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小説[雨の歌を聴け]

1.
完璧な文章はある。完璧な絶望が存在するようにね。
ボクが高校生の頃、偶然知り合った担任の先生は現代国語の授業でそう言った。ボクはその意味をずっと理解できなかった。今も理解できないでいる。だからボクにとってその言葉は何の慰めにもなっていない。だけど完璧な文章はある。それは神のように儚い。

しかし、それでもやはり何かを書くという談になると、いつも突飛な気分に襲われることになった。ボクが書くことのできる領域は無限大に拡張されたものだったからだ。たとえば像について何か書けたなら映像クリエイターの人格についてだって書くことができる。そういうことだ。

ここまでの文章には何の意味もない。誰かに読まれることを想定していない。だから、これを読んでいるあなたは運がいい。そんな文章には滅多にお目にかかれないから。だって文章はわずかにでも読まれることを期待して書かれるものだろう。日記だって自分に読まれることを意識して書く。

六十年間、ボクはそうしたジレンマを抱き続けた。六十年間、長い歳月だ。それに比べたら八年間なんて手品師が帽子から白い鳩を取り出すほどの瞬間的な出来事だ。そう、もっともらしい文章には気をつけた方がいい。

2.
希望的観測が落胆を招くよ。希望と現実の差分が落胆の質量だ。希望のレベルを下げれば現実との差分は縮まる。落胆も軽くなる。希望など持たなければ差分はゼロだ。だから落胆もない。落胆したくなければ希望しなければいい。
右肩上がりの折れ線グラフを提示されれば人は充実感を味わうことができる。人は上昇を好むのだ。だけどそんなことは欺瞞だから、やがて心の奥の無意識クンから反発を喰らってしまう。理由のわからない不安がいつも下腹を重くさせるのそれだ。追いかけられる夢を見るし、信号待ちでふと死にたくなる。そんなとき沼の底では鯰のボスがにやりと笑っているらしい。いやほんと。

3.
ボクは文章についての多くを下町の夏草から学んだ。下町の夏草は売れっ子の作家だった。女性と男性、半々くらいの読者を持つ。ノーベル文学賞を貰うほどではなかったけれど、知名度は抜群で世界的だった。それゆえに反感も買っていたみたい。反感を買う理由はシンプルだ。成功者に対する本能的な羨ましさ。そういうものなんだよね。

でも下町の夏草は泣き言を吐かない。小さく「やれやれ」と呟いてクールに受け流してしまう。その裏腹な態度にボクは共感したのさ。そんなんでいいのかと思った。だから失敗しても反省しなくたっていいと勝手に悟ったよ。ボクはあまり謝罪もしない。そんなものなのさ。いちいち目くじらを立てないで欲しい。世界はぺったんこのフラットな構造なのだった。

下町の夏草はとても長生きをした。世界を転々としながら裕福に百二十歳まで生きて自殺した。武蔵小金井の西友の七階の窓から飛び降りたのだ。警察は監視カメラの映像を押収して他殺ではないことを確かめたらしい。遺書もあった。生成りの和紙に筆ペンで一文字「無」と記してあった。ちっとも洒落てない。映画監督小津安二郎の墓碑銘と同じじゃないか。だけどこれが成功者の態度なんだ。ボクはこの屹立した大衆センスを学びたいと思う。

4.
二十歳を少しばかり過ぎた頃、ボクは行き倒れに憧れていた。歩きながら突然バッタリ倒れて息を引き取るのだ。救急車が駆けつけた時にはもう手遅れで、医師に死亡確認だけしてもらう。親族と知人には突然死と伝えてもらおう。成し遂げたい人生目標なども特になかったから、そんな死に方を頭に浮かべて悦に入り、暇を潰していた。まあ平和な日常だったわけだ。

