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英雄はうなだれる④

 静かなモーターの運動が掌から前腕に伝わってきて、胴体まで震わせてくる。ポリッシャーはハンドルの上げ下げでブラシが左右に首をふり、右か左に傾けるだけで前後進する。慣れれば力は必要なく、こちらの気分に合わせておとなしく付き従ってくれる。
 乳白色が高速でまわり、刺々しいブラシは非常になめらかな残像をつくり出して、タンクから供給される洗浄液を攪拌していく。ブラッシングの感触が心地よい。きめの細かい泡が立つ。回転するブラシの縁に寄り添うように、こんもりした白いクリームの壁が盛り上がり、早々と凝固しかかった血飛沫を飲み込んでいく。到着して花を運び終えたあと、手始めに、真っ赤に染まったアスファルトにポリッシャーをかけながら、混ざり合っていく紅白の色彩を見つめた。
 舗装状態の悪い路面の場合、放水だけでは落ち切らなかった頑固な汚れを磨き落とし、プランターを消毒していく。
 時々、手を借りる。指示を出す。でも彼が作業に集中していると、いつの間にか手持ち無沙汰にあたりをぶらぶらしている始末でどうやら率先して動くという意識もないらしく、戦力として扱うには当分時間がかかりそうな様子だった。とはいえ手取り足取り熱心に教えてもすぐにまた辞めてしまうかもしれないので、指導に本腰を入れる気になれないでいる。
 過去には、昼休みに入りコンビニへ行くと彼に告げたまま、いまだに休憩中の輩もいた。もしそうなればまたイチから教え直しなので、せっかく教育した期間が徒労でしかなくなる。その一抹の不安が脳裡によぎるととたんに面倒くさくなり、けれどもできるだけ早く業務を完了させて次のプランターの発生に備えたいという願望もあるので、焦り、いやらしく働きぶりを採点し、ちょっとでも筋が悪ければ今すぐにでも辞めて欲しくもなるし、理不尽な苛立ちも芽生えてきてしまう。「写真を撮る準備くらいしろよ。ちょっと頭使えば最期に何するかくらい想像つくだろ?」「これで今日はあがりすか? 仕事。」「ここが終わったらまたどこかで起きるまでドライブだよ。それにまだ午前中だろうが。」最近一緒にコンビを組むようになった新人に、声を荒げた。「あー、ごめん。それと優先事項がまだあった。愉しいドライブの前に病院に持ってかないといかんわ、これ。本当はしばらく近辺をまわりたいとこだけどこっから一番近い指定病院までちょっと距離あるから、念のため直行しとく。清掃終了してから検査を受けるまでの制限時間が決められてるからさ。」「あれ、そうでしたっけ? 僕の記憶だと確か『すみやかに』だったような。具体的なリミットは記載されてなかった気がするんすけど。」と顎をつまんで、首をかしげる。段取りが悪く、勘も鈍くて、やる気もなさそうなのにマニュアルはちゃんと読みこんでいる意外な真面目さに好感を持ち、それなのに、ためらいもなく先輩の言葉尻を捕らえてくる生意気な性格がすこし鼻についた。「わかってねえなぁ。厭味言われんだよ、遅かったら。サイアクペナルティ喰らうしな。検査官の機嫌が悪けりゃノッカンにされたり、ひどいときは業務停止処分をくだされたりな。『すみやかに』って曖昧に書いておけば向こうさんの気分次第でいくらでも後出しジャンケンできるんだよ。あっちの常套手段だ、覚えとけ、この世間知らずが。」必要以上に罵った。
 結局、通常よりもかなり時間がかかってしまい、妙に足腰に疲れが溜まった。会話もなく街並に車を流して、端末のあらたな受信をひたすらに待つ。予定到着時刻の設定を大幅にみじかくしたから、実益に乏しいアラームが鳴ることは格段に減り、今までよりもよけい車内は静かに感じられた。
 環状道路に合流して、曜日や時間帯を鑑みて進む方角を考える。けれど迷う。決まらない。何年もこの仕事に関わっていれば、一応起こりやすいエリアは頭に入っているが法則はなく、予想を当てるのは難しい。
 選んだ車線に意図はなかった。ハイタワーマンションの引力に吸い寄せられ、べったりと依存してしまい、左折をいつまでもくりかえし円周上をまわった。信号で止まるたび端末に指を伸ばした。地図の縮尺を変える、画面に映した通知設定条件に疑いを持つ。何をいじっても気休めにもならず、いつまで経っても会社が更新してくれない古すぎる機材を憎らしく思い、本当に洩れなく受信できているのか心配になる。
 乾いた発砲音が轟いた。
 どこかのコンクリートに命中したようで、かすかな落下音を駄目押しした。砕けたあとの音のない音が目には視えない余韻と絡み合う。
