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英雄はうなだれる⑦

 濡れたまま鏡を見つめた。
 洗ったばかりの肌を水滴が流れ落ちていき、すばやい水の玉が途中で停滞する水分を飲み込んで一体となり、一回り身体を大きくして、小さく蛇行しながら顎へと滑り落ちていく。終わりなく洗面台に降り注ぐし、喉仏を舐めもする。雫の一粒が冷たく胸まで伝ってきて、くすぐったく、Tシャツの生地に吸い取られる感覚に浸った。
 濡れたまま鏡を見つめた。
 洗ったばかりなのに、肌の至る所からプツプツと赤い汁が滲み出してきて、どこからともなく赤黒い肉片が生えてきて、中にはなんなのかわからない塊も湧いてきて、ふたたび、顔中を真っ赤に染めなおしていく。慌てて上から下へ掌で拭うと、ただでさえ少なかった素肌の色が微塵も無くなってしまい、ひたいを、眉間も瞼も、頬、鼻、唇、顎までもが、まんべんなく鮮やかな血液で埋め尽くされた。焦り、悲鳴を上げそうになるのを堪えた。
 自分の顔をまともに見ることができず、蛇口から噴き出す水を器にした両方の掌に溜め、勢いよくかぶった。肌にぶつけた。水でこすりまくった。それなのに、どれだけくりかえしてみても洗面台の白い陶器を薄い桃色が彩る。顔から血が滴りつづける。何度でも湧いてきて、いつまでも色は消えない。
 ポンプ式のハンドソープの頭を幾度となく押して泡を出し、顔に塗りたくった。入念になすりつけ、さすがに泡が皮膚に沁み、刺すような痛みが起こりはじめているのに止められず、ずっと顔を洗った。「おい沢渡、おまえいい加減どけよ。さっきからみんな順番を待ってんだぞ。いつまでお肌のお手入れしてんの。」尻を叩かれた。うしろからの声に顔を上げ、ふりかえると二、三人ならんでいて、洗い残しが瞼のなかに流れ込み片目をつむった。案外、沁みた。「ごめん、全然気がつかんかった。どうぞどうぞ。」股で挟んでいたタオルでぬめりを拭き取りながら、洗面台を譲った。
「さては今日結構獲ったな?」
「いや、そうでもないけど。なんで?」
「ニヤついてるから。」
 指摘されて初めて、今の自分の表情を知った。全然自覚していなかったので首をかしげて頬を揉み、もう一度首をかしげた。
 真鍮のノブをまわす掌がぬるついて、握力を強めた。
 真っ先に、壁紙や備品類の表面にこびりついて消えないヤニの異臭が鼻腔に飛び込んでくる。休憩室は着替え終わった同僚が一服し、談笑して、紫煙を鼻の穴から噴き出しつつテレビを眺めていたり、そこかしこで自由にくだを巻いていて、仲間の誰かが拾ってきた安定の悪い折り畳みテーブルの上では、何人かがトランプ麻雀に興じていた。
 半数は名前も知らず、覚えておらず、赤の他人以上敵未満ではなくて、全員が敵以下、時には超過する場合もある存在だ。
 鈍い飴色をしたカウンターの背後にある、造り付けのバックバーが目に飛び込む。元はスナックか、もしくはダイニングバーだったのか。居抜きのままで一切改装もしていない空間はいまだに慣れず、入った瞬間にとても戸惑う。
「電気が切れた。」
 洗面所の真逆に置かれているテレビに正対していた喫煙者のうしろに座ると、画面から目も逸らさないでその男がつぶやいた。一瞬だけ指差した。さっき切れた。見上げた。ハイタワーマンションが視えた。驚き、掌で顔中をこすりまわした。目頭を指先で強く揉み、まだ乾いてない湿り気を感じつつ、脳裡に紡がれていく映像から顔を背けた。天井にも壁にも汚いフローリングにも、室内のどこにもそんな高い建造物はなかった。生臭かった。鉄の味がした。唾を飲み込み、今にも胃液が逆流してきそうな予感に慄いて、掌を見下ろすとヌラヌラした新鮮な血で濡れていた。指紋はなく、皺も見えない。何かの固形物が混ざり、骨の破片がざらついて、照明を浴びてとても艶やかに輝き、しかし瞬きすると鮮やかな色はどこかに消え失せてしまい、普段通りの手相にもどっていた。
