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英雄はうなだれる③

 粗末な足場。せまくて低くて、威厳からは程遠い壇上。氏名のみを冠した質素なのぼり旗がなびく風もない。補助する人間もおらず、所属団体もないみたいですべてをひとりでこなし、歩道の端で作業をつづける。
 雑踏のなかにあらわれたその男性は、ダークネイビーのピンストライプスーツをタイトに着こなし、颯爽と場の準備を進めていく。胸元を彩ったパッションピンクのネクタイが存在にアクセントを与え、ドラマ撮影中の二枚目俳優が迷い込んできたように、この上なく場違いに見えた。裏返した、黄色いビールケースにウイングチップの革底を引っ掛けるそぶりが、そのミスマッチに一層拍車を駆ける。
 やがて駅ビルの出口前にある憩いの公園の一角に、舞台は整えられた。
 誰一人立ち止まらない風景に向け、さわやかな笑顔で挨拶をした。携帯電話を操作しながら、沢渡は暇つぶしがてらに観るでもなく眺めて、ぼんやり見物していた。休日の今日、都合よく出会える女を探している最中で、けれども数日前から漁っているのにいまいち芳しくなくてなかなか見つからず、悶々とした気分で携帯電話をいじっていた。駅前はひっきりなしに人々が行き来し、あらゆる方向から構内に吸い込まれていくし、同時に溢れ出してもきて、車道とを区切った巾が広いU字のガードパイプには隙間なく誰かが座り、空いた隙間を誰かが埋める。
 臆面もなく、自己紹介を済ませる。
「想いを馳せます。」
 同時に強烈なハウリングが起こり、周辺の人々が一斉に身を搾らせた。
 その光景を目の当たりにした男はひとりきり苦く笑い、マイクの先を物珍しそうに検べると気を取り直して咳払いし、口角を上げつつ主義主張を展開しはじめた。誰も耳をかたむけない。群衆は流れていく。つれなく彼の声は置いてけぼりを喰らい、ひろい街中に散り散りにほぐされてしまって、一向に盛り上がらない。演説が空回りし、やがてあえなく沈黙してしまった剣持にも、興味どころかを同情を抱く歩行者もいなかった。
 最初は触ってはならない神かのように半円形に距離を空けられていた足場のそばにまで、徐々に歩行者は押し寄せはじめる。一寸の敬意も遠慮なく、あたりは人で埋め尽くされた。待ち合わせをし、携帯電話とにらみ合い、誰一人演説があった事実を忘れてしまったみたいで、あっけなく雑踏に飲み込まれてしまった男を、別に気の毒とも思わず沢渡はただ眺めていた。
 今月の成果をそらんじて、歩合の額を頭の中で計算する。貯金はまったくしておらず、入った分を丸々浪費する日々の連続で、綱渡りみたいな生活なのに改めるつもりもなかった。
「よくもまあ、ここまで醜い豚どもがそろいもそろったもんだ。」
 眉毛が八の字を描くほど、狂おしく剣持は笑った。
「皆さん、皆さんは和牛をお食べになるでしょうか? うつくしくサシの入った極上の和牛肉。いかがでしょう?」
 黒く潤んだ瞳で国民を舐めまわす。無礼な前言が聞き捨てならないらしくてその場に立ち止まり、スマホに熱中しながら進んできた若い男に後ろから体当たりされる肥えた中年男性がいた。脂肪を下腹部にたらふく蓄えたその肉体は衝突にまるで動じることなく、彼にとってはささやかな接触事故を会釈するのみでやり過ごし、立ち止まったまま話に聞き入った。
「皆さんのご年齢からすると、魚に回帰されているという方も多いかもしれませんねぇ。もしくは健康のため、そういう節制を自らに課したほうが良いのかもしれません。いや、失礼。決して喧嘩を売っているわけではないので誤解をなさらないように。みなさんがお年を召されていると申しあげた訳ではございません。」
 聴衆と化したその男性をまっすぐに見つめ、語りかけ、植木が点在している前方を仰ぎ見た。
 脚を止めかかった数人が瞼の端に眼球を粘らせつつ、歩き出す。
「私は今年で五十歳になるのですが、牛肉がいまだに大好きでしてね、特に和牛のきれいなサシはある意味、芸術ではないか、そこまで真剣に考えている次第であります。私にとってのクールジャパンとはアニメや漫画ではなく、和牛なのです。いや、食いしん坊でお恥ずかしい。たとえばすき焼きやしゃぶしゃぶ、焼肉など様々な食べ方がございますが、やはり本来の味を一番楽しめるのはなんと言ってもステーキ、それもニンニクで食欲のそそる香りをまとわせて味付けは塩胡椒のみ、これに限ります。それほど和牛は素晴らしいものだと私はとらえていますし、もっともっと消費を高めるべきだと考えているんですが、ここで一つ質問がございます。」
 剣持は再度、ひろい歩道を見渡した。
「東京都の屠畜場は一体どこにあると思われますか? これはどなたかに答えていただきたいな。あっ、そこのディオールの方、いかがでしょう?」