 神経質そうに、肉の薄い鼻をしたひとりの女性が瞼を丸くひん剥いてふりかえり、ちょうど視線が合った沢渡に眉間を険しくした。そこからでは光が反射して見えにくいのか、忙しなく角度を変えて覗き込んでくるその眼差しにはまるで逆鱗にでもふれたかのような激情が灯っていて、街に木霊する騒々しい射撃音も反響して長引く空気の振動も、絶えず悩まされているのかもしれない耳鳴りも度々起こる街の器物損壊も、それどころか今までに出た犠牲のすべてが、一向に充実しない彼女の私生活もふくめて一切合切が沢渡に原因があるように、そもそも彼がこの世に存在していること自体が認められないみたいに、世界の不協が全部彼の責任であるかのように、獰猛な野生動物みたいににらみつけてきた。「今気付いたんだけどさ、音が鳴った時っていっつも近くにこいつらがいるような気がする。」「どうせいつどこで起きるか事前にわかってるんでしょ。」「てゆーか最初っからつながってるんだろ、手下みたいな感じで。」「マッチポンプだろ。」「俺らの税金がまんまこいつらの懐に流れてるんだってば。あの業界は年収一千万くらいザラにいるって言うしな。」なぜかこんな時彼は、一言たりとも聞きたくもない誹謗のはずなのに耳を澄まし、話す内容すべてを知りたくなってしまう。よく聞き取れなくても断片的にとどいた言葉の数々を彼の中でつなぎ合わせ、補い合わせて、たとえ実際のところがさだかではなくても自分で自分を批判する材料をひねり出し、結局は自省とか自己嫌悪とかにたどりつく。バーカ。ポカンと緩慢にひろがった唇の動きでたやすく言葉が読めてしまって、溜め息が洩れた。けれども呆けた表情で素通りしていく人々も少なからずいるし、窓を開けてない車内にまでささいな会話が伝わってくるはずもないのだから、本当の声の出処は彼自身なのかもしれないとも思う。
 全員からの発見を怖れて顔を伏せ、なかなか変わらない信号をせわしなく見上げた。間髪入れず、憎悪の表情がフロントガラスから透けて見えた。ひとりの長い注目を潮に、次々と加わってくる視線の習性にいつも例外はなく、みるみる動悸は高まり、落ち着かず鼻の頭を掻きむしり、首のまわりを摩りまくって気を紛らわして、早く青に変わってほしいと彼は願う。今すぐにでも、アクセルを床まで踏み込んでしまいたい衝動に駆られる。だらしなく助手席の足もとに潜り込んでいた新人が窓の底から外の様子をこっそりと窺い、ようやくシートに起きあがった。それからもまだ前かがみを崩さず、ガラス窓を避けつづける。「んなにビビらなくても大丈夫だよ。」歩道に注意を払いながら、吐き捨てるように沢渡は言った。慣れた彼からしたらそんな確率が低い危険よりも凝り固まっていく敵意のほうが堪えがたかった。
 弾丸の速度は音速をゆうに超える。ライフルから放たれた弾丸は自らを押し出した爆裂音をあっという間に置き去りにして、標的を撃ち抜いてしまう。狙われた本人であれば頭を吹き飛ばされたあとに、銃声が耳にとどくのだ。だから裏をかえせば、音がちゃんと聞こえた時点で、一応、死んではいないのだ。
「いやそういう難しいんじゃなくてっすね、こんな仕事をしてるのあんま人に見られたくないなって思ったんで。親とか友達にも内緒にしてるから、画像とか撮られて流出させられちゃったら面倒そうだし。」とシートで身を低くした若い同僚はバツが悪そうに笑った。「べつにあんなの毎日みんな聞いてるじゃないすか。」
 醒めたその一言を最後に、会話が途切れた。
 無言のまま、長年培った勘という奴を頼りにポイントを換えた。マンションから遠すぎないように、そして一棟だけに近くなりすぎないように注意して、いざという時即座に駆け付けられるエリアをできるだけひろく取った。ライバルとすれ違い、今日の成績に思いを巡らせる。都心を走りつづけ、間隔的に前方の巨大な交差点で足止めを喰らうのがわかったので、左から真ん中に車線を移した。
 真正面には、堆いハイタワーマンションの頂上がはるか上空に霞んで見えた。
 熟練の玄人たちが挑む長さではなく、それでいて難度が低いわけではないので命中させれば仲間たちに一定の腕前を証明できるまさにスウィートスポットであり、見事的を射抜いた時の充実感は申し分ないはずだ。適度な距離感に期待を抱く。いろいろと間が悪く三日つづけてボウズだったので、晴れている今日は、最低でももう一件は絶対に確保しておきたいのが本音だった。
 これ以上成績を落とすと、夜勤に回されるかもしれない。暗くなれば弾の雨は多くなるけれど、視界は明確ではないし酒を呑んでいたりもするから金にならない怪我人が出るだけで、昼と比べて一層獲りにくくなる。この配置異動は死活問題であり、クビを切られる前の既定路線でもある。
 反対車線をハイエースが走り抜けていく。サイドミラーでも、頭の上のミラーでも後を追えず、ふりかえって行き先をうかがった。同業者の車は車体横に免許番号が書かれているので一目瞭然で、最近では見かける数も少なくない。赤のあとに点灯した矢印に従って右折していくワックスの効いたハイエースを眺め、最新の機種だけが近くでの発生を拾っているのではないかと心配になる。コンビニの陰に隠れるまで見ていた。
