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ジョルジュ・デュビーが語る「中世フランスの恋愛史」

皆さまご無沙汰しております!

やたらと恋愛続きですが、ご了承ください。

今回は、これまで取り上げてきた恋愛の「歴史」について、もう少し深掘りした内容を紹介いたします。

そして、この記事を読んで頂くと、いかに

中世史が曖昧であるか

ということを、ご理解頂けると思います。


まずは一般的な「中世フランスの恋愛史」を紹介いたします。

その後、本題であるジョルジュ・デュビーの考察を紹介いたします。


ですが、先にジョルジュ・デュビーについての紹介をさせて頂きますね。


デュビーはアナール学派と呼ばれる一派の1人です。アナール学派とは、中世西洋の社会を明かそうとする一派です。

このデュビーは近代のフランス人で、柔軟な考察力をもって当時の社会を論じています。


そして、このデュビーが「恋愛史」について言及しているということです。

今回は、それを紹介し、そして少し考えたいと思います。


長くなりましたが、紹介は以上です。

早速「恋愛史」を振り返りましょう!



①一般的な「恋愛の流行」の認識


近代の西洋では「恋愛とは12世紀の発明である」と唱えられることがありました。

この恋愛が「fin’amor」であることは論じる必要もありません。


しかし、直後に「発明ではなく流行だ」と指摘する学者が近代中に現れました。モーリス・ヴァレンシー然り、デュビー然りです。

そして、未だに訂正され続けているのが中世史であります。



つまり、これから紹介する内容も

あくまで「一般的」であり、正解ではない

ことを頭の片隅に置いておいてください。


恋愛とは12世紀の

南フランスで

流行したと論じられることが圧倒的に多いです。



南フランスの言葉を「オック語」と言います。

このオック語で書かれた「恋愛詩」が南フランスで流行したとされてます。

そのテーマは「半人前の男性が、麗しい貴婦人へ恋心を抱く。しかし、それは叶わない」という悲愛が多いと感じます。


この様な詩が12世紀の初期ごろに南フランスで歌われ始めたとされています。

この詩を手掛けた詩人をトゥルバドゥールと呼びます。出ましたね。

お決まりのトゥルバドゥールです。

恋愛の流行に伴い、このトゥルバドゥールが急増しました。


そして、この「恋愛の流行」と「トゥルバドゥールの急増」によって、この恋愛は

大きな社会現象

を巻き起こしました。

それにより、恋愛の議論が巻き起こります。

この議論の結論が「fin’amor 」でありました。これは以前に紹介いたしました。


これが南フランスにおける恋愛の流行であります。


ダキテーヌ公ギヨーム9世が「貴婦人との愛」を抒情的に歌い上げ、それが流行を呼んだ。この「恋愛の流行」に伴い、「トゥルバドゥールが急増」した。それによって「恋愛の議論」が巻き起こり、「fin’amor」が磨き上げられた。

まとめるとこんな感じになります。


では、北フランスではどうだったのでしょうか?

これが今回の

メインテーマ

になります。


では、北フランスではどのように恋愛が流行したのか?

次に、簡単な「一般認識」を紹介します。



②北フランスにおける「中世の恋愛史」


北フランスでは「恋愛詩」が根付いていなかったとされます。先述の通り「オック語で書かれた詩」であるからです。


では、どのように北フランスで「恋愛詩」が根付いたのかが問題になります。

さらっと言いましたが、ここが一番の問題です。


北フランスではどのように「恋愛」が根付いたか


これが主要なテーマであり、一貫した今回のテーマです。


勿論、南仏における「恋愛の起源」も謎めいています。

ところが、デュビーが提唱した説で考えると、

北フランスの方が更に謎めきます。


これは次に見ていくので、まずは「一般認識」をサクサクっと紹介いたします。



ダキテーヌ公ギヨーム9世の孫娘、アリエノール・ダキテーヌ。

彼女は中世フランスを代表する女傑の1人です。


彼女の家は「恋愛詩」が公開され合っていた場所であります。

そのため、彼女は「恋愛詩」に囲まれて成長しました。彼女が「恋愛」を愛していたことは疑いようがありません。



その彼女が莫大な土地を相続します。

それが一因となって、彼女はルイ7世という王様と結婚します。

王都はパリにありました。

そして、結婚に伴い、彼女はトゥルバドゥール達を引き連れて北上しました。



北フランスでも試作が続けられました。

すると、北フランスでも「恋愛詩」が支持され、北フランスでも「恋愛が流行した」とされています。


これにより、北フランスにおける吟遊詩人が登場しました。


この詩人を「トゥルベール」と呼びます。

トゥルバドゥールとは本質的に異なる

ので、ご注意ください。


北フランスは「規範的」な詩が、南フランスでは「抒情的」な詩が支持を受けていたと考えられるからです。


「規範的な恋愛」


つまり、この風潮が「恋愛詩」に取り込まれて

中世騎士道物語

が創られたと考えられます。


しかし、デュビーの説を踏まえると、これさえも

怪しくなる

のであります。


簡単にまとめますと、

アリエノール・ダキテーヌが北上した。その際にトゥルバドゥールを引き連れて北上した。北フランスでも試作され、それが支持を受けた。北フランスでも「恋愛」が流行し、北フランスの詩人である「トゥルベール」(Trouvère)が登場した。

とされています。


これらの「恋愛史」は納得できるかと思われます。

しかし、デュビーがこれを揺さぶりました。


次を最後のテーマとして、このデュビーが投げかけた

について見ていきます。


③ジョルジュ・デュビーの「問題提起」


「エロイーズとアベラール」は聞いたことがありますか?


かつて、この神聖な身分の2人は、強烈な情欲の虜になりました。

その時のことと、その後のことを「一つ目の作品(あるいは書簡)」をもって、アベラールが告白しています。


この「書簡集」が12世紀に読まれ、編纂されていくことになります。

そして、この「書簡集」が現代にまで受け継がれています。


この書簡集の中で、エロイーズはアベラールを「容姿端麗で試作の才に富んだ人」として褒め称えています。

つまり、世の女性をたぶらかし、「女性の喜び」を満たすことに長けていたとされている

愛に生きる騎士

を重ねていると、デュビーは指摘しています。

彼らは時に詩人と同義になりますので、今回は重ねてください。

つまり、エロイーズはアベラールを「騎士としても詩人としても」褒め称えていたということになります。



この目的について、デュビーはこう語ります。

要約すると、「知的で敬虔な修道女であっても情欲に溺れる。従って、本来あるべき「愛の在り方」を提示し、世の女性全てに理解させるためであった」としています。



つまり、

「エロイーズの恋愛の苦悶を貴婦人に共感させ、その原因が「肉欲」であると示しているのだ」

と言うことです。


これを踏まえて、この「書簡集」は別の人物が書き上げた「テクストである」と指摘しています。

つまり、「神学的なテクスト」であると言い換えられます。


この場で、この議論を深掘りする必要はありません。書いた人が誰であれであっても、そして、現実に交わされていた「書簡」ではなかったとしても、今回は問題にはなりません。


重要なことは

・「恋愛」を通して、貴婦人に共感させていた

・このテクストは「恋愛詩」をベースにしている

ことです。


これは北フランスで創られたとされています。

何年ごろに創られたのでしょうか?

当然、アリエノールが北上して以降であると考えられます。


この「書簡集」が世に出されたのは

1132年ごろ

だとされています。


では、アリエノールが結婚したのはいつ頃でしょうか?

彼女が結婚したのは



1137年ごろ


だとされています。


もう何も言いません。

これが

恋愛史の謎

なんですね。


つまり、アリエノールがトゥルバドゥール達と北上したのが1137年頃だと仮定し、

アルベールが「書簡集」を出したのが1132年頃だと仮定すると、


アリエノールが北上するまでに根付いていた


と考えられる、ということになります。


これが結論になりますが、最後に少しだけ私の考えを示したいと思います。


その前に、もう一度だけ振り返ります。

1132年頃には、北フランスでも「書簡集」を通して「共感」を呼べるほどに「恋愛が根付いていた」。アリエノールが北上したのは1137年だから矛盾する


ということになります。


では、これらを踏まえて「恋愛史」をどう考えるべきかについて、最後に少しだけお話します。



終 古代から続く「恋愛」の可能性


論文ではありませんので、サクサクっと紹介します。

古代のローマ時代から、既に「恋愛詩」が確認されます。

「女性の讃え方もトゥルバドゥールと酷似している」と、モーリス・ヴァレンシーは『恋愛礼讃─中世・ルネサンスに見られる愛の形』と言う著書で指摘しています。



一方