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渋沢栄一翁が遺した矜持のある街

新紙幣が流通しはじめて、ようやく現物を手にすることができました。
渋沢栄一翁の肖像が描かれた新一万円札を手にすると、商工会議所の設立や殖産興業に尽力され、わが国近代産業の礎を築かれた功績をふと思い出します。

東京商工会議所の調べによると、渋沢翁は生涯で481社の会社設立に携わり、社名や業態を変えながら、そのうち186社が今も存在していると言われています。

https://www.tokyo-cci.or.jp/shibusawa/history/pdf/companies.pdf

実際、設立に携わったと言っても、そのほとんどは出資やアドバイザー的役割だったそう。

その中で翁が設立最初から日常業務まで深く携わった会社は「2社」のみという説があります。

1社目は「第一国立銀行」
2社目は「抄紙会社」

第一国立銀行は大河ドラマ「青天を衝け」で描かれたとおり、日本初の銀行として知られ、現在のみずほ銀行にあたります。

一方、抄紙会社では、紙幣や新聞の発行に不可欠な洋紙の量産体制の確立が文化国家建設の急務ということで、渋沢翁自らが社長として陣頭指揮にあたったようです。
当初、不慣れな製紙業に四苦八苦しながらも、新技術の導入で生産が安定して、後の分社や合併を経て、抄紙会社の流れは王子ホールディングス、日本製紙として現在まで連綿と受け継がれています。

幸いにも静岡県富士市は両社の工場が立地しています。渋沢翁が「ものづくりで国を興す矜持」をもって直接腕をふるった会社が、わが国の製紙産業を代表する存在として揃って地元で存続していることは大変誇らしく思います。

が、このことが意外に知られていないのも、また事実です。

余談ですが、翁のいとこ筋にあたり、学問の師でもあった尾高惇忠。
富岡製糸場の初代場長として知られますが、旧富士川町あたりの養蚕業者を訪ねて来ては、その指導にあたっていたとのことです。 

さて、先ほどの新札、あっという間に私の手元から飛んでいきました。
渋沢翁、お目見え直後でご多忙とは存じますが、これでお見限りとなさらず、どうか早めにお戻りくださいますようお願い申し上げます。

この記事は
Eijyoさまの記事へのコメントをリライトしたものです。
Eijyoさまありがとうございます。


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