 温度差に腹が立つ。本気で稼ぐ姿勢がないのなら、なおさら必要ない。ドライブの時間になるとスマホで遊びだす神経にいい加減頭に来てしまい、感情にまかせて怒鳴りたくなったが、こんな奴でも辞められたら困るので我慢した。
「誰かから連絡? 急用かなんか?」
 さりげなく諭した。
「いや、今ハマってんすよね、このゲーム。」
 スマホから目を離さず、答えた。
「あのよぉ、こんなこと当たり前すぎるから口にするだけで舌ベロが腐っちまいそうだから厭だけどよ、マジで信用できる野郎しか集めてねえ。」
 あの時のタナカも沢渡のほうを見もしないで、景色を眺めながら言った。憎まれ口ばかり叩いてきたから照れ隠しだったのかもしれないが、窓ガラスに因縁でも吹っかけているみたいに荒々しい口調で、沢渡の人柄を褒めた。
感慨深く聞いたがやはり縁のない話に感じ、なかなか信号が青に変わらず、どうやら近くでイベントが開催されていたらしくて、繁華街でもないのにやけに多い歩行者をわずらわしく思っていた。車体に記載を義務付けられている『公道廃棄物収集運搬車』という文字を見つけられたらひとたまりもないのに往生際悪く、なるべく目立たないように、ハンドルの高さまでゆっくりと視線を落とした。針の筵が厭で、逃げ込む先などどこにもないのに身体をできるだけ小さくし、隣のずいぶん気分が高揚している相棒は、敵意を常に内在しているその周囲にかまうことなく饒舌に話しつづけた。乾いた音がかなり遠くで糸を引く。敏感な端末が瞬時に反応し、モニターの地図上に一滴光らせはじめた。「メンバーの国籍とかが気になってるんなら大丈夫だ。他に信頼できるのがいねえからポン人はおまえだけだけど、バラエティーにとんでるから派閥なんかできねえ。俺がさせねえ。」喋りながら手を伸ばして無機質な女性のアナウンスのボリュームを数メモリ下げ、残りを掻き消すくらいの声量で沢渡が抱いていそうな不安を解消しようとする。「みんなにおまえのこと話したら、全員大歓迎だったぜ。」「おまえ以外のポン人とは組めねえ。それが俺の結論だ。」快諾するわけでもなく、唇を唾で湿らせた。
発狂の水位が増していき突如決壊するかのように、音の所在がまるで彼らであるかのように、歩道を歩く人々から罵声を投げかけられた。かざされる携帯電話から顔を背け、さりげなく挙げた掌で撮影をさえぎった。普段なら窓を開けてすぐさま応戦する血の気が多い同僚は会話に夢中らしくまったく気付きもしなかった。いや、そうではなく、ふんぞり返っている不遜なその表情からすると、あえて無視していたのかもしれない。とにかく脇目もふらず、熱っぽくタナカは話をつづけた。一緒にやらないかと、沢渡をしつこく誘った。
 左にある民家の、鼠色をしたブロック塀の一部が砕けているのを見つけ、長年の風雨のせいで退色してしまった表面から覗く真新しい内側がやけに白く感じた。熱心な勧誘に上の空で相槌を打ちながら反対側に目を凝らし、安普請のトタン屋根の上から突き出している二棟のハイタワーマンションの数を、何度でもくりかえし数えていた。
 また、鳴った。おそらく近い。
「前もちくっと話しただろ。仲間にマンションの工事を請け負った奴が居るから中の構造もセキュリティも全部丸裸なんだわ。資料は全部手もとにそろってる。監視カメラの死角を把握してるからアシはつかねえ。なんなら根っこからキャンセルできるかもしんねえし、ログインできりゃフェイクの映像にすり替えれるかもしんねえ。これはまだわからないけど、マスターキーが手に入ればメインの電源から落とせるからそうとなりゃ楽勝だわ。」
「おまえ、早く場所確認しろや。」
 プランターの詳細をやかましく通知する端末を顎でしゃくった。あえてモニターから視線を逸らし、催促した。
「こんだけ監視カメラが張り巡らされた街だって見つけてもらえない可哀想な死体がたまにはいるんだしよ、まだいくらでも盲点はあるんだから絶対の防犯なんてねえんだって!」
 切り替えるべき時なのにそれでも仕事に身が入らない相棒の態度が頭に来て、ホルダーから端末を抜き出し、画面を相手の前に突き出した。右手だけでハンドルをにぎり目標とするべき方角の見当がつかないまま、車を直進させる。
「どこだよ?」
横目でいそがしくタナカを牽制し、沢渡は訊いた。
「獲られちまうぞ。」
 喋りは止まらなかった。右脚のくるぶしを左の膝に乗せ四の字に大きく脚を組み、片手間で端末をいじりながら、マジでやろうぜと、こんなド底辺の花屋で一生終えるつもりなのかと、でかいヤマだから誰彼かまわず誘ってるわけじゃないのだと沢渡を高く買い、執拗に口説いてきた。
 沢渡に野心がないわけではない。情けなく諦観している彼にだって年齢相応の欲は備わっていて、当然金ならいくらあっても大歓迎だった。だが無意識に立ち止まってしまい、一歩踏み出せない。