「どうしたぁ? コキすぎてシコりダコでもできたか?」
 ふりかえった前の男と目が合った。
「あ、はい。ですね。」
 なんと言われたか聞き取れなかったが、とりあえず合わせておいた。
 等間隔に配置された天井のダウンライトは、この部屋のなかでテレビの上の一個だけが黒いまま沈んでいて、今の今まで意識もしなかったのに突然休憩室を暗く感じた。液晶画面の中、手錠をされた男が歩いてくる。お先に失礼しまぁああああん――じゅう。野太く、きわどくもあって、間延びした退勤の挨拶に呻くような返事が何個も滲み出す。いちいち笑う者はいない。下品をとがめるどころか、意にも介さない。うーい、明日もまんじるまんじる。素っ気なく、誰かがつぶやいた。
 背中を叩かれ、首をひねって斜めうしろを見上げた。「沢渡おまえさぁ、感染症の定期健診どうする? そろそろ国に提出する時期だからみんなに聞いてまわってるとこなんだわ。ちなみに今回から全額自己負担になったんだけど、受診する?」と黒いクリップボードを下っ腹に立てかけた主任の声が落ちてきた。「全額すか。」「おお、悪いけど今回からそうなった。」と器用にペン回しをして、再度、彼に確認をとる。彼は黙った。鼻の頭をつまみ軽くしごいて、水気が失せ今度はカサつきはじめた肌を指先で忙しく掻きながら、頭の中で金勘定をした。「いちお受けときたいとは思うんすけど、でもそもそも必須なんですよね?」ねじった顔に引き寄せられて、上の半身も回転する。「まあ、本当のところをいうと会社としては義務っちゃー義務だから全員に受けてほしいはほしいんだけど、どうにでもなるはなる。」「いくらすか? 念のため。」三本、指が立った。厳しい額だったので割引の交渉をしようとしたが歯牙にもかけてもらえず、乾燥した顔に苛立たしく爪を立てた。「五千円くらいもダメ?」口を閉じ、首をふる。「ならいらねえっす。」「りょうかーい。じゃあとりあえず陰性で書類出しとくからどうぞご自愛ください。森角さんは?」「来たっ!」冴えない眼差しで捨てカードを眺めていた茶髪のひとりが、扇にしたトランプを高く掲げてテーブルに叩きつけた。部屋のあちこちで行われている他愛のない雑談を覆い尽くすくらいの、ロン上がりの絶叫が響き渡った。これ見よがしに役を数え上げ、左の指を折り畳んでいく。役は異常に多く、指が折れるたび周囲の熱が醒めていく。場が白けていく。十三を数えたところで、振り込んだ一人が両掌で顔を覆った。
 受診の意志を直接問われるまで眼前に座り、静かにテレビを観ていた年配の同僚は直立不動で主任に応答した挙句、何回も労いの言葉をかけ、平身低頭し、用紙にボールペンを走らせながら去っていく上司に向けて、一足先に帰宅する旨を礼儀正しすぎる挨拶とともに申し訳なさそうに伝えた。とうに行ったのにまだ体勢は崩さず、媚びを売る。主任に後ろから肩を叩かれ別室に移動していくふたりの顔を一瞬だけ確かめ、閉まるドアの音を肌で聞きつつ、直角に折れ曲がった腰の上からニュースを追った。不精髭を生やし、手錠で両腕を拘束された男は上目遣いで画面をにらんで、すぐにうつむいた。どうやら振り込んだメンツが飛んだらしく、淡々と清算がはじまった。ケツを上げ、後ろポケットから財布を抜く。散らかったトランプの上に万札がぞんざいに投げ込まれる。二本の腕が喜々と伸び、丁寧に一枚一枚拾い上げていく。重ね、印刷された肖像の向きを合わせて、角をそろえる。頭を抱えた長髪の男がうなだれたまま椅子から腰をあげ、天井を仰ぎ見て嘆息し、その空いた席に、うしろで立って観戦していた色白の小太りが俊敏に飛び込んだ。前のめりでぶよぶよにぜい肉がついた真っ白い腕を伸ばして、カードを掻き集めはじめる。
