英雄はうなだれる②-1
点灯している赤いLEDライトをあてもなく、眺めた。まだ頂上へ向かって昇っている最中の太陽の光が斜めに侵入してきて、さっきからしつこく照らされているハンドルはすこし生温かい。
信号はモノを一言も喋らないまま整然と交通整理をし、その細かな光の集合体は昆虫の複眼に似ていて、粒々が表面にめり込んだ甘酸っぱい苺のようでもあり、単なる発光なのに車の流れを押しとどめる見えない壁でもあって、とにかくひたすらに長く待たせる。
都市を取り巻く環状道路は時間帯を問わず込んでいて、様々な車種ですべての車線が埋まり、大衆車やトラック、社用のバンや時々高級な海外の車が、交錯した大通りを左右に走り抜けていく。個々の単色は残像だけ遺して視界に留まり、重なっていき混ざり合い、車道は濁った色でしかない。
別に会話もなく、音楽の趣味も決定的に合わないし、ラジオをつけてもささいな内容が口論のタネになるので何もかかっておらず、エアコンの送風だけでもうるさく感じる。太陽が翳った。フロントガラスに掌が載った。同時に、黒紫色をした飛沫が八方に飛んだ。右横を見ると血走った眼がパワーウインドウに当たるほどくっつき中を覗いていて、呻き、空いた拳で窓を叩いてきて、前方をさえぎっている濡れた掌はすべるにつれ新鮮な赤い体液を伸ばしていく。訴えている内容はたやすく予想がついたが、さりげなく横目で容態をたしかめ、窓は開けずに遠い声を黙殺した。管轄外なんですよねぇ、そういうの。前を向いたままつぶやき、手で払った。
風が吹かない今日は絶好の稼ぎ時だ。数日間愚図ついた天気がつづいていたせいか、空気も普段以上に澄んでいる。この上なく好条件は揃っており、気象にジャマされた鬱屈も積もりに積もっているはずなので、だから義務も見返りもない慈善事業なんかに一分一秒たりとも浪費するつもりはなかった。
信号が変わる間際、サイレンを鳴らした救急車が横道からあらわれ、マイクでそこかしこの車を牽制しつつ交差点のなかに徐行で進入していく。内側から窓をノックし、救急車両を指差してやった。中腰から顔をあげてうらめしそうに眺め、若干脚を迷わせて、だがそうこうするうちに目当ての車はノロノロと横断してしまうと急激に速度をあげて消えてしまった。撃つんならしっかり狙いたまえよ。背もたれを底まで倒した助手席に寝転がったまま緊急を知らせる騒がしい音を目の玉だけで追いながら、タナカが囁いた。「罪ですな。」
徐々に、弛緩した身体がシートに密着していく。運転席の窓ガラスに殴り書いたような太くて紅の線が必死でしがみつき、へつらった媚びをしつこく売られて、速度を弛める気配がまったくないと察するやいなや怨嗟をたっぷり含んだ悪態にとって代わり、窓ガラスを濡らした出血は短く途絶えた。
顎が上がり、首に力を籠めてそれを堪え、うながされるようにじわりと加速させはじめた一塊の自動車の群れに従った。痺れる音を立て洗浄液が噴き上がり、ワイパーが汚れを薄めていく。軋み、二色が混ざった泡は直線になったり桃色の弧も描いたりして、バックミラーを覗くと携帯電話をうまく操れず道路に落としたところがちょうど映りこみ、とたんに肩を抑えながら下へ崩れて枠からあぶれてしまい、鼻面を突き出してミラーの底を探してもそこには当然怪我人はおらず、前方の状況をすばやく一瞥するとフロントガラスがうつくしく透けていた。きれいになった円弧のまわりがまだへばりついている埃で際立ち、ウォッシャー液は汚れを連れてモールから流れ落ちていく。水色に霞んだ遥か遠くの空にハイタワーマンションがぼんやりと浮かびあがる。蜃気楼のように揺らめき、乾いた音がかすかに鼓膜を揺らした。