 移民の彼らが持つ、後先を考えない反射神経みたいな行動力に憧れもした。成功だけを強く信じる意志や楽観、とりあえず実行に移してしまえる向こう見ずな情熱がうらやましかった。怖い。億劫。現実味がない。成功を想像できない。違法。収監。前科者。理由は、言い訳は、とめどなく溢れ出る。仕事が終わり、オンラインゲームに没入して、曜日によっては楽しみにしていたお笑い番組にかぶりつき、気ままに爆笑していれば毎日が過ぎていく。明日が来る。明日が来る。一日が終わる。その変化のないくりかえしに、沢渡は特に不満を募らせてはいなかった。というよりも、不満を感じる感性がすでに衰えているのかもしれない。
 何人たりとも踏み荒らしていない新雪のように、赤黒い膜が車道を覆っていた。
「おー、ラッキーラッキー。まだ誰も来てない。さっさと始めようぜ。」
元をたどると、街路樹の根元で倒れている。徐々に近づくにつれさっきまでの表面の美しさは失せていき、無残に踏み荒らしたタイヤの轍が鮮明になってくる。到着は早かったのに、道路は躊躇のない直線や直前でかわそうとして往生際悪くのたうった曲線やらで散らかっていて、運転手の性格が如実に見て取れた。染みの痕は長く遠くまで伸びており、清掃範囲が存外にひろくて、殊の外厄介な現場だった。
 プランターを追い越し、路肩に寄せた。
「使い捨てにされんだぞ。」
 言いながら、タナカがバッグドアを開ける。直後に、今まで車内にいたため知らないうちに慣れ親しんでいた死臭が鼻をついた。思わず息を止めた。口からだけ空気を吸う。こういう瞬間にだけ、自らの仕事の浮世離れ加減を再認識させられる。
 嘔吐きを紛らわしたくて放射状にねっとりと咲いた花びらを一瞥し、必要になりそうな道具を考える。淡々と普段通りに行おうと努める。それなのに、アスファルトは一面が紅の濃淡でしかないのに、まるで極彩色のようにギラギラと彼の視界を刺激してきた。
 眩しさから逃げ、側溝あたりに落ちていたトートバッグを荷台へ投げ込んだ。
 顔を上げると薄暗い車中でフロントガラスだけが陽を一身に浴び、黄色く染まっていた。改めてうしろから離れて眺めると塵一粒一粒に光が反射して今まで気が付かなかった汚れまで浮き上がらせていて、先の景色は霜降りがかってしまいよく見えず、ワイパーが遺した水アカの円弧が一際よく目立っていた。密室に見えた。洞窟に思えた。見慣れているはずのスチール棚も小道具もカラーコーンもポリッシャーも、プラスティック製の簡易ベッドでさえもじめじめした湿気で腐っているかに見えた。
 無数にある仕事のひとつでしかないのに、他の誰とも違いはないはずなのにその間には深い溝が刻み込まれていて、今更引き返すこともできない闇に飲み込まれてしまったようで、彼らだけが世界から隔離されているかのようだった。出口のない空洞に思えた。
 フロントガラス越しに蔑視が喰らわされる。辺鄙な場所なのにたまたま通りかかった二十歳前くらいのあきらかに年下の男が、おおきく瞼と口をひろげて、斜め掛けしたショルダーバッグから何かを取り出そうとする。とっさに下を向き、車内の窓枠付近についていた錆びなのか血液なのかもはっきりしない、カビのような赤黒いこびりつきからも目を逸らした。
 肩に拳を受けた。飛びあがってしまうほど驚いた。唐突すぎて全身がこわばってしまい理由も尋ねられなくて、掌の甲に浮き上がった血管の青さをいまさらながらに知って隆起した太さを目算で推し測ってから、やっと相棒の顔に向けて目を白黒させた。罵声に備えた。怯えた。待った。けれども怒号は起きないので気弱な自分を勘づかれなかったみたいだからひそかに安心すると、打撃の離れ際に作業着の襟元をつかまれて強引に引っ張り出され、前後にゆすられた。観念した。せっかく激しい非難に腹を括ったのに首をねじらせて、後ろをふりかえる。「お兄ちゃんさぁ、独りでそんなとこいると拉致られた時に助けも呼べねえよ。」右の握力は弛めず、街路樹の影から隠し撮りしようとしている青年を脅しつけ、追い払った。
 硬い拳が、何度も鎖骨を打つ。
 なすがまま、喰らいつづけた。
「本気で考えろ。一生働いても稼げない大金が簡単に掴めるんだぞ。一人頭、二生分くらいは軽くいく。保証する。なんなら、状況によっては他にもいくつか狙うから三は硬いかもしんねえ。そっからいくらでも好きなように展開できんだぞ。趣味でバーでも開く。会社を興す。もう働くのはうんざりなんだったら海外で死ぬまで遊んで暮らす。なんだっていい、都会暮らしに息が詰まるんなら田舎に引っ込んだってかまわねえ。素敵じゃねえか、そういうのも。あとはそれぞれ好き勝手にすればいいじゃねえか。ほんの一時だけのチームなんだからよ。終わりゃ永久に会わねえよ。こういう後腐れのなさが逆に利点なんだよ、目くらましになるんだよ、逆にアシがつかねえんだって。これのどこに損があるんだよ。どっかに盲点があるんだったら逆に教えてくれ、計画を練り直すから。」