 強盗殺人の容疑。三ヶ月ほど前、港区のハイタワーマンションに住むアメリカ人会社役員の自宅に押し入り、殺害して金品などを盗んだ疑いが持たれているらしく、被害総額は数億円にのぼると神妙な女性の声でアナウンスされた。逮捕された犯人は日本人であること、氏名と年齢のテロップが画面下に表示され、職業、住所はともに不定と表示されていた。
 融和政策に基づき、差別を助長する恐れがあるという観点から、たとえば該当者が日本「国籍」の人物の場合、人種の面は露骨に隠されるし、こういった映像は報道されない。ポン人であればマスコミは容赦なく、その人物のすべてを暴露する。
――監視カメラに残された映像を分析した結果、黒崎容疑者が捜査線上に浮上した模様です。
――なお同様の手口の犯行が一年ほど前から都内近郊で連続して発生しており、そのいくつかの現場で検出された指紋や毛髪のDNAが黒崎容疑者のものと合致したため、警視庁は余罪を追及し、他の事件との関連を慎重に調べているところです。
 肩にかかったフケと一緒にテレビを観た。
「殺っといて容疑否認はねえわなぁ。」
 ソフトの箱からもう一本抜き出す。
「まあそうっすよね。そのつもりで押し入ったんでしょうに。」
 脚を組みつつ、沢渡は同調した。両掌の指を絡めて、左ももの上に載せた右膝を掴んだ。茶色いフィルターでテーブルを叩く音が鼓膜に疼き、変にやかましく感じた。うっとおしくて、つないだ掌をすぐにほどき、定期的な細かい音に向け、頬杖をついた。「負け様ってのがわかってねえ犯罪者はタチが悪いよな。男なら往生際くらいはいさぎよくしねえと。思いっきり開き直っちゃうくらいの大悪党のほうがこっちも見てて清々しいってもんよ。」やっと点いた百円ライターのトロ火が、やけにまぶしく見えた。日焼けした中年の男は暖を取るように顔面を近づけると短く息を吸い、弛んだ頬の肉を人差し指で小突いて煙を吐く。灰色の輪が浮かんだ。ゆらめき、怠惰に漂って宙を昇っていって、白々と灯ったダウンライトに吸い込まれていく。
 黒い窓に、真っ白い太陽が反射した。
 短いクラクションが鳴り、何台かが右から抜いていく。それでもどく気配はなく、三車線の真ん中なのに図々しく停まって後続の栓をしていた。スモークフィルムを明るくくり抜いた円は頂点を同じくした細かい棘を外に向けて無数に放ち、その、ガラス一枚内側には人の陰が淡く透けていた。
 ポリッシャーのタンクに洗浄液を補充する沢渡は、わざわざプランター近くで停車した無神経さにすこし腹が立って、車種もまともに見ずに、腕をまわして移動をうながした。作業前写真もう撮った? 同僚に訊いた。肯く新入りからカメラを受け取り、念のため撮影された画像をチェックする。あのさ、絶対に必要なのは全体がわかる構図と対象のアップだってさっき教えなかったっけ? それにここ! 思いっきり歩行者の顔が映りこんじゃってるから完全にアウトだし、こんなんじゃ提出書類の不備でカウントされないんだよ。大体ブルーシートで目隠しもしてないんだからもっとうまく誤魔化せよな。せっかく働いたのに歩合がつかないの厭だろ? 悪いけど俺は厭なんだよ、タダ働きになんの、そのぶん給料が減んの。だから頼むから脚を引っ張るのだけはやめてくれねえかなぁ。自然と早口になった。できるだけ気分の抑揚を押さえようとすると、よけいに声がうわずった。けれどもこれは若手イジメではなく、実際に、どこに難癖をつけられるかわかったものではないからなのだ。わずかにピントがぼけているだけで瑕疵を指摘され、書面による指導、減額、酷ければその日一日の成果を零にされてしまうことも過去の経験からすれば充分ありうるのだから。
 さっきから車内の端末が他の現場を知らせる着信音を頻繁に鳴らしていて、もうすでに何件も取り逃しているし、普段のペースで動けない現状に焦りが募りつつあって、頭に血が昇りそうになるのをなんとか堪えた。
「おい、花屋。」