今、ボクは語ろうと思う。あきらめてしまった子供の夢を、忘れてしまった冒険心を。
だけど、そうは言ってもそんなことをスラスラと文章にできるわけでもない。ハッキリ言ってそんなことは書けない。書きたいことはあってもうまく書けなくて多くの作家志望者が挫折していく。
しょうがないから抽象化した愚痴を吐きながら日々を過ごすことになる。その隙間隙間に自己正当化が混じり込む。これが大人の夢だ。子供の夢とは階層が違う。
大人は自分を意識するけど子供は夢だけを夢みている。子供の夢には主体となる人格はないし、存在理由も必要とされていない。ただふわふわと愉快に宙を漂っている。
なし崩し的にボクは甘くて苦い珈琲キャンディの形容をせっせと語り続ける。だけどいくら語っても切なくなるばかり、だけどやめられない。踊らされたつくりばなしの言葉たちが、あまりにも自虐的なので涙を流す。そういう言葉の軽さがつくづく身に染みる。だから大人は自己を嫌悪する。あなたもあの日に帰りたいでしょ。

5.
きっぱりと厳しい冬の空が好きだ。お気に入りのふかふかマフラーを首に巻いて朝の舗道を歩く。寒風が頬を注す。とげとげした冷気に肌を刺激されて、やっとボクは生きていることを知る。
みんなもそうだろうか。あなたも冬が好きだろうか。

もちろん、春はウキウキするし夏は興奮する。秋だってキノコが美味しいし、遠くに出かけたくなる。人がどう思おうと勝手なのだが、人の様子が気になる。人の態度を見て一喜一憂する。

だからボクは探りを入れる。道でばったり会った人に「ごきげんいかがですか」といった挨拶をするのは探りなのだ。人と人の会話って基本的に探り合いだと思う。毎日毎日、人は挨拶を交わして会話と応答をまわしている。

腹の底を探り合う生活は楽しいですか。楽しくなんてないんだけどしょうがないよ。人が何を考えているのか、とても知りたいし、孤立が怖い。世界は冷たい。静寂に耐えられない。だからイヤでも挨拶を交わす。てんつくてんつく、そのくり返し。

ぐるぐるぐるぐる空中を旋回しているヘリコプターのように、思考はいつも捻れている。人と自分を束ねて撚り上げる太いロープが無意識さ。この無意識ロープで首を括りたい。手頃な枝を探しておこう。

6.
「歳はいくつ」と聞かれてもボクは応えない。歳の割に幼いからだ。容姿だけが年老いて思考はじつに幼稚なのだ。愚かと言ってもいい。自覚しているから恥ずかしい。我ながらイヤになる。生まれてからずっとボクは沼地のヘリをとぼとぼと歩き続けている。足首まで水に浸かって濡れている。

ボクの母は八十八歳で死んだ。適度な寿命というものがあるかどうかは知らないけど、享年八十八なら人並みだろう。本人がどう思うかはもちろんわからない。ボクが死んであの世に行ったら聞いてみよう。でも、あの世ってどんなところだろうか。場所も様子も知らないのに、その存在を前提に語っている。あの世を設定しないと「この世」についてもうまく意識できないからかな。光がなければ影もない、みたいな。あなたがいるからボクがいる、みたいな。

母は怒りに任せて声を荒げるということがなかった。優しい声で丁寧に言葉を発する人だった。いつも相手を肯定していた。母が口論している様子など見たことがない。でも、だからといって仏のような人格者だったというわけでもない。ちゃんと人間らしいダークサイドを内包していた。目立たないように悲観の思念を身に纏っていた。受動の作法にエゴイズムを込めていた。嫌われないけど人気者にもならないタイプだ。班長の仕事は旨くこなすけど、学級委員に推薦されるほどでもないのだ。ミッションスクールを卒業したけどクリスチャンではなかった。赤旗を購読していたけど共産主義者ではなかった。微笑みを絶やさない人だったけど、腹を抱えて大笑いすることもなかった。いま思えば、ずいぶん不吉な性格だったと思う。

7.
この話は事実を元にしている。ノンフィクションとは言えないけど実話っぽい成り立ちだと思って貰っていい。ヤクザ映画の[仁義なき戦い]を東映は実録映画と名付けて売り出した。事実とは言えないが事実っぽい映画という曖昧なジャンルを設定してキャンペーンを張った。深作欣二監督の[仁義なき戦い]は大ヒットした。たしかに事実をそのまま描くのは難しい。監視カメラの映像が事実を映しているのかと問われれば、(誰かが)事実の断片でしかないと答えるだろう。監視カメラのアングルやフレームは限定されているから、小さく映った強盗犯の顔がよくわからないということがままある。再現ドラマを作った方が出来事の様子は良く理解できるようになる。それに面白い。そういうことだ。

