜ!」みたいに、音楽というモノ(それは僕の感覚では「おんがく」を含む)に直接触れて振り回せるかのような、つまり背景ではなく小道具、なんなら役者かのような扱いをしない。音楽そのものによって物語を作らない、動かさない。あるいは、「感動」のみを以てそれが音楽のすべてかのような演出をしない。

早い話が、「物語のための音楽」が存在しないのである。「音楽もの」フィクションにおいてこれはけっこう勇気のいることだと思う。僕にとって「音楽もの」が地雷原であって進むのに躊躇するのはまさにこの点で、「音楽の力」的なものを濫用して物語を推し進められると猛烈な居心地の悪さを覚えてしまう。冒涜だとすら感じてしまう。この作品にはそれがない。安心して前へ歩を進めることができる。

作品中に「音楽」という言葉がまったく登場しないわけではない(セリフ中に、シリーズ通してたぶん6回くらい出てくる)。ただ、かなり慎重に使っている印象を受ける。素人的なものだったり一般論だったりアンチテーゼだったりと、一定のエクスキューズが入っており全て納得できるものだ。
そして主人公の久美子は一度も言わない。「ユーフォが好き」とは言うが「音楽が好き」とは言わないし、「先輩みたいなユーフォが吹きたいです」とは言うが「先生音楽がしたいです」みたいなことは言わない。
いや、「名前を言ってはいけないアレ」という扱いをしているわけではなく、単に向き合ってるものが違うから思い至らないだけなんだろうけど、それが徹底されることで作品全体の信用が担保されている。

また、信用の担保という意味では、本作の「演奏」の質への異常なこだわりも一役買っている。楽器操作の作画が全てリアル(例えばピストンを押す指の動きが音程と整合してる)というのは京アニの気持ち悪いところだし、練習の演奏も含めてすべて別個に録音されており、なんなら複数回あるコンクール曲の演奏はすべて別テイクで且つその「上手さ」も絶妙に調整されている。

ならば「おんがく」を感じられない作品なのかというと、そんなことはない。それをチラ見せすることはたびたびあるし、それは演出によって明示される。しかしその「おんがく」自体がなにかを演じるようなことはなく、それはあくまでも「演奏」の結果であるとして、キャラクターの言動を介して物語は進む。
もちろん、キャラクターが「おんがく」に触れることで、その後の物語に影響する。しかしそれはなんというか「薄く広く降り積もった何か」という感じで、当該シーンだけを見ても具体的な変化は見られない。キャラクターの中で風が吹いて「何か」の吹き溜まりができ、さらに醸成されることで、少しずつ表面に浮き出てくるのである。これは、現実に我々が「おんがく」に触れてしまったときの世界と同じだ。

さて、以上のような意味で、つまり「音楽もの」フィクションのありがちで陥りがちな音楽の扱い方をしていないという点で、『響け!ユーフォニアム』という作品は「音楽もの」としてみるべきではない、というのが言いたかったこと。
「音楽もの」という言葉の粗雑さに、『ユーフォ』を埋もれたままにしておいてはいけない。

この作品は「音楽もの」ではない。
しかし、だからこそ僕はシリーズを通して音楽についてなんの心配もなく観ることができた。画面から流れる音楽を聴き、それに感動し、おんがくを夢見ながら。


この通り、『響け!ユーフォニアム』はそのシリーズを通して音楽の扱いやその描写が素晴らしい、それだけでも観る価値のある作品だ。

しかし。

本作の恐ろしさはここからである。

…そう!

『ユーフォ』は!音楽だけではないのだ!

界隈を席巻した「部活もの」としての超リアル!

生きたキャラクターが織りなすヒューマンドラマ!

後頭部を殴打する青春ラブロマンス!

極緻密な脚本!丁寧すぎる演出!

それらを!すべて!描き出す!圧倒的作画!!

そして!命を吹き込む!奇跡の芝居!!

感情が散らかる!!感受性が間に合わない!!

いいから観て!!!


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