「それと君、ゴーグルしてきたほうがいいよ。事前に説明があったと思うけどたまに血が跳んで目に入ったりするからさ。変な病気とかもらったりしたらイヤだろ? ネットでもホームセンターでもどこでもいいから買って来いって会社から言われなかった? 持ってきた? いや、水泳のでも別に悪くはないけどさ、恥ずかしくないか?」
 普段と変わらない外野の厭味を無視し、小走りでハイエースにもどっていく背中をやるせなく目で追った。誰かの喉が長く鳴り響く。歩道側からガードパイプに近づいてくると、近くに、黄緑の痰が落ちた。増殖しようとしているアメーバみたいな物体を一瞬だけ見、はたして今度の彼は長続きするだろうか、単にそう思った。
「じゃあ今日は俺の貸すよ。バッグにもう一個予備が入ってるからさ、勝手に開けていいから持ってきな。はぁ? うちの会社なんかが支給してくれるわけないじゃん、自腹だよ。うちなんか零細なんだから自分の身は自分で守んないといざという時痛い目見るのは君だからな。」
 準備の悪い助手に、今更気分を害することもなかった。勘は鈍いが指示通り素直に従うので使い勝手がよく、すこし意志を持った道具程度に考え、淡々と掃除を進めた。
 日射しが強く、乾きが速かった。舗装の裏から直火で炙られているかのように染みを黒く縁取り、みるみる干からびていって、普段よりも時間が必要に思った。臭い立ち、鉄の味が口の中にひろがる。日向を、影がえぐった。気配を感じたがヘルメットを深くかぶって応じることもせず、ポリッシャーの操作にふけった。
「あの、前々から僕もこの仕事をやりたいと思ってたんですけど、どうやったら始めれますかね?」
 見上げると、恐縮しきった若者が立っていた。
立て板に水な、同じ科白をもう一度聞かされた。機械のスイッチを切ると泡が低く沈み、弾けるこまかい音を奏でて、街の喧騒が全身にへばりついてきた。
「働きたいなら、求人に応募すればいいでしょ。どこも年中募集かけてんだから。」
 声がこもるのでマスクを下げようとし、つまんで、でも途中でやめた。
「いえ、あなたと同じとこで働きたいと思ってまして。」
「なんで俺の会社なの?」
「だってさっきから見てると仕事ぶりがすっごくマジメで、本気でカッコいいなって感激しちゃったんです。世間の風当たりが強いでしょうけど絶対に必要な職種ですし、尊敬します。難しいですか? こういう具体的じゃない志望動機だと。」
「ダメじゃないけど、きついよ、この仕事は。合わない人だと精神的にもかなりまいるし。成果が出なかったら即肩叩かれちゃうし。」
「辛いのはどの業種も同じですし。だったらどこで働くかくらい自分の意志で決めないんです。まわりからどうこうとかじゃなくて、自分が誇りを持てる仕事に就きたいと前々から思ってたんです。」
実直そうな人柄に照れてしまい、ヘルメットの隙間から頭皮を掻いた。指が脂でぬるぬるした。
「じゃあやる? そこまで言うなら紹介するけど。」
「ウソだバーカ!」
 噴き出し、涎をすすった。
 引っ掛かってやんの。腹を抱え、笑い過ぎて足もとが覚束なく、千鳥足で去っていく。遠くの歩道で仔細を見守っていた薄ら笑いの連れと合流し、肩を軽く殴られ、あちこちから押されて、もみくちゃにされてから野球選手みたいに前腕をぶつけ合った。
 アイツえれえ簡単に騙されんだな。やっぱアホ丸出しじゃん。四方から失笑が洩れ、あからさまな悪口が投げかけられた。あんなんだからああゆうイカれた仕事しかできないんだろとか、いやいや違うよ、あんなんだからああゆうイカれた仕事ができるんだよとか、頭悪りいくせに金の亡者とか体臭が血生臭いとかウジ虫野郎だとかと罵られ、てゆーかおまえらが撃たれて死ねよと、次どっかで会ったら本気で殺すぞとあきらかにケンカをふっかけられもして、こいつらってさ、底辺どころかヒエラルキーにも入れてもらえない人種だよね。じゃねーな、畜種か。境遇が悲劇すぎてかわいそうではあると同情もされ、侮蔑に満ちているかすれた鼻息もとどいた。恥ずかしくて顔全体が紅潮するのを感じ、はらわたが煮え上がってくるのもとめられなかった。いい加減うるっせえな! クソども! 俺らが殺ったわけじゃねえだろうが! こっちはキレイに掃除してやってんだぞ! 声を押し殺して小さく叫んだ。