 瞼を剥いた眼光が彼をにらんだ。
「かもしれんけどな。」
 街の、どこかの壊れる音だけが聞こえた。多分、とても近くに弾が降った。
 突然の咆哮にエラを肩までめり込ませたタナカが空を仰ぎ見て、短い髪の毛を掻きむしった。ウロウロとあたりをうろつき、いまいましそうに朽ちたガードレールを前蹴りした。一発でもどってきて、タイベックスに手足を通す。手早くマスクを着け、血走った瞳の上に、フレームまで透明なゴーグルを重ねた。擦れた細かい傷がプラスティックのレンズに数えきれないほどひろがっていて、曇りが激しい。
「さすがのおまえも信じてねえとは思うけどよ、花屋のユニフォーム着てりゃ安全だなんてねえからな。そんなの会社の体のいい建前なことくらいわかってんだろ? なんにも守られてねえんだよ、最低限の身分の保障すらもされてねえの。死んだら死んだでもみ消されるだろうし怪我したってどうせ自己責任で済まされんの。何に引っ掛かってるか知らねえけどあんなクソ会社に義理立てることなんかなんもねえぞ、恩なんか感じる必要なんかないんだよ。誰かが撃たれた現場に来るんだから、そこで掃除してる俺たちだって恰好の標的じゃねえか。わかるだろ?」
 瞬きもせず、決断を迫ってきた。手もとも見ずに参加を強いてきて、喋りながら乳色をした薄っぺらいゴム手袋に左の掌を差し込む。指を先までこわばらせ、逆の手でゴムを力一杯下に引っ張り、親の仇というくらい左腕を突きあげて中から肌の色を透けさせた。怒気がふんだんにまぶされた物言いなのにテキパキと身支度をととのえていく様は、腕の立つ外科医みたいで冗談に近かった。
 この仕事をはじめたばかりの頃は生前の容姿を想像したり送っていた人生を勝手に思い描いてみたりしていたが、最近では感覚もすっかり麻痺し、単なる飯のタネ、給料の原資、あまつさえいえばできるだけたくさん死んで欲しいとすら願っている体たらくだ。大金持ちの到底納得できない戯れなのだけれど、必要経費だって彼らにしてみたら微々たる額なのだろうから、もうすこし還元してくれてもバチは当たらないはずだと高を括っている。日々怠けず、もっと射撃に精を出して欲しいとさえ願っている。
 ベッドでの寝姿を見ると、薄着の上から肢体が強調されていた。乱れたスカートの裾から健康的な太ももがちらつき、悩ましく品を造った四肢にかすかな生を感じつつも、こぼれないようにレジ袋をかぶせた頭部を直視することはできなかった。
 硬くなる前の脂肪は横に流れる。
 やわらかい乳房が脳裡に蘇る。
 待ち合わせ場所にあらわれた女は安っぽいファストファッションに全身を包んでいて、初対面の彼に警戒心もなく、彼自身が心配になるほどのお人よしだった。同居していた友達に散々な目に遭わされたと嘆いた。上手いこと利用されちゃいましたよね。金額は三桁行きますよね、実際。聞いてもいない身の上話を饒舌に語り出して、恭しく対価を受け取り、今会ったばかりの男の前で裸になった。滞納分の家賃を全額彼女が支払い、彼女は彼女で職場からかなり離れた街に格安の物件を見つけ、なんとかホームレスはまぬれたのだと胸を撫でおろした。彼は自業自得だと感じつつも聞けば聞くほど不運な境遇に同情してしまい、正直な性格にもすごく好意を抱いたのに、それでも約束の額しか渡さなかった。
 今ここに、居るのではなく、ある。この肉体から抜けたとすれば魂なのか、もっと科学的な生命の根源的な何かか、意識を喪失してしまったせいなのか、平均的な大きさであってもいつもやけに重たくて、どんなに要領よく運ぼうとしても純白のタイベックスが赤黒く、斑に濡れた。ゴム手袋を裏返してはずし、バケツめがけて下手で放った。毎回この過程が一番骨が折れる。重ね着のせいもあり、首筋から汗がにじみ出てきた。沢渡はこれからの手順を考え、仕事の割り振りを同僚と打ち合わせようかと思ったが、なんとなく口をつぐんだ。
 説得に耳を貸しながらタイベックスのファスナーを下げ、作業着の襟を前後に揺らした。上昇しはじめた気温にも関わらず、涼しい風が下腹部近くまで吹き込んでくる。胸元に滞留していた気化した汗と入れ替わる。一息ついて見渡すと、道路には飛び散った中身が点々と小山を造り、薄く長く引き伸ばされた花びらはとても気が早く、所々凝固しかかっていて、立体的な箇所も多くあり、今頃になって鉄臭い異臭が鼻腔をくすぐってきた。
 襲ってくる臭いを本能がふさごうとして、過敏に腕が跳ね上がった。寸前でこらえ、掌で髭の剃り跡を撫でるふりをして鼻をおさえた。勤めるようになって半年を過ぎたあたりからこんな生理現象は永らく起こらなくなっていたのになぜか急激に胃から澱が昇ってきてしまい、吐き気を催した。ひとりきり、醜態を恥じた。酸っぱくて苦い汁を唾と一緒に腹の中に押しもどす。気後れを悟られたくなくて、弱みを握られたくなくて、軽んじられるなんてまっぴら御免で、おおげさに咳込み、腹に目一杯力をこめて必死で耐えた。