唇を一文字に結んで、血が滲んだ出来立ての傷口に触れるかように、たまたま近くにいた女性をちょんと指差した。視界に映る剣持は、愛玩犬そっくりに人懐っこい笑顔を浮かべている。「お見受けするところ、そのスカーフはディオールの今期の新作ですよね。非常にお似合いです。」笑顔で軽口を叩いた。待ち合わせをし、呆けた顔で佇んでいた女性は突然指名され、困惑した様子で回答できずにいる。
「そうです! その通り。よくご存知で!」
 助け舟を出して、剣持は話を進めた。
「東京都のと畜場は品川駅港南口にあります。芝浦と畜場です。東京都はこの一箇所のみです。そこでですね、私、思うんです。」
 顎を揉み、思案気に肯いた。
 まだ肯き、左の端から時計回りに見渡していく。
「貴方たちは家畜ですか?」
 条件の折り合った女がやっと見つかり、沢渡は待ち合わせの約束を取り付けた。念のため、あと二、三人は探そうと携帯電話に改めて向き合う。今のが二十代だから、できたら人妻、もしくはシングルマザーみたいな、本格的にスポーツに打ち込んでいた元アスリートとか、興奮できる要素を持った女性を狙いたいと、彼の指先に自然と力がこもった。
「あえて汚い言葉で申しましょう。てめえら家畜かよ? 当然家畜だよな、てめえらなんか。ここまでよろしいでしょうか?」
 無礼な言葉遣いに反感まじりの眼差しでにらむ男がいるにはいたが、大勢は相変わらずたいして関心も持たない。喜怒哀楽、そのどれでもない無表情で眺めている。
「想いを馳せます。当たり前の努力をすれば当たり前の生活が手に入り、結婚をして当たり前の夫婦ができ上がり、当たり前の家族を造ることができた時代のことを。昔々この国は、確かにそうだったと伝え聞いております。さて、今はどうでしょうか。特定の大企業だけが甘い蜜を吸い、中小企業や零細、それら下請けで働く労働者たちは給料を極限まで下げられてあまつさえいえば移民に仕事を奪われている。ド腐れ移民どもにね。麻薬に依存するように移民に頼り、もはや移民に頼らなければ、末端の仕事は何も成立しなくなってしまったのです。移民たちからしたら日本は治安もいいし、健康保険にも入りやすくて願ったり叶ったりですよ。もしも日本には来たいけれども働きたくはないという怠け者だったら、生活保護を受ければいい。こりゃ楽園だ。桃源郷だ。それなのに酷いのは日本語も覚えようとしないで一塊にかたまってコミュニティー造っちゃってさ、自分らの街だとか勝手に宣言しちゃって、危なくて生粋の国民が立ち入れなくなってる地域があるんだから。一体誰の国なのかと思うよね、まったく。」
 通りかかった外国人の一団が野次を飛ばした。呼応し、別のグループが怒気を発して、掌を突っ込んでいた革ジャンのポケットから拳を突き上げる。
中指が立った。
 臆面もなく、両腕を大きくひろげて胸筋を張りだして、激しい口笛や罵りを一身に受け止める。半円を描くかのように角度を変えていきあまねく人々に正面から全身をさらし、自らの潔白をアピールするみたいに両方の手を胸に当てて困惑の面持ちを醸し出してから、上に手相を向けた掌で鳴りやまない異国の怒声を指し示した。
「こんなの砂糖に群がるアリどころの話じゃないよね。生ゴミに群がるゴキブリだよね、貴方たちって。まあ、我が国をくっさい生活ゴミに例えなければならないのも虚しい現状ではあるのだけれど、この際仕方がない。勘違いしないで欲しいのだが、これでも私はね、貴方たちを可哀想だとも思っているんだよ。失敗国家に産まれたのはもちろん同情するし、何人としてこの世に生を受けるかなんて運でしかないんだからね。でもさ、祖国を簡単に棄てたりしないで、利害だけでうちに移住してきたりしないで、それを宿命としておとなしくゴミ国家で一生を終えなさいよ。」
 空気がさらに殺気立った。異国の言葉が浴びせられ、拙い日本語でも罵声が飛んだ。侮蔑の意味合いのこもった身振り手振りがあちこちで見え隠れする。
「さあここで原点に立ち返りましょう。もう一度問う。貴方たちは家畜ですか? おまえらは豚か? と問うている。」
 剣持が話を一旦切った。空気が完全にひっくり返っていた。周囲の静寂に気が付いた沢渡は上目遣いで演説者を見、返信に目を落とした。駅へ向かう流れの一部が滞留し、杭となりあちこちで障害となって、構内から吐き出されてきた勢いが引っ掛かる。
「未来に受け継いでいく日本はこんなかたちでいいのだろうかと、常々私は憂いております。上の世代から与えられた、いや、押し付けられたと換言しても過言ではないと思います。日本で、日本人が肩身のせまい思いをし、勝てば官軍を文字通り実践し、富める者は際限なく肥え太っていき、持つ者と持たざる者との格差は極大にまでひろがってしまいました。いつからでしょうか。誰一人として話題にもしなくなりました。口に出すのも憚られるのか、異形の世界をいつの間にか容認してしまったのか、もはや憤る気概さえ失ってしまったのか、そのどれかなのかもわかりませんが真実を知る年代はいつか途絶えてしまうのです。なぜ声を上げないのでしょうか?