「おい、花屋。聞こえてんだろ。」
 半開きのスモークフィルムがゆっくりと下がる。
 全身が総毛立ち、思わず奥歯が軋んだ。
「あの、すいませんが仕事中なんで。止めてもらえませんかね、そういうちょっかい出すの。」
 見ずに、声だけ荒げた。
もしも生理的に受け付けない顔立ちだったなら、何をしでかすかわからなかった。
「おいおい、そんなつれないこと言うなよな。俺あってこそのおまえだったじゃねえかよ。」
 必死で流入を抑えていた血液が一気に脳に駆け昇り、耳たぶまであっという間に沸騰してしまって内容は入ってこなかった。ただ単純に、調子のよい軽口がやたらと癪に障った。下まで開け放たれた車窓に向けて、詰め寄った。
「あんたも仕事の邪魔だ。さっさと失せろ。いい歳してそんな簡単なこともわかんねえのか? えれえ幼稚だな。それとも舐めてんのか? こっちは別に失うもんなんかたいしてねえんだぞ。その気なら相手になってやるから売るんだったらもっとわかりやすく売ってこいよ!」
「え? ウソだろ? ちょっと待ってくれよ、そんなこえー目つきしやがって。まるで女に飢えたレイプマンみてえじゃねえかよ。ワタサリちゃん、俺だよ俺、同じ釜の飯を喰った仲じゃねえか。」
 左ハンドルの、ルーフの陰から急いで上半身を乗り出した。目を丸くして自分の顔を指で差しつつ、焦って沢渡をなだめる。
 不精に伸ばしていた襟足は短くなり、整髪料で全体を艶やかに撫でつけていた。妙に清潔で、髭の剃り残しも見当たらない。
 不織布のマスクをつまんで、顎にかけた。こめかみから汗が流れ落ちる。顔の凹凸に合わせて器用に速さを変えながら、唇近くまで伝ってくる。そのわずかな一滴を、その、わずかな一滴だからこそ、彼はすさまじく恥ずかしいと思った。
 平静を装いたくて拭おうとし、寸前でタイベックスの袖を染めた汁に気が付いて、ためらい、よけい惨めに感じられて、だが汗が無性にくすぐったくもあり、我慢できずにまだ白さが残る肩に頬を近づけた。掌をかざし、タナカが顔を背ける。後を追うように、歩道から、携帯電話のシャッター音が何度も鳴った。うつむいたまま、沢渡もマスクを眉間近くまで引っ張り上げた。唾の臭いがした。鉄の味もした。工夫もなく、とうに聞き飽きた罵詈雑言が浴びせられ、規制のために置いたカラーコーンが蹴り飛ばされるのを黙って見過ごし、誰かが鼻で嘲笑うのを聞き流した。
 首をややかたむけ、倒されたかつての商売道具を憐れそうに見送った。
「それにしても気の毒だな、街の美化活動を担っているのに相変わらず目の敵にされてて。さすがに同情するわ。」
「ああ。」
 彼の中で何かが暴発しそうな気配があり、喉だけで応えた。
「まあ、というわけでこれな、おまえさんごときにはちょっと多すぎる額だけど餞別だ。こいつでたまには旨いもんでも喰って場末のおねーちゃんとでもパコれや。」
 左の運転席の窓から突き出された左の腕の先に、裸の、真新しい万札が何枚か挟まれていた。色落ちしまくり水色と化した作業着を着て、行儀悪く蒸れた素足をダッシュボードに投げ出していた頃とは違い、本切羽の、仕立ての良さそうなスーツに身を包んでいた。シャツの第二釦まで外したノーネクタイが、皮肉にも、いや当然に、柄の悪い好戦的な顔立ちによく馴染んでいた。袖からは、宝石で悪趣味に装飾された腕時計がちらつく。
 褐色の肌に、金無垢がよく似合った。
「せっかく久しぶりに会ったんだから、ちょっと手伝ってくれよ。」
知らないうちに、口が勝手に動いていた。頼んでからすぐ、彼は自らの正気を疑った。