「これだけ誘っても厭ならそれはそれで構わねえけど、おまえにあんま乱暴なことは言いたかねえから察しろよ。ワタサリわかるよな、ここまで聞いといてつまらん動きだけはすんなよ。」
 床のトートバッグを引き寄せつつ、ふりかえる。
「沢渡だ。」
「どっちでもいいよ、んなもん。」
 臆面もない手つきで所持品を物色しながら、タナカが上目遣いで見つめてくる。醒めた、濁った、見透かす、ひどく厭味な目の玉、頬のニキビ痕。すぐに黒い瞳を落とし、財布から運転免許証を抜き取った。なんだよクッソ! まあまあカワイイじゃねえかバカヤロウ! てめえ死ぬ前に一発中出しさせとけや、もったいねえ。横目で覗いた沢渡は、視界に飛び込んだ顔写真から顔を背けた。
 さりげなく歩道との間に入り、壁となる。知られないように注意する。命令されてもいないのに率先して見張り役を買って出るのは身内の不祥事を怖れての行動なのか、あるいはタナカの軍門に下ったのか、わからない。
「別に誰にもバラさないし、そもそも俺が何言ったって世間は聴く耳なんか持たないだろ。」
 あらかじめベッドに敷いてある死体袋にはまだおさめず、スカートをめくり上げ、股の間に顔を潜り込ませていくタナカにつぶやいた。
「花屋だしな。」生地で遮られた、ややこもった声色がとどく。Aラインのスカートの中で何か力仕事をしているようで、ときおり、太ももの付け根まで素肌がちらつく。
「ああ。どうせ俺らなんか脳ミソに花が咲いてると思われてんだよ、まさにな。だから何を喚こうが真に受けちゃくれねえだろ。」
「何寝言ほざいてんだよ。違うだろ。」ふりむいた鼻梁がかろうじて布で象られ、スカートが顔のかたちにでこぼことふくらんだかと思うと、再び腰をかがめる。「おっも! ちったあ自分でケツあげろや。」
「なにが?」
 沢渡自身、どちらのことを尋ねているのかよくわからなかった。
 鑑賞を終え、何かを済まし、スカートの生地に髪の毛をすべらせながら頭を抜いた。若干、頬の先が上気し、鼻息が荒い。片方の掌には、脱がしたパンツが握られている。
「それワタサリだけな。俺らじゃなくて。」
 大まかに舌なめずりし、口の周りの唾をタイベックスで拭った。
「なにが?」
「頭ん中パッパラパーなのはてめえだけってこと。」
 筋肉質な肩を緩慢に震わせて、タナカが嗤った。おつむの弱いあなたなんかと一緒にしないでくださーい。
 うるせえよ。蚊が鳴くくらいか細くつぶやいた。
「てかどうでもいいけどよ、ちっと死体くせえくらいでいちいち嘔吐いてんじゃねえぞ。何年この仕事やってんだ、腰抜け野郎が。さっきのクソガキごときにもビビってるからいつまで経ってもうだつが上がらねえだよ。ボケてんだったら、眠気覚ましにその顔面ごとゴーグル叩き割ってやろうか?」
 唇を下品に剥き、低く呻いた。
 沢渡は反論したくて、何かを、感情に任せた悪態でもいいから何かを言い返したかったのに何も閃かなくて思考は真っ白いままだった。言い分が多すぎて口が全然ついてこないようでもあり、誇大妄想を抱いた馬鹿と同じ土俵に上がるという空しさを嫌って自重したようでもあって、しかしそのどれも近くて遠く、自分自身でもなぜか理由を特定できずに気が付けばおとなしく肯いていた。謝っていた。
 下着を脇にはさみ、あたりの視線を警戒しながらすばやく札の枚数を数え、自分の取り分を二つ折りにしてタイベックスの下に穿いているズボンのポケットにねじ込んで、残りを沢渡の胸に押し当てた。真っ直ぐ、開き切った瞳孔が見据えてきた。平等ではない山分けを指摘することもできずに、おずおずとそれを受け取っ、和太鼓の連打が木霊した。
 信号が青だった。
 突然、喧騒が鼓膜に飛び込んでくる。静かだったはずなのに耳をふさぎたいほどうるさくて、それなのにやたらと懐かしく感じた。全然前が進まず不思議に思い見渡すと、毛羽立った有刺鉄線が交差点を取り囲んでいた。両方の端が、濃い緑のペンキで塗られた、交差点の四隅に設置されている陸の孤島のような巻き込み防止用ガードパイプに巻き付けられている。
 縦も横も、どちらの通行もふさがれた空間に、数十人の男女が立っていた。車の影に消え、再び現れる。中央に集結する。
 皆が皆、柔道着か空手着を思わせる白い出で立ちで、粗野なようですごく装飾的で、どこかタキシードを思わせる上品な光沢を帯びていて、白昼の日射しで艶やかに輝き、テーラードスーツのように個々の肉体の抑揚をなだらかに包み込んでいた。日中のアスファルトの上には似つかわしくない、優美な雰囲気を醸している衣装だった。腰に締めた黒帯だけは無骨な質感が漂っていて、実物の流用に感じる。
 まっすぐに伸びる左右の横断歩道の内側に三個ずつ並べられた和太鼓が、筋骨隆々の腕にしこたま打ち据えられる。