侵略は、もちろん下からだけではないのです。とうの昔にはじまっているのです。我々の頭上にひろがっている空に、私たち国民はあまりに無頓着すぎるのです。
あの、超超超高級ハイタワーマンションからの、無慈悲な、無差別な、一般市民への銃撃が事実上容認されている現状をどのように考えているのでしょうか? あんなもの恒常的なテロ行為だ。テロリストの巣窟だ。おい、さっきからうるさいよ、そこのハナクソ移民ども。いい加減そのやかましい指笛をやめたまえ! 失礼だろうが! こっちはおまえらの鈍い感性ではけっして理解できない切実な問題を訴えているんだよ! 再び、聴衆に向けて身をひるがえした。上を牛耳られ、守ってもらう代わりに従順にカマを掘られて、まわりを見渡してみたら出自もさだかではない怪しい連中が跋扈している。
貴方たちはわかっているんだろう? 本当は知っているんだろう? 敵はこいつらだって薄々勘づいてるんだろう? 敵は好き放題をやらかしているハイタワーマンションの住人たちだってちゃんと気が付いているんだろう? 私は知っているのだよ、確信しているのだよ、あなたたちがそこまで愚かなんかじゃないってことをさ。ならばなぜ声を挙げない? なぜ打倒しようとしないのだ? こんなもん断固として打破だ。攻撃だ。抵抗だ。殲滅だ。これは極論でも暴論でも野蛮でもなくて当然の権利であり、崇高さすらもともなった否応ない義務でもあるのだ。
いつからだ? 日本が事実上領空を失ってどのくらい経つのだ? 現在進行形で、上からも下からも国土は浸蝕されているのだ。サンドウィッチでぎゅうぎゅうと圧し潰され、弾き出されて、他に行き場もないから路頭に迷い、なんとか踏み留まっても足もとをすくわれてしまって、ならば日本国民はどこへ向かう? 一体どこに居場所を見出せばいいというのだ?
唸るほど金を持ってるだけで何人かも知れない連中が我が国で我が物顔で、好き勝手やっているのに何も疑問を持たないとでもいうのか? 怒りの拳をふり上げる根性すら失ってしまったとでもいうのか? そんなおまえたちは本当に日本人なのか? 日本国民なのか? 胸に手を当てて自らに問うてみろ! だが残念ながら答えはとうに出ている! 出てしまっているのだ! 否! 否だ! そんなもの言うまでもなく否だろう! 答えは否だ! 一那由他回問うてみたところで結論は絶対に変わらない! 私からすればおまえたちなどは上手く飼い慣らされた、脆弱で、滑稽で、さらには臆病で不感症な、それなのに征服されていく痛痒さに情けなくも勃起してしまっている、お股をジュクジュクに濡らして自ら腰を振ってしまう、まるで恥も知らない、快楽だけには貪欲で忠実な、日本人ではなく日本豚なのだ! (和牛なんかに例えられるなどと期待するな。奢るんじゃねえぞ、豚野郎ども。)
もしくは! あるいは! 例えば! てめえらなんか無様に思考停止した肉の塊だ! 自分の脳ミソでは何一つ考えたくなくて、どうせ今日これから喰うメシですら自分で決めたくもなくて、指示されるがまま、提示されるがまま、なんの疑問も持たないで唯々諾々と受け入れて従うんだろう。命令されれば人の糞でも涙ながらに喜んで喰らうんだろうが! だったらさっさと脳天ブチ抜かれてくたばっちまったらどうだ? なんなら教えてやるぞ、狙われやすい絶好のポイントを! なんだまだ死にたくはないってか? だが安心しろ! 大差はない。結局どちらにしたっててめえらの未来は将来は、とてもとても明るいお前たちの行く末は、糞みてえな金持ちどものディナーの一品に成り下がる以外には絶対にありえないのだから!」
 一気に熱情を迸らせてから、自ら作り出した静寂を出来のいい顔立ちで丹念に舐めまわす。