 その申し出はより一層自分を卑しく堕としめてしまう言動なのにも関わらず、我慢しようしてもどうしても止められなくて口走ってしまい、小ぎれいな格好を見れば加勢の願い出が通らないのは一目瞭然だったし、だからこそ冗談になるのであって、だからこそ屈服を意味するだろうこともよくわかっていたはずなのに、厚顔無恥に助っ人を依頼することによって雲泥の差が出てしまった立場の違いをわずかであってもぼやかしたかったのかもしれず、悔いや憧れなんか抱いていないという気位の高さを誇示したかったのかもしれず、けれど結局のところ単なる虚勢でしかないだろうし、たとえハリボテの態度で本心を隠してみても、我が道をゆくとばかりに平静をよそおってみようとしても、どうやって足掻いてみたところで所詮は無駄な努力だということは明白なようだった。首をかしげ、苦そうに鼻で嗤うタナカの仕草を見れば、すべてを見透かされているのは痛いほど伝わってきた。
 内在しているもうひとりの沢渡が、歴然とした力関係を敏感に感じ取り、本能で受け入れ、まっさきに媚びを売っていたのかもしれない。
「相方が破滅的に使えないんだよね。何度教えてもポリッシャーを力で操作しようとして、いまだにコツを掴まねえんだわ。」とタナカの返事を待たないで、間を埋めた。「水も使いすぎるしよ。」これ以上惨めになりたくないのに服装の細部まで目で追い、財力の違いを目の当たりにして卑屈に伏せた。「それにしても高そうな服着てるな。羽振りよさそうだけどどうしたんだよ。」「そのスーツどこのブランド? カッコいいな。そういうクラシカルな柄って最近流行ってるよな。」「これ、マジでおまえの車なの? すげえな。カッコいいな。つい最近フルモデルチェンジしたばっかの最新のだろ。知ってる知ってる。」「髪切った?」「短くしたな。」質問しているのにその返しを待とうとはせずになぜか次を問い、目に飛び込んでくる過去との様々な相違を矢継ぎ早に尋ねているのに自分が答えを欲しているわけではないということは、充分に理解していた。さして豊富でもない話題を駆使して、喋る機会を、侮辱する隙を、無能のそしりを受ける時間をつくりたくなくて夢中でまくし立てていた。仕舞には自ら距離を詰め、足もとを飾っているローテクスニーカーのメーカーまで盗み見ていた。セレクトショップでは置かれていないモデルで、どうやらコラボの商品らしく、一流ブランドのロゴが全体に散りばめられている。「そのスニーカーすっげえいいな。限定モデルかなんか?」相手の迷惑も省みず、無神経に車内を覗き込んだ。「ダブルネームかトリプルネームのだよな、世界で千何百足くらいしか販売しなかったっていう。だろ?」「すっげえ争奪戦で上顧客でも買えなかったらしいじゃん。」
 質問しているのに沢渡自身が先に言い当て、相槌をうつ必要すらない当たり前の問いをくりかえした。会話の全部が自己防衛であり、全力の抵抗でもあったのだ。止まらない饒舌にうんざりとする表情をかいま見ると、とんでもなく焦燥に駆られ、さらに相手が気に入りそうな言葉で褒めまくっていた。
「今度、メシでも行こうぜ。」
 視線はもうすでに、元同僚をとらえてはいなかった。つまらなさそうな面持ちを前にすると屈辱がなおも募ってきて、だからこそなけなしの自尊心を守るために核心は隅に追いやっていたのに言葉の端々から憧憬やすさまじい後悔、嫉妬とかの本音がみるみる溢れ出した。引き止めたかったのではなく、世間話にもっと花を咲かせたいわけでもなかった。「えらく出世したんだなぁ、ほんのちょっとの間に。」
 堰を切り、舌に脂がのった。激変した身なりを遠まわしに度々詮索し、何度でも蒸しかえす彼の問いにタナカは決して多くを語らず、掌でおおまかに払うだけで別れの挨拶もそこそこに濃いフィルムが張られたガラスの底に沈んでいく。