「遠すぎる。」
敏感に助手席で上半身を震わせたタナカを制した。
感度よく、端末は発生を教えてくれる。ハンドルの左横に、運転席と助手席との間に後付けされた端末が町中に設置された監視カメラから送られてくる情報を受信して、小さな縮尺の地図の中に赤い点滅を表示している。
首だけわずかに起こし、ひたいにおおまかな皺を蓄えて前方を覗き見して、相棒は倒したシートにまた寝転がった。全身を弓なりにさせて万歳し、大アクビをする。欲張りな相棒のせいで受信範囲を最大に設定しているので、到底間に合いもしないエリアであっても端末は逐一報らせてきてしまい、とてもわずらわしい。
都心の主要道路から、やや狭い道へと舵を切った。
「なんか、自殺率の低下に役立ってるらしいな。」そう話題を切り出しつつ、横になったまま腕を前に伸ばす。天井に張り付いたサンバイザーに中指を引っ掛けて、フロントガラスに弾き飛ばした。だが陽の光はあいかわらず燦々と射し込み、彼の寝相をあますところなく照らしつづける。希望通りに出来上がらなかった影に舌打ちし、掌を後頭部にもどした。「なんか今までより死亡事故が身近になったせいで、野生の生存本能が刺激されて生きる活力が湧いているだとか、そういう理由で年々減少してるんだってよ。」
「そうなの?」
「さあ、知らんけど。偶然録画されてた深夜のドキュメンタリー番組でやっとっただけだ。だから批判は短絡的なのだとかお門違いとかなんとか頭いい人がのたまっとったわ。もっともっと総体的に、俯瞰で状況を見つめて判断しなければならないんだとさ。あと、種の保存のスイッチまで入っちゃったらしくて成人男性の精子の量も増加傾向にあるし、そこらじゅうの女どもの子宮がうずいちゃってうずいちゃって、ガキをブチブチ産みまくってるってよ。で、おかげで近年は引きこもりも減って勝手にくたばるのもすくねえし、出生率もめでたく右肩上がりらしいから、功罪とか光と影とかなんかそんなふうに締め括ってたわ、別に知らんけど。」
停留所で客を乗車させていたバスがウインカーを点滅させたので、なんとなく会話の返球はせず、すこし減速し、前の運転手と道を譲り合った。うしろから一気に、エンジンを必要以上にふかして二台を抜き去っていく原付バイクのマナーの悪さが癇に障った。とりあえずその番組に出てる女子アナをさ、うん。マフラーをいじっているのか異常にうるさい走行音をまき散らすくせに速度は全然上がらず、まだバスを完全に追い越せずにいて、目障りで仕方がない。
「フェラ顔に見える箇所で一時停止して、シコったわ。」
「聞いてねえし。」
じれったく、巨体の歩み出しを待った。
ペダルを踏んだ足の裏を若干浮かし、惰性でうしろに張り付く。
「いやいや、こうやって言やあ簡単な作業だと感じちゃうかもしれんけど、これでもなかなか苦労したんだぜ。ベストショットで映像を停めるのにな。いい具合にひょっとこ面になっても肝心の目をつむってたりしててな。射るような眼差しで見つめてくれないと興奮しねえだろ。逆に目力がばっちりなら、今度は唇のかたちがどうもいまいちでさ。結局どこに重きを置くかによるんだろうけど、こういうのって日本語のことわざか格言だかでなんて言うんだっけ?」
「知らんわ、んなの。」
長い肉体がのたうち、身をくねらせて本線に合流し、視界のすべてが四角い車体で占められた。ブレーキに足の裏を密着させた。二台の車間は巨人の吸引がやんだかのように距離が生まれ、ちょうど走ってきた反対車線のバスの運転手が軽く手を挙げ仲間に合図を送り、だが、前の車の反応はこの席からでは窺い知れない。いまだに近場からの受信がない端末のモニターを睨みつつ、エンジンの低い回転音についていく。