 唖然とし、全員がこの男の言葉に固唾を呑み、不意に水を打たれた歩道は意図もしていなかった沈黙に包まれてしまった。いつの間にか街へ繰り出す前の憩いの空間が、群衆で満たされていた。剣持は肯き、肯き、肯き、あたり一帯を見渡して、あっけに取られている聴衆の表情をたっぷりと味わったあと、演説者は静かに言い放った。
「一人一殺。」
 人差し指を、顔の横にかかげた。小刻みに揺らす。奥歯を喰いしばり腫れぼったい唇を薄く開けた苦悶の表情で、濡れた瞳を走らせる。
 首を縦にふり、横にふる。マイクを持った拳を急いでほどき、わずかな雑音を奏でつつ、首に巻きつけた華やいだ色のネクタイの結び目を乱暴に引っ張り出すと、口元に笑みを湛えながらまぶしそうに目を細めた。刹那、身体が一回り膨張したかのごとく、濃紺のスーツの生地が大きく張り詰めた。
 閉じた口から、前歯がちらついた。しかし厚い唇から次の言葉は発せられず、満を持して目一杯吸い込んだ空気を惜しげもなく深い溜め息に使ってしまい、端正な外見を引き攣らせた。空に向けたその指で移民たちを差す。「黙れ。」視線を右から左へとまんべんなく民衆に注ぎ込み、向けた指先は依然としてそこから動かさない。
「もう一度だけ言おう。」
時が留まったように、まるで彼が留めたかのように、静寂が生まれた。
天を指し示す。
瞬きもしないで、深々と、艶めかしく、剣持は肯いた。
「一人、」
「一殺。」
 硬直した空気が急に弛緩し、唐突なざわめきが起こって、鼻で嘲笑う吐息があちこちで洩れ聞こえた。膨大な指笛が吹き鳴らされ、カタコトの、あまり的確ではない悪口が噴き上がる。応援する声も挙がった。あからさまな非難はなく、ただ、全面的な賛成も多そうには見えなかった。携帯電話のモニターとビールケースに乗った男性をいそがしく見比べて、過激さを増す罵り合いに愉しく耳をかたむけつつ、どうにか今日の目途がつきそうだったのでほっと一息ついた。
 男は、ほとんど賛同を得られていないのに悪びれる様子もなく胸を張る。堂々とした体格にツヤのある黒髪は量が多く、真ん中できれいに分けていて、長い部分はナチュラルにうしろへ流している。太い眉毛がおおきな瞳にべったりと寝そべり、親しみやすい印象を与えた。休日のせいか人妻は捕まらなかった。二十代の看護師、三十代前半の売れない劇団員、この調子でいけば女子高生とも約束を取り付けられるかもしれないが厳罰化されている世情のせいもあり、沢渡は腰が引けつつ、嬉しい悩みにひとりきりほくそ笑んだ。
「いかがですか? 皆さん。」
 昂奮がおさまらないらしくまだ整わない呼吸のせいで、小鼻をヒクつかせる。
 幸い、今月は歩合をいつもより多く稼げた。使える枠に、まだ余裕がある。カフェかどこかで小腹でも満たすか、前から行ってみたかったラーメン屋の行列に加わるか、それともせっかくだから服でも見てまわろうか、待ち合わせ時間までの過ごし方を考えながら、とりあえず沢渡は歩き出した。微動だにしない人々の塊の隙間を縫い、肩を差し込んで、腕がぶつかり、しかめっ面でふりかえる男とは目を合わさず、ビールケースに乗っている男をなんとなく見上げた。
「ならば。ごく一握りの特権階級のみが私腹を肥やし、身内たちだけが甘い蜜を吸える仕組みを造り出していく、そういう卑しい潮流が出来上がっているのならば。さらにそれを加速させるためには手段を選ばず、国体をやりたい放題で穢していくのならば。」
 大きく胸をふくらませていく。鼻の穴で、薄く開いた口で、肺の底まで空気を吸い込み、止めた。硬く握りしめた拳を尋常じゃないほどにふるわせ、歯を喰いしばり、頬の肉を高く持ち上げる。
 一段身体がふくれ上がった男が、聴衆をねめつけた。
「実力行使といきませんか?」

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