8.
兎は色白だった。だから兎は子供の頃からウサギちゃんと呼ばれていたと兎はつまらなそうな顔でボクに語ったことがある。秋田生まれのロシア系日本人という出自も伝わっている。だけど詳しいことはわからない。兎は質問されると機嫌が悪くなるのだ。

その日、兎は澄ました表情でボクに言った。
「あなたは喋らない方が素敵よ」
ボクは困ったてしまった。もうずいぶんと喋ってしまっていたからだ。
気分が高揚して、とても調子よく喋っていたのに。

兎の瞳は赤い。血の色だ。兎の赤いまなざしに射られるとボクは竦んでしまう。

9.
兎と初めて会ったのは派手な渋谷の舗道だった。街はキーキーと浮かれて絶頂期だった。いい歳をした大人も足が地についていなかったのだから若者たちが常軌を逸しているのは当然だった。時代の空気というのは面白い。気分が気分を高めていく。連鎖というより煽り合いと言った方がいいだろう。人々は競って狂うのだ。
「私は反社会的な思考をするのよ」
これが初対面のボク対して唐突に兎が発した言葉だ。
ボクの反応を気にせずに兎は続けた。
「コモンセンスに同意しないし、死を肯定するからね、ワタシ」
ちょっとビックリしたけどボクは黙って聞いていた。
「社会を変えるなんて言葉を聞くと吹き出しちゃうのよ」
兎は表情を変えずに淡々と喋り続けた。ときどき革靴の爪先でボクの脛を蹴った。痛くはなかったけどヘンなことをする。
「幸せになんてなりたくないの。というより不幸と幸せを分けてないから」
最後に兎はもうひとことを付け加えた。
「むつかしいことはわかんないけどさ」
でもボクにとっては、ここまでの話で充分にむつかしかった。それはそれとして言葉は凄いと思う。意味がわからなくても何かが伝わってくる。伝えたいという兎の意志の矢が飛んでくる。ボクの胸にスパッと刺さった。穴が空いたボクの胸からウジャウジャと蟻の群れが這い出してくる。いくらでも出てくる。まるでB級ホラー映画だ。金属を叩くような効果音も聞こえてくる。さらにドラムロールが危機を煽る。映画なら英雄が助けに来てくれる場面だ。でも来ない。映画じゃないから。ボクは事実の中で暮らしている、と思っている。

10.
兎の母はハサミムシだった。野原で土を掘ると這い出してくる尻にハサミが付いている小さな昆虫だ。昆虫だから足が六本ある。子供だったボクは這いまわる焦げ茶色の虫を見つめ続けていた。友達のいないボクはハサミムシが大好きだった。友達がいないことを知ったのはずいぶんの後になってからだったけど。友達が何か知らなかったし、だから友達が欲しいと思ったこともない。ときどき一緒に遊ぶ仲間はいたけど、その時だけだし、友達という認識はなかった。困ることもなかった。さみしいと感じたこともなかった。一人でハサミムシを観察していれば時間がどんどん過ぎていった。そんな風にしてボクは、しらないうちに大人になっていた。大人になってたことも後からわかった。誰も教えてくないんだもんな、ヒドいよな。思えば、ある年齢から、まわりの仲間達は子供っぽいこと言いながら、ちゃんとした大人になっていた。ボクだけが子供のまんまだった。気がついたら取り残されていた。後悔とか反省とか、そういうのはないんだ。どうやってするのかも知らないしさ。いまもハサミムシが大好きなの。アイツったら歩くときに身体をうねらせるんだよ、最高にかっこいい。

11.
ある春の日に浜辺を歩いていたら頭がゴロンと転がっていた。躓きそうになったら声が聞こえる。
「あんた大丈夫?」
足もとの頭が喋っている。
「なぐさめてあげようか?」
少女の頭だった。長い髪が濡れていてワカメのようだ。ワカメの割れ目からボクを見あげている。ドキッとするほど愛らしいまなざしだった。
これがピコとの出会いだ。ピコに胴体はない。砂から頭だけが生えている。そういう生きものなの、と本人が言った。名前も本人が名乗った。
「今は引き潮だからね」
ピコは小さな唇をツンと尖らせて、自慢げに呟く。
「潮が満ちたら沈んじゃうから」
ボクはしゃがんでピコの顔を覗き込んだ。
「だから会えるのは引き潮の時だけなの」
原理としては納得できる。