右折先の横断歩道を渡る女が途中で脚を止め、ちょうど中央で立ち止まった。
濃紺のパンツスタイルで純白のブロードシャツに身を包み、肩に掛かった黒髪との対比が妙に映えた。毛質は細そうであり、それでいて腰が強そうでもあって、量は豊かで、垂れ落ちたその髪の毛に隠れてしまって絶妙に顔は見えない。視線の方角にはハイタワーマンション。さほど近いとは言えないが、ライフルの有効射程距離は四千から五千メートルあまりもあると言われているし、今日のような穏やかな天気なら、腕が悪くなければ狙えなくもない長さだ。むしろ適度に離れている。異常に至近すぎると達成感や充実感に乏しいらしくて、いまいち食指が動かないのか一定の安全性が担保されており、この仕事に従事している体感からすると、一番危険なのは半径一、二キロ程度のように思える。
だから猟奇的な殺意などではなく、単なる娯楽なのだろう。
距離が近ければ殺人だし罪悪感も多少なりに芽生えるのだろうから二の足を踏むのに、米粒くらいに離れた対象であれば、それは狩りと意味が換わって俄然意欲が増すのかもしれない。
「けどよ、影なんかあるか。マジで良いこと尽くめだろ。」
脚を据え、街並を貫く塔をずっと見つめている。
凛と佇む。
絶好の標的。
アクセルを弛め、ブレーキペダルに足の裏を移動させた。先行するバスから若干離れていつでも曲がれるように徐行ほどに落とし、何年この仕事に携わっていてもまだ遭遇したことのない千載一遇の臨時ボーナスに目を光らせた。ウインカーに指を置いた。車間と横を忙しなく見比べる。決定的瞬間に息を飲んだ。ハンドルの根元から右に伸びた棒を人差し指で軽く叩き、その時を待って、願って呪って、まんじりともせずリズムを刻んだ。交差点を渡り切ってしまう直前で、停止するくらいにスピードを下げ、天に祈りを捧げた。
燦然と輝く光だろうがよ。
女は微動だにせず、目的もさだかではなくて、恐れている様子も怒りの感情も虚無も捨て鉢な気分も、姿勢の良い後ろ姿からは何一つ読み取ることができず、やがて視界の端から退場していった。
「おい、聞いてる?」
「だからなにがだよ。」
雲をつかむような話に虫の居所が悪くなって、彼は声を荒げた。
「あ、ワタサリちゃん、そういえばさ。」
同乗者が急に表情を明るくした。褐色のひたいに目一杯皺を走らせ、人差し指を人の顔に遠慮もなく突きつける。指差すなや。ちょっとさ、ワタサリちゃんを漢の中の漢と見込んで大事な相談があるんだけどさ。横目でわずかな一点と化した指の先をにらみつけ、肘でそれを押しのけた。
「沢渡な。」
「折り入って相談があるんだけどよぉ。」
それに返事もしないで寝そべっているタナカの上を一瞥して再び交錯した幹線道路を左折すると、首都高の屋根で日射しが翳った。若干熱が引け、顔の火照りが和らいだ。当然のこと、今さっきの横断歩道へも急行できるような道筋を予定に入れているので、右側の車線は選ばなかった。すかさず歩道に横付けする可能性も忘れずに通行人を凝視し、いつでも脇道で曲がれるように操作の準備は怠らない。
「ぶっちゃけた話、今の生活に満足してる?」
赤い光が一滴灯った。端末の受信に気が付いた沢渡は、バックミラーすらも見ずに、後続車に構うことなく、車の速度を弛めた。モニターを注視する。涼しい送風が耳元を抜けていき、額の生え際が冷たく感じた。 別の案件だった。やっと、呑気な音声が流れ出す。型が旧いし元々の性能が悪いから、聴覚に訴えるまでの微妙なタイムラグに腹が立つ。とたんに話を中断して、シートを限界まで倒して後頭部で掌を組んでいたタナカが勢いよく起きあがった。遅れて、鋭角に立ち上がったシートが背中を打った。