 一定の速度で窓フレームが下から黒一色に塗りつぶされていき、厭味にゆがんだ口角が頬の肉を高く持ち上げてニキビの痕に皺を乗せ、シートにふんぞり返ったまま見つめてきて、生気に満ち満ちている、荒波にも容易には屈しそうもない、肌の角質ひとつひとつにまで自信がみなぎっているような浅黒いひたいが、粉々に吹っ飛んだ。視界が真っ赤に染まった。めくれかえった瞼から放り出された眼球がゆるい放物線を描いてみぞおちに当たり、はねかえりもせず作業靴に落ちていって、ゆっくりと離れていくその片目と一瞬だけ視線が合い、全身が凍りつき、残りのひとつの行方は杳として知れない。無意識にさわった顔がぬるついてずるりとすべり、鉄臭く、温かく、胸もとを見下ろしてやっと返り血を浴びたことに気が付いた。体液をびっしょり吸い込んだマスクを剥ぎ取って、急いで唇をぬぐった。顔があった部分から細い血柱が脈を打つ。
 血の海に眼球が浸かり、かすかに揺れていた。
 誰もが音を見上げて発射源を無意識に探し、特には誰もこだわっていないようで、歩く速度は誰一人として落とさない。黒塗りの車体にかこわれた内装は赤黒く濡れ、奥の窓ガラスにも真昼に咲いた花火みたいに盛大に彼が飛び散り、シートから流れ落ちる量はとめどなくて全然尽きる気配がなく、床の血溜まりがいまだにひろがっていく。光沢を放つ。
 撃たれた彼に、気付く者はいなかった。
 生きている、いた、焼けるほどに熱い、採れたての、直の体温を厭というほど顔中で味わった。チクチクと、骨片の硬さを知りもした。所々、しつこく、とがった感触が癒えないままだった。顔がないのに座っていた。まだ自分の惨状に気付いていないらしく、気付く暇がなかったらしく、姿勢を一切崩さないで運転席に悠々と鎮座している。
 肉体のどこかにまだかろうじて生気が遺っているのか、上昇をやめていた窓ガラスが再び動きはじめた。弱々しく、断続的に段階的に、未練がましく焦らすように、痙攣しているかのように、それでいて着々と、黒い水位が増していく。腹から、タイベックスが映し出されていく。濡れている。やがて隙間なく窓は閉ざされてしまい、スモークフィルムの向こうに彼の姿は隠されてしまって、替わりに、笑顔? ガラスに反射する白い日射しと対峙した。
 間接の太陽なのに、とてもまぶしい。
 照明の光を浴びた煙の輪がほつれて、消えた。
 血液の、鉄クズそっくりな臭いだけがいまだ目の前に漂っている。
――なお、調べに対して黒崎容疑者は『仲間に騙された。』と供述している模様で、警視庁はこの供述を享け、複数犯の可能性も視野に入れて裏付け捜査を進めていく方針ですが、黒崎容疑者の発言に曖昧な点も多く、責任能力の有無について専門家による鑑定をおこなう予定です。
 テーブルの上に、一瞬だけ目を落とした。
 刑事にうながされ、ワゴン車の後部座席に乗る瞬間がくりかえされる映像に釘付けになりながら急いでテーブルの上を掌で撫でまわしてリモコンを探し、けれどもプラスティックの、ゴムの配列の、そういうなじみのある感触にいつまでも出会えないので、あきらめて大きくもない音量に耳をそばだてた。そんじゃお先。消え入るくらいの小声を吐き出し中腰になった男が、そばに置いていた財布や家のカギや小物をせわしなくポケットにしまい出した。腕の皮が萎びてハリもなく伸びきり、皮膚の底から湧いた、視界の縁で躍る黒ずんだ灰色の染みをうるさく感じて、男を見上げてにらみつけた。テレビ画面をさえぎる貧相にまるまった障碍が邪魔で仕方がなく、身体をかたむけた。
 早々とニュースは切り変わっていて、自殺率の低下や生活満足度指数や労働活力指数の上昇が厚生労働省から発表されたとあり、清掃業者の業務請負落札価格に異議を唱える若手議員を中心とした勉強会の発足が映像とともに流された。不適切に高額な予定価格を見直すように政府へ請願書を提出する構えなのだと、テレビからの音声はつづいた。「如実にデータが示していますように一定の効果は確実にあるわけで、どっちかというとプラスのほうが断然多いわけで、だからこそより健全な業界へと生まれ変わって欲しいですし、それを実現することによって業界のイメージ向上につながるわけですし、当然そうならなければならない。指摘するまでもなく一概に営利企業と同一視すべきではない仕事ではありまして非常にセンシティブな部分はついてまわりますが、落札実績のずさんな不透明さを鑑みますと、是正は必須かな、そう認識しております。」マイクの前でひとりの議員が公式見解を述べた。