12.
だんだん潮が満ちてくる。砂浜に放置されたマネキン人形の頭部のようにも見える不思議な生きものピコ。波がドブンとかぶる。波が引くと、ピコは平然と口を尖らせてピューと勢いよく水を吹く。そうこうしているうちに潮はすっかり満ちてしまい、ピコは海中に沈む。海の底で長い髪がワカメのように揺れている。目はパッチリ開いたままだ。そんな空想をしているボクと空想の中のピコのまん丸な目が合う。目が合った瞬間、ビックリしてボクは空想を中断してしまう。ピコはボクの空想の中でウィンクまでして見せたのだ。ピコは空想の中に棲む侮れない生きものなのだ。空想しているボクは現実のボクである。

13.
海辺の断崖に立つ藻屑ホテルは崩れていた。屋根はめくれ壁は剥がれかかっている。鍵は壊れ、風が吹けば扉は揺れる。硝子は曇り、床は穴だらけだ。しかしボクはここに泊まることにした。そう決めた。そうしなければいけない気がしたし、空想世界のピコも笑っているから大丈夫だと思う。確信を持ってボクはここに泊まる。そんなホテルはめったにない。
藻屑ホテルは大正時代に建てられた洋館である。いまはキクチヨという老婆が一人で切り盛りしている。切り盛りと言っても滅多に客は来ない。ボクは三ヶ月ぶりの客だとキクチヨは言った。三ヶ月前の客にも興味が湧くけど、とくに質問はしなかった。それより、ボクはいつも断片を見ているし、思考は偏向しているし、気が変わるから世界は一つじゃないと思っている。そんなボクにとって、ここは居心地がいい。概念を押しつけるような雰囲気がない。皺だらけの女将キクチヨのおおらかなキャラクターと、ほどよく崩れている藻屑ホテルの佇まいが世間の風潮を寄せ付けない頑固さを示しているから。社会通念に染まらない孤高を保っているのもいい。ボクは自己嫌悪の塊だったから、こういう隔絶感が落ち着く。ここにいれば人さまのことを気にしないで済むからね。ボクは自分のことだけしか考えないエゴイストなんだ。老婆キクチヨもそんな感じだった。よそよそしいけど敵愾心は感じない。空気のように扱ってくれる。無重力な宇宙空間ってこんな感じだろうかと思ったね。

14.
珍しいこともあるもんで、藻屑ホテルの扉がカタカタと音をたてかと思ったら貧相な男が入ってきた。何も考えていなそうな、あっけらかんと無表情な青年スナメリだ。スナメリは一人で勝手に喋っている。

旅の道行きに富士山は見えなくてもいいし、道の駅も必要はないんだ。岩木山だって鳥海山だって大山だってそりゃ見事な景観だよ。
検索すると上位に表示されるようなポピュラーな名勝とか名産とか、そういうのはもういいって気分なのね。顔のない人々に対して話題を合わせに行くような、行動様式の迎合が煩わしいと感じる意識に素直でありたいと思うようになったわ。
じつは、それでも差し支えはあまりないんだよ。そういう意味では旅の楽しみって「トンネルを抜けると雪国だった」くらいの視界の流動があれば充分だわさ。
でもね、なんだかんだいってもね、日光東照宮の絢爛はいい。あれは特別だ。佐渡へ渡るフェリーの昇天感覚や、波照間島の道端で草を食むヤギの安堵感も著しい。
旅の醍醐味って自分だけの独断的なセンスに喝采を送るエゴイズム特権なんだよな。

15.
人は一人では生きていけない動物らしい。それは習性だからしょうがない。群れながら戯れるの。だから人間関係には苦労するよね。やれやれ。


ボクは人と長く付き合うことができないんだ。どうしてだろう。よくわからない。


★ホントは明かしちゃいけないんだけどさ、みんな知ってるかな、ここがあの世なんだよ。

-下町の夏草に捧げる-

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