見出し画像

結論:お前らが掲げているものはフェミニズムではない。〜フェミニズム解体論〜

どうも、ヘルです。

結論から言います。

Twitterで日々女性の自由のために活動する「自称フェミニスト」の皆さん、

あなたたちが金科玉条の如く掲げているそれは、フェミニズムではありません。



この考えに至るきっかけになった記事がこちら。


私は常々疑問に思っていた。

Twitterで語られる「フェミニズム」は、二つの相反する方向性を内包することを。

一つ目は、「今現在の女性」の自由を極限まで拡張しようとするフェミニズム

そして

二つ目は、「総体としての女性」の社会の中での権利向上のため、一時的に女性の自由を制約するフェミニズム

である。


実例を挙げてみよう。

「専業主婦」という女性の生き方でいえば、前者の考え方では「専業主婦という生き方をしたい女性」の選択を尊重することになる。

それはそれで素晴らしいことだし、一般の女性からは非常に支持されやすい思想と言えるだろう。

しかし今の社会構造では「専業主婦になること」に大きなメリットがあるため(経済的な理由でパートに出る女性は増えたとしても)、総体としては「男性の稼ぎに依存する女性」の人数はなかなか減らず、フェミニストの求める女性の地位向上や本当の意味での社会進出は遅々として進むことはない。

そもそも何かしらの目標を達成しようとした時、その構成員がそれぞれ好き勝手に動いたのではその推進力は極めて弱い。多くの女性は「フェミニズム」よりも「男性からの庇護」を選ぶだろう。

ジェンダーギャップ指数がなかなか上がらないのも、これが「フェミニズム」として幅を利かせているせいだと思うね。


それに対して、後者は時として「専業主婦は奴隷である」と主張する。そして男性の庇護を望む女性は「現在の男性優位の社会構造の加担者」と看做され切り捨てられる。

同時に「ポルノ」も「女性に性的役割を押し付けるもの」として批判し、「表現の自由」を認めない傾向にある。

個人的には(思想に賛成するかは別として)、「女性の権利向上のために女性自身が変わるべき」と、女性に努力を求める後者の方が筋は通っていると思っている。

この二つの方向性は「リベラル・フェミニズム」と「ラジカル・フェミニズム」で棲み分けがされている。





…と思っていた。


冒頭の記事へ戻る。

日本の女性学の第一人者と言っていい人物が、「女性は職を手放すべきではない」と言っているのである。

「専業主婦になりたい女性の自由」など知ったこっちゃないと。

つまり先ほど挙げた二つの方向性のうち、後者が彼女の考える「本来のフェミニズム」なのである。

考えてみれば上野千鶴子もそうであった。

彼女は以前、#kutoo についてこう言及していた。


「ヒールを履きたい女の自由など知ったこっちゃない」のである。

考えてみれば「ハイヒール」などという、靴としての合理性のかけらもない履き物が「美しく見える」という理由だけで女性の支持を得ていることはフェミニズム的に考えればあり得ないことなのであろう。これを文化として後世に残すことは「女性は美しくあるべき」という価値観を固定化し女性の自由を奪うことに繋がる。

権威に縋るわけではないが、この重鎮二名がこういう方向性であるとなると、「フェミニズム」についてイチから考え直す必要が出てくるわけである。


上記の上野千鶴子のツイートには、アンチフェミ界隈からも多くの批判が寄せられた。

その多くが「女性の自由を認めないなんて、それでもフェミニストか」という論旨だったと記憶している。

石川氏もこのツイートに対してこう反論した。


つまり、普段はあれだけ敵対しているはずの石川氏とアンチフェミが、この点に関しては共闘したわけである。


ここまで考えて気付くことがある。


もしかして、「女性の即時的な自由を求める思想」って、フェミニズムではないのでは?

自由を求める思想…それって「リベラリズム」でよくないですか?


この気づきがタイトルの文へ繋がる。

お前らが掲げているものはフェミニズムではない、と。


アンチフェミの皆様は、フェミニストの主張に対して次のような違和感・反感を感じる方が多いのではないだろうか。

「女性の権利ばかり主張して、男性が負ってる義務を負おうとしない」と。

これはつまり、「女性の自由ばかり主張して、男性の自由を認めようとしない(不自由を解消しようとしない)」という、「リベラリズムの矛盾」に対する反感なのではないか。


権利だけ求めて義務は放棄する、そんな思想が世間に受け入れられるはずがない。リベラルがそんなことを主張したら自己矛盾で爆発するはずである。

だから決して「フェミニスト」は「リベラリスト」とは名乗らない。

そんな矛盾を孕んだ主張でも、「"なんとなく正義っぽい"フェミニズム」の威光により、さも正当な主張であるかの如く振る舞えるからである。

もう少し悪い言い方をすると、

「女性の自由は主張したいが、それと相反する男性の自由や表現の自由との擦り合わせは面倒なので、『これがフェミニズムなのだ』と主張してその責任を放棄している」

のが、今現在Twitterに跋扈するフェミニズムなのである。


(ちなみに「女性の自由」を求めながら「広告のTPO」を求めて女性の活躍の場を減らすような主張をしてる奴は論理的一貫性のかけらもないので徹底的にバカにしていいと思います。)

そういう都合の良い主張なので、まぁ楽に生きたい女性からは支持される。「本来のフェミニスト」の皆様も、明らかに主張する内容が違うのに表立って批判することもない。

そりゃ好き勝手やりますよね。

 

まぁこんなこと言っても当の本人たちは認めないだろうが、こういう考え方を持っておくと「フェミニズムの絶対性」の呪縛から逃れることができ、その主張の矛盾に気づきやすくなると思う。


一方で「女性の自由を求める代わりに男性の自由や表現の自由ともきちんと向き合う」というスジを通しているの皆様もいらっしゃって、こういう方々には私は敬意を表している。

(私が言うのも烏滸がましいのだが)こういう方は「フェミニストの中のリベラル派」ではなく、「リベラリストの中のフェミ派」と言った方が近い気がする。こういう方が最優先してるのは「自由」で、その中で女性に「かくあれ」と主張しているから。

「リベラル・フェミニスト」ではなく、「フェミ・リベラリスト」ってことね。



しかしまぁ、そういうワガママ放題な女性たちが自分たちの主張の矛盾にも気づかず好き勝手できるのも、それだけ「代わりに何かを犠牲にするほどの逼迫した女性への抑圧」が無くなっているという証拠なので、本来のフェミニストとしては無邪気に遊ぶ子どもたちを目を細めて見ている感覚なのかもしれない。「一人一派」なんてのはこういう「フェミニストもどき」を批判しないための方便で、やはり権威をもってしてこういう人たちを批判した時点でフェミニズムの根底が崩れてしまうことをよく分かっているんだろうね。



さて、現在Twitterには様々なフェミニズムに関する言説が流れている。「フェミニズム」の実態については諸説ありすぎて雲を掴むような感覚でいる方も多いと思う。

そんな中で、今回は私なりにフェミニストへの矛盾・違和感が解消できるように解体してみた。


ヘルおじさん、子供3人育てながら毎日必死で生きております。

しかし多くのサラリーマン家庭のご多分に漏れず、小遣い生活で金がない!!

この記事に「なるほどたしかに」と思ったら、ビール一杯奢ってください!お願いします!

ここから先は

0字

¥ 200

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?