地図上に現れた小さな点は同心円状に膨張してからほつれて消えると、再び同じ個所で発光する。淡い、檸檬色の一面で点滅をくりかえす。尺度を変える。反応しない。モニターに問答無用で拳を叩き込み、切り替わりの鈍さに折檻を喰らわせた。
拡大して詳しい場所を確認し即座に最短のルートを脳裡で思い描いて、同時に挙がったふたりの雄叫びとともに車線を強引にねじ曲げた。片側三車線の大通りをななめに横断する。運転席の窓を開け、腕を突き出して後続を無理やり制し、うしろからけたたましく鳴らされるクラクションに舌打ちして、知るかボケ! 前を向いたまま怒声を発した。
黄色に変わった信号を、限界まで加速して交差点に進入し、ブレーキを力任せに蹴り込むと二人そろってつんのめり、急いで時計回りにハンドルを切った。タイヤが喚いた。左に、身体が引っ張られる。視界が斜めに傾く。ハンドルで操縦しているのか、吹っ飛ばされないようにしがみついているのかわからない。抜け目なくスモークフィルムで窓を潰した暗い荷台でポリッシャーやらデッキブラシやらが暴れまくり、重苦しく水を貯め込んだポリタンクまでがズレ動きだしている予感がとどいた。派手な音が鳴り響く。助手席ではタナカが車線をふさいでいる先行車を口汚く罵って、俄然目の色を変え、さながらファイター型のボクサーのようにダッシュボードを両方の拳でくりかえし殴りつつ、急げ急げ! オラもっと飛ばせよ! と発狂にも近い催促を彼にぶつけてくる。
突如尻を赤くした車のせいで急激に減速させられて、そろって前に発射されそうになり、ハンドルに顎が触れた沢渡は、ウインカーを光らせもせずに無理やり右へふくらんだ。邪魔だ、糞ボケタクシー! てめえブッ殺すぞ! 窓を開けたタナカが清算している運転席に向けてすかさず怒鳴った。車内を、一気に空気が吹き抜ける。最高に涼しくて、すでに生温かい。やけに静かなエンジンがアクセルの踏み込みに合わせてすこしだけいななき、運転に集中しつつ手探りでスイッチの羅列からひとつを選んで押すと、閉まっていく右横の窓ガラスの隙間から風がするどく飛び込んできて眼球を乾かした。鬱陶しく、沢渡は何度も瞬きをくりかえした。
歩道の左端に赤いカラーコーンが等間隔にならび、間がバーでつながれていた。道路にはハザードを焚いたハイエースが停まっている。歩いているところをほぼ正面から狙われたせいで、普通よりも巾がある歩道なのに大部分を占領していた。
ダッシュボードに、振り上げた拳が落とされた。
部分的に規制された歩道の端を人々が行き交い、特に動揺するそぶりもなく、おとなしく通り抜けていく。彼らよりも早く着いた清掃員が、作業前の写真を撮っていた。おたがいに譲り合わないと通れない歩道のせまさに焦れている男も時々居、対向者が途切れるまで待つことにあからさまに苛立って、不便のすべては悪口となり彼ら清掃員に浴びせかけられる。伏し目がちに準備している男が、地面に顔を向けたまま適当に謝っていた。
運が悪かったと割り切ることができず、速度を落とした。七、八メートルほど間隔を空けて、後ろに停車した。
「あーあ。てめえの運転がトロいから先越されちまったじゃねえか。この分給料減るんだから補填してくれよ。」
助手席の窓を開けながらタナカが喰ってかかってきた。晴れの日の暑い空気が車内にすこしだけ流れ込みはじめ、それはかすかに小便の臭いが混じっていた。遅れて、生臭い。その新鮮な血液の臭いをふんだんに嗅ぎ、だがふたりのどちらともわずかにすら顔をしかめることもなく、舌で口の中をきつく打った。タナカはうらめしそうに逃した現場のほうにうなだれ、ふりむくと目の玉がまだ不満を訴えてきて、掌を外まで伸ばし、残念な結果をこれ見よがしに指し示す。沢渡はシートに深くもたれたまま身じろぎもせず、浅黒くて彫りの深い眼差しを睨みかえした。