 クラクションが四方から鳴り響き、ブレーキランプが点滅してじわりと車間を詰めだして、どうにか間隙を縫おうと後退をしたりし、塊全体が狭い中を蠢いた。
 たった今得たはずの臨時収入は手もとにはなく、紙幣のなめらかな感触を思い出しつつ、指の腹をこすり合わせた。厭な目覚めをした時のように腹の底で得体の知れない感情が澱んでいて、気分が悪く、無闇に腹が立ってきて、右の窓ガラスに肘打ちを喰らわせた。けれども一発では全然おさまらず、他にも手っ取り早く殴れる場所を探してまわり、助手席に座っている同僚を考え、結局拳を痛める心配もなく一番後腐れがない同じところに肘を何度も叩き込んだ。あからさまに驚き、ちらりと様子見してきた横目のうっとおしさを、クラクションで打ち消した。
 乱打される太鼓の膜音の元、集団が何かを象りはじめた。前の車の虫食いのせいで、そして平面のせいでどんなかたちかは判別できず、唖然として見守っているうちに規則正しく並び終えた。肩幅に合わせて足を置き、一律に自然体でかまえる。キレ良く、高々と腕を突き上げた。
 空を、指差した。
「滅!」
 男女の様々な声色が一音を紡いだ。
 発声。腹の底からの気合。太鼓。性急に、猛烈に、図太いリズムがあたりを支配した。
 いつまで経っても直進できない車が業を煮やしてクラクションを強く鳴らし、すでに一切の遠慮もないほどに長押ししつづけている。それが枯れる頃、音が止み、即座に再び鳴らされる。連射される。連打される。後方からも、遠くの反対車線からも鳴らされる。交差点に音があふれる。あらゆる騒音が絡み合って打ち消し合い、偶然にもハーモニーを奏でて、大体が調和もなくまるでグチャグチャで、けれどもどこかに和太鼓の横隔膜を直接打ち据えてくるような、乱暴に鷲掴みしてくるような、脳髄を直接殴られているみたいな癪に障るほど芯に響いてくる打の中、ときおり縁を叩く間の抜けた音も混ざりあって、メロディのある振動がかろうじて下支えしている。
 踊り狂う。乱舞する。
 徐々に、四角い舞台にひろがっていく。まんべんなく交差点内を満たしだして、しかし密度は均一ではなく、水面が揺らぐかのように移動を重ね、時にはお互いにぶつかったりもし、それでも微塵の躊躇もなく躍りつづける。
 統制の執れた一糸乱れぬ陣形をあえてほぐした集団に事前の振り付けがあるのか、各々が自分勝手に感性のおもむくまま自由演技に没頭しているだけなのか、どちらなのかは全然ここからではさだかでない感じで、車と車の間を見え隠れし、腕や脚をやたらめったら振りまわして、一心不乱に暴れまくっている。ひとりの屈曲な体格が緩急を自在に操り、空手の型で空気を切り裂いていく。
 白い革のシューズはアスファルトに当たるたび、甲高い音色を奏でる。一歩一歩の歩行までが何かを主張してくる。骨太な打音が押し寄せる。二台前の黒いハイエースがさえぎり、その右に停まるランクルが視界をツギハギにする。
「外出て撮りゃいいじゃん。」
 窓を開け、手首を出して録画している後輩に助言した。
「いやっす。撃たれたくないんで。」
 乾いた返事が気に入らない。
 次第に野次馬が野次馬を呼び、大勢に引き寄せられ、前方の両角に建っている十階くらいのビルのエントランス付近には大量の人々が群がりだした。さらに数を増してふくらみ、ハイタワーマンションとの直線上をのぞいた交差点の二辺に雪崩れていく。背中でクラクションを受けているのに悪びれる様子もなく占領し、遅れてきた連中が砂被りの席を求めて長く伸びていって、撮影会のようにスマホを向ける。
 歓声が上がる。訓練された華麗な身のこなしには、拍手を送る。度胸を讃えているのか、それとも蛮勇を茶化しているのかも知れない、煽るような喝采が起こる。
 焦れた最前列の車が前進しようとするが、張り巡らされた鉄の棘のせいであえなく停止する。四つ角に置かれたポールを、男たちが死守する。左端のプリウスが徐行して歩道に侵入し、角で見物している面々をバンパーで押しのけて斜めに進むと、車道にもどって加速していった。釣られたうしろの一台もまねようとするが割れた空間を怠惰な動きで観客が埋めてしまい、次はつづけなかった。窓を開けて身を乗り出し、鉄線をほどこうとしない男に口論をふっかける。
 ハンドルをつかみシートから尻をあげ、首を長くして天井に頭をぶつけた。窓の縁から外の様子を見えるかぎり知ろうとした。
「金稼げねえじゃねえかよ、これじゃ!」
 わざとらしく大声で呻いた。
 両方から挟まれてしまっているのでなす術なく、拳の横でハンドルの真ん中を幾度となく叩いた。でも内心、都市機能が完全に麻痺してしまった状態をいい気味に思い、とっくに花の回収なんかどうでもよくなっていて、憂さ晴らしのつもりで音を加えた。無責任に、賑やかしに一役買った。
クラクションが鳴り響く。
 滅! 滅!
 なぜだか、声が一塊に形をつくる。
 銃声か? 楽器やら怒鳴り声やクラクションやらが四方八方から浴びせかけられている異常な騒音のせいで、鮮明には種類を聞き分けられなかった。でもどこかのどこかが、ほのかに粉を噴いたように感じなくもない。隣の同僚を盗み見ると、意に介す素振りもなかった。密かにサンバイザーを降ろして、頭の位置を低く落とした。
 信号が赤に変わり、右方向へ点灯した矢印が、設定されている時間を消化してただの翳にもどる。この騒動が起きた頃は律儀に回数を数えていたが、もうすでに何回進行を妨げられているのかわからなくなっていた。
 周囲の混乱に見向きもせず、絶えず流動し、踊りながら持ち場を変えていく。太鼓の拍子に合わせ、一斉に咆哮する。短髪の男が躍動し、ダンス経験があるらしい女がやたらと専門的なダンスで髪の毛を振り乱して、とても上手なので魅入っていると、斜め右で停まっている車高の高いランクルの影に消えていく。違う女が頭を振りながら跳ね上がりつつ、現れる。車体同士のわずかな隙間で偶然立ち止まり、本格的に縦ノリをはじめる。跳ぶたび、腕を包んだ白い生地が頬を抱く、巻きつく、舐め上げる。脳ミソの皺がなくなって破裂してしまうほど、頭蓋骨から溢れでてあたりに飛び散ってしまうほど、ヘドバンをつづける。金に近い茶髪をうなじから掻き上げる。純白の衣装が太陽に照らされて、大まかな影の畝をまとい、美しい光を放つ。意思を持つ。プリマドンナのような跳躍が黒いハイエースの天井から飛び出してきて、沈み、左横へと膝硬く走り抜けていく。舞台の左奥に小さく凝縮されていくと、華奢なトウシューズまでをやっと視ることができた。跳んだ。舞った。
 徐々に、全員が移動をはじめる。
 皆が統一された何かに従い、蠢きだした。
 交差点一杯に散らばっていた群衆がじわりじわりと横に縦に歩んでいって、その間も苛烈な舞いは止むことなく、三角形か、矢印か、なんだか先細ったようなかたちになっていって、斜めに連なっているその陣形は、先端へ、頂点へ、誰か一人の元に収束しているようでその人物の姿は車の中からはどうやって首を傾けようとも確認はできず、激化していく騒然には一人たりとも頓着する様子もなく、位置が決まると皆が皆立ち止まってその場で踊りだしはじめて、全身を闊達に太鼓のリズムに載せていった。
鋭い息が発射される。
 和太鼓の旋律は一層速さを増し、さっきまでの緩急は鳴りを潜めてしまって、留まるところを知らないみたいに強烈に鼓面を殴打しまくって一音を線へと近づけていき、意地になったかのように、引っ込みがつかなくなったかのように、発狂でもしてしまったかのようにその集団は膂力を一滴たりとも肉体に遺したくないかのように、骨の髄まで搾り出すかのように、乱舞しつづける。汗で顔や髪の毛が照りを帯びていく。終焉に向け、それなのにそれは新たな始まりのように、一段とリズムを速めていく。
音の粒と粒をつなぎ合わせ、一本の長大な響きを紡ぎ出そうとしているかのように、あたかも時空を打ち壊して歪ませようと企んでいるかのように、無限に打ち鳴らす。
 限界まで音を刻んだ末、腕の筋肉を励起させて、端の男たちがバチを究極に高く振り上げた。とたんに空気が凪ぎ、耳障りだった音も途切れ、時が止まったかのように固唾を飲んでいた。
 振り下ろす、渾身の力で。
 一打。
 同時に、全員が踏みとどまった。
 静寂。
 罵声もない。クラクションも鳴らない。音がない。
 車の間から見える集団の何人かの肩が、大きく上下していた。唾を飲んでいるのか、首筋が波を打つ。
かすかに、スマホのシャッター音が耳にとどく。
 右手。指先。
一斉に、全員が、一点を指し示した。
「殲!」
 晴れた空に、銃声が響き渡った。

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