「糞馬鹿野郎がふっざけんなよ、楽してウハウハなのは大企業の元請様だけに決まってるじゃねえか。くされ議員どもが正義の味方ぶりやがって結局なんもわかってねえじゃねえかよ。中抜いてハイサヨナラなのは最大手・だ・け・な・の! お偉いさんのどこのどなたが毎日血にまみれて掃除してんだって言うの。」と帰り支度が途中だった男は首をふった。「オレ間違ったこと言ってるか?」
「ああ、はい。ですね。」とつぶやき、適当にまた合わせた。
「え、何が間違ってるの?」
 相手の動きがとまった。とたんに立腹を肌で感じ、謝罪のつもりでするどく息を吸って、彼は首をふった。
「どこがだよ? おい。」
「別に違いませんけど。」
「じゃあ何が違うの? は? オレ、今ナメられてる?」
「いや、すいません。ないです。俺もその通りだと思います。」
 引き攣った笑みで、彼は詫びた。
「だろ。」
 近くのテーブルでは天和が飛び出し、一団が急激に沸いた。罵声が飛び、唾で湿った舌が鳴る。溜め息が洩れる。都合よく怒りがおさまった白髪まじりの男は、最期に、顔の造りが全部内側にめり込んでしまうほど深い吸引をしてから銀色のスチール皿にタバコを捩じり込んで、勇ましく立ち上がった。
 薄暗い明かりが息で霞んだ。光の棒があらわれ、融けた。
――……法に道路を封鎖したとして威力業務妨害容疑で逮捕された、路上パフォーマンス集団「緋」の実質的リーダーと目されている神崎繭子が釈放されたことを受け、近々大規模な抗議集会が各地で行われるという情報も寄せられており、警視庁は警戒を強めています。同組織は現政権の弱腰を糾弾する目的で結成されたと……
「クッソ女が。勝手にそこら中の道ふさぎやがって仕事の邪魔ったりゃありゃしねえよ、てめえら。さっさと撃たれてくたばっちまえ。」
それとおまえよぉ、あとで電球替えとけ。テレビ画面から目を離せず、今頃渡される、ひそかに独占していたらしいリモコンを気もそぞろに受け取って、顎でだけ挨拶をした。しっかしあれだな、上城主任ももう少しパリッと仕事できねえとお先あぶねえな。さっきの態度、なんだありゃ。クビ候補筆頭だぜ、あんなんじゃ。おまえもそう思うだろ?
 立ちふさがる痩せこけた身体をかわし、テレビを観る。それなのに何を視ているのやら、今日行われたスポーツの結果か、日々の生活に即した実証コーナーなのか、映像はまったく頭に入ってこない。
 一生懸命記憶をたぐりよせ、過去の、幾多の会話を思い起こそうとしていて、もうひとりの彼がそれをなんとか喰い止めようと全力でせめぎ合っていて、それは噴き上がってくる醜悪な感情に飲み込まれてしまう自分が怖かったからであり、だがいかに抵抗してみても心の隙間から滲み出てくるその気持ちにあえなく敗れてしまい、口酸っぱく説いてきたこの世界の本質を、希望を、熱烈な勧誘を唯一の特別扱いを、その後に訪れるという薔薇色の人生を、一語一句を入念に噛み締めていた。
 指示がくりかえされ、適当に肯いた。返事をした。もう一度、させられた。上半身をかがめて白と黒の警察車両に乗り込む容疑者を、脳裡で何度も思い出した。
 目の玉の裏の毛細血管までさらけだし、真っ黒い瞳を回転させて彼から遠ざかっていく。誠実そうにまっすぐ見据えてきて、背け、またにらんできて、見上げ、見下ろしてそっぽを向き、やけにゆっくりと落ちていく。弾みもしない、地面でかすかにゆれる瞳孔が、いつまでも彼を見つめている。

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