「増えないだけだ。減りはしない。」
「アホか、俺に迷惑をかけたことに違いはねえだろ。おまえの運転はやさしいんじゃなくて、お人よしって言うんだ。まわりを蹴散らすくらいもっと攻めろや。そうすりゃ向こうから勝手に道を譲ってくれんだよ。」
「俺だってやってんだろうが、そうやって。それに作業の感じからすると最初っから間に合わなかっただろうが。こいつらもう段取りに入ってんだぞ。運よく近くを流してたんだよ。なんでもかんでも俺のせいにすんな。」
腕をそのまま外側に垂らし、窓ガラスが全開のドアを脇で締めつけ外側から車体を大まかに殴りつづけるタナカに言い返した。頑丈そうな顎を蠢かせて、論駁された彼は緩慢に肯き、ならおまえが運転してても結果は同じだったろと追い打ちをかけるとさらに大きく肯き、こめかみを指の先で何回も小突きながら前方のプランターに視線を移した。ドアが閉まる音だけを残して、彼は外へ出た。
まだ直射日光に慣れない瞳孔を掌のひさしで守りつつ、作業靴代わりの黒ずんだスニーカーのつま先を道路に二回ぶつけて、ふりかえり、助手席の窓から黒目を捻じり込んだ。ちょっと待ってろ。落葉樹が青々と葉を生い茂らせ、歩道に毛羽立った影を落としている。
思い通りには次を受信しない端末を見つめ、前方に離れていくタナカをあてもなく眺める。幸先悪く、出鼻をくじかれた沢渡は深い溜め息が洩れた。費やした労力と損失を計算し、頭を掻きむしった。
清掃員たちは写真を撮り終え、次の工程に入っていた。花の幹を回収し、きれいに命中したらしく盛大に飛び散った内容物をステンレスのトングで拾い集め、バケツへ捨てていく。視界を遮るものもなく、無残ななれの果てがそのまま横たわっている。清掃マニュアルには『必ずブルーシートで一般人から現場を隔離すること』と定められてはいるが律儀に守る人間はほとんどいない。神経質にならなくても第三者が画像に写らないように用心さえすれば、いくらでも誤魔化しはきいてしまう。野次馬の数によって臨機応変に対応し、ほとんど目撃者がいなければさっさと花を片付けて水を流しとりあえずの汁を薄めてしまって、後はあからさまな状態で仕上げの掃除に勤しむのだ。国の意向は下に堕ちれば堕ちるほど曖昧になっていき、想定した通りには伝わらず、そもそもルールを遵守しようという殊勝な精神の持ち主自体がこの業界には多くいないので鼻つまみ者のそしりを受けるのも致し方なかったが、それは彼らも例外ではなかった。
本丸の片付けが後回しにされたせいもあり、好奇心旺盛な通行人が徐々に溜まりはじめていた。先着した同業者の、手際の悪さにほのかな怒りが湧いてくる。
無関係をよそおいたかったのか、沢渡はハンドルに両腕を預け、水垢なのか埃なのかわからない、ワイパーのカッパギをまぬがれた、水滴が象った点描みたいな汚れを内側から指でこすった。指の腹をたしかめ、意外にもまったく汚れがついてこなかった指紋同士を揉み合わせて、フロントガラス越しの風景を観察した。多くの通行人はプランターに見向きもせず、片時であっても関わりを持ちたくないようで、端に設けられた一人分くらいの空間を足早にすり抜けていく。うっへ、花屋じゃんスか。しかもなぜか二組おるやん。サイアクだわ、今日。こんな奴らにダブルで会っちゃうなんてよ。そういえば知ってる? こいつらってこんな薄汚ねえ仕事して月に百万ももらってるらしいぜ。それマジ? 引くわぁ。金のためならなんでもやるなんてゴキブリみてえな奴らだよな、プライドってものがねえのかよ。窓が開けられたままの助手席側から筒抜けに聞こえてきて、ふり向くとたまっている数人のなかから、顔を醜くゆがめていたカップルと目が合った。上目遣いで視線を逸らさないでいると女のほうが小さく捨て台詞を吐いて歩き出し、彼氏が後に従った。アホか、んなにもらえるわけねえだろ。シートに頭のうしろを当てて、つぶやいた。下腹部の上で掌を組み、息と一緒に全身にたまった力を抜く。
「なんか撃たれた奴の財布の中身をどさくさに紛れて盗んだり、内臓とか角膜とかを闇に流してるって言うしな。」
酷い中傷に噴き出してしまい、鼻水を袖で拭った。
「バーカ、現金にしか手ぇ出さねえよ。」
遠巻きから様子を窺っていたタナカが、不自然に明るく、同業に挨拶した。
アスファルトを洗浄する身体が一瞬止まり、声の方を同時に見上げ、とたんにこわばる空気がこちらにまで伝わってきた。相手は一瞥くれただけで返事もなく、清掃を再開する。日射しで照らされた血液は早々と凝固し出しこんもりとかたちを崩さず、濃厚なゼリーみたいに絶えず震えているようで、とても粘りが強そうに見える。
薬剤の混ざった水で押し流す。デッキブラシで表面をこするとまるで濃紺のアスファルトから滲み出てきたみたいに、白い泡が立っていく。きめの細かいクリームに圧し掛かられ、鮮烈な赤はみるみると薄まっていき、ショートケーキを彩る果肉のように泡を桃色に染める。タナカが、ゆっくりと、相手の車の死角に身を隠した。懐から千枚通しを取り出し、用心深く相手の立ち位置を確かめ、うしろのタイヤに突き刺した。執拗に、何回も、鋭利な針を身体ごとぶつける。
身を低くして忍び足で前に進み、運転席の窓ガラスの底から歩道を清掃している彼らを今一度こっそりうかがった。腰をかがめたタナカが人差し指を鼻に当て、沢渡に向かってにやついた。相手の隙を見、前輪へも一撃喰らわせた彼は笑いを噛み殺して道具を作業着の内ポケットにしまい、立ち上がって悠然と引き返してくる。わざとらしく余裕をかます表情に、沢渡は遠慮もなく車のなかで爆笑した。「ナイス!」
息を弾ませ車にもどってきて、タナカが助手席に尻をすべらせた。
「これで何時間か、アイツら脱落だろ。いまやってるのも時間内に搬送できないだろうからペナルティもぜってぇ喰らうしな。ざまあねえわ。」
笑いをこらえ、爛々と輝かせた目で沢渡を見る。白茶けるほど洗い込まれた青い作業着から、太陽に蒸された脇の臭いがした。
「ほー、すぐにはペチャンコにならないもんなんだな。」
「じわじわ蝕んでくんですわ。俺様が空けた無数の穴がな。」
出発を急かすタナカに応じて沢渡はウインカーを出し、ハンドルを切った。プランターの洗浄はあらかた済み、日光の直射を受けた箇所はすでに乾きはじめていて、色の濃淡はなだらかになり、だが街路樹が造った影と同じかたちにまだ濡れてもいる。
商売敵の車体に描かれた許可番号をついでに目で追った。五桁の数字は著しく大きく、左に隣り合っている免許の更新回数を意味する箇所はまだ(1)だった。この特殊清掃業に従事する会社は最初に免許を取得する必要があり、それから五年ごとに成績や適法性を審査され、通れば(2)、次に(3)というふうに新しい番号を交付されるのだ。新規は雨後の筍のように参入してくるけれど、その多くが最初の更新を迎える前に廃業する。
氷が道路に融かされていくように、タイヤのかたちが挫滅していく。
「お疲れ様でーす。」
近くに寄せ、元気に言った。
満面の笑みをよそおい、慣れない愛想に頬の肉が引きつるのを沢渡は感じた。
「どうすか? 今日の成果は。」
応答もなく無視するふたりを見つめ、肩をすくめてふたりで嗤った。「次は負けないっすからね。覚悟しててください。じゃあ今日一日おたがい頑張りましょう!」
デッキブラシで細かい汚れを磨く手をまったく休めず、相手も何かを囁きあう。厭味をはらんだ笑みを浮かべてお互いを肘で突っつき合い、ふたりとも瞳だけを打ち上げてきて、一瞬だけ視線がぶつかった。こいつらお粗末な道具しか持たされてねえんだな。脂っこく同業者を観察しながら、タナカが彼に耳打ちする。憐れすぎて涙がチョチョ切れるわと囁いたあと、奥歯まで剥き出して別れの挨拶に換えた。
窓ガラス一枚で隔てられた。
常に揺れている都心の空気を遮断した。
「ほんっと、日本人はどいつもこいつも辛気くせえよな。」
「いちいちうるせえな。ってゆうか右のあの野郎は中国人だよ。」
あどけなく、口の悪い輩が目を丸くした。そしてそんな見分けがつくことにおおげさに驚き、俺からすればどっちもおんなじ平ぺったい方々だ、と吐き出して、垢で膜が張ったかのように薄汚いスニーカーを脱ぎ捨てた。近くをうろついた時にもらったらしく、厚いゴムソールの縁には赤みを差した泡がへばり付いている。「こっちだってベトコンとタイ人の違いなんかわからねえよ。枯葉剤吸ってラリってるのがベトコンだろ? 残念ながら見た目じゃ区別つかないからな、まあ、奇形で産まれてくりゃ別だけど。」「それともなにか、サッカーでプロになるか乞食で一生終えるかの肥溜め野郎か?」「いやいや、いまだにメリケンの奴隷やってるよりマシだろ。自覚してないんだろうけどすげえダセえよ、おまえらって。」と言いながら空中で胡坐をかくように身体を丸め、靴下の先を引っ張って脱ぐと足もとに放った。フロントガラスの前に投げ出した足の指が、前後左右に蠢く。根元に生えている、鋭く先がとがった黒い毛をまともに見てしまい、厭な気分になった。タナカが叫んだ。急に横を向いて、明るくした眼差しで彼を指差した。
「やっと思い出した。帯に短し襷に長し、ちょうどいいのがあんぽんたん、だ。」
「後半、なんか違わねえか?」
甲高い音が轟いた。近く、余韻が脳裡で粘つく。ふたりは顔を上げ、ふたりは顔を見合わせて、すばやく端末にかぶりついた。
通行人には瞬間だけ肩を怒らせるという条件的な反射がまばらにあるのみで、関心も全然ないらしく、脚をまごつかせるという混乱も起きない。
景気づけとばかりに、ありったけの奇声をあげた。タナカが隣で全身を狂ったように暴れさせて、あたり構わず殴りまくった。
次のプランターの発生に色めきだった彼らに気付き、守銭奴、銭ゲバとかハゲタカだとか、蛆虫とも、ハイエナとも老若男女様々な国民たちに外から一斉に非難された。派手な舌打ちをし、マジでこれだけは絶対他の奴らに負けるんじゃねえぞと早口で言い残すとタナカはがっついて歩道を睨みかえした。「まだ出すんじゃねえ。」出発しかかった沢渡に腕を伸ばすと、窓が下まで開ききるのも待てない様子で隙間から唇を突き出してすかさず応戦する。学生風情を恫喝した。白髪の老人に喰ってかかった。遅れて全開になった窓枠から箱乗りみたいに上半身を乗り出させて、ケンカを売った。誰彼かまわず、周囲の人間を掌で誘う。こちらに招く。そそくさと立ち去る背中を腰抜けと嘲って、掲げられたスマホに向かって飲みかけのペットボトルを投げつけた。指先で挑発した。あらかた蜘蛛の子を散らすとシートに勢いよく飛び降り、ダッシュボードを殴り何かを喚き散らして、閉まった窓ガラスに肘打ちを連発した。
しつこいタナカの念押しに今度は彼も罵声でかえし、車のアクセルを底まで踏み込んだ。
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