吟味できるという贅沢

 まだ予断を許さない状況ではあるものの、コロナ禍による経済の著しい停滞が落ち着き、落ち込んだ気分が少しずつ上向いてきたこの頃。無力感を感じ止めていた大学進学への勉強を少しずつ再開していった。その中でも個人的な興味から人類の文化・社会の基盤を探る事は続けていて、様々な本を読むようになった。中でも「ソクラテスの弁明」には大きな感銘を受けた。その書においてソクラテスは裁判の場で「吟味なき人生など生きるに値せず」と、大衆の前で論ずるのだ。

 吟味とは”物事を念入りに調べること。また、念入りに調べて選ぶこと。”とある。自分の人生の重大な局面において、果たして吟味と言えるほどの選択をしたかというと、ほとんど無い。覚えている限りで自分の意志ではじめて重大な吟味を行ったのは23歳の時だった。

 吟味に時間が掛ったのは、訓練の機会を与えられなかったからだと思う。子供の時から過保護気味で、自分の代わりに物事をやってしまう母親と、家父長制の煮凝りのような父親の元で育ったので、自分は不器用で何もできず男として失格の人間であるという自己評価と、当たり前の生き方(正社員で就職し、家庭を作る)こそが真理であるという事を刷り込まれた。

 自己肯定感が無く、自分の考えが全く信用できないと感じてしまうと、たちまち吟味に恐怖を感じてしまい、親の顔色を窺って何かを選ぶようになってしまう。やがて大人になっていき、”当たり前の生き方”の困難に直面した。常に「普通の生き方って何なのだろうか?そしてそれは本当に正しいのか?」という疑問が浮かんでいたものの、自分の判断は悪い方向に向かうと思っていたし、親にもそう言われていたので、現状を維持する事しかできなかった。やがて「進むも地獄退くも地獄」の状況に自分で囚われ、心を壊していき、一睡もできなくなったり笑う事が出来なくなっていた。流石に現状維持では良くならないと思ったので、泣く親の意志を鉄の意志で無視して行動した。それが23歳の時の吟味、前職の退職だった。

 親に本気で泣かれ、悪化するかと思えた選択も、実際行ったら何事もなかったどころか良い方向に向かった。吟味の成功経験を体験した自分は、徐々に訓練を始める事にした。転職、服装、特に一人暮らしは重要だった。食事や洗濯や買い物など、生活を自分で吟味し続ける事は良い訓練となった。悪い状態から抜け出す事で心に余裕が出来、様々な物事を探求する好奇心や他人に対して良くしようとする心が生まれてくるようになった。そこから見えてくるものは、あの23年間が「生きるに値しない人生」という事だった。すなわち、会社を辞める決断をすることでようやく「自己の人生を生きる」ことが出来たと言ってもよい。

 こうして28歳になった今、吟味は怖く、未知のものではなく、自分を豊かにさせる素晴らしい贅沢だというのを実感している。そこから更に、もし仮に自分の吟味が失敗したとしても納得しようという感覚を持つまでに成長する事が出来た。

 今、この歳で県外の4年制の大学を目指すという目標が自分にはある。無論、社会におけるキャリア設計の観点からすればとても無駄な物になる可能性は高い。しかし、今のまま、代わり映えのしない地元で冒険をしないまま平穏な生活を続けるのは、歳を取って必ず後悔すると思うし、歳を取ってからやるには経済的にも身体的にもさらにハードルが高くなってしまうだろうし、そもそも今の社会的な状況で平穏が続くのか不透明だ。それならせめて自分の望みである地元以外の土地の生活を知る事や、知的な探求の専念や、階層の違うであろう様々な人々と交流をするという事に稼いだ財産をありったけブッ込んで、心に横たわる後悔の源を取り除いてやろうじゃないかと考えている。たとえその後のキャリアが惨めであろうとも、これまでや、今のままの人生を選択するよりもいいと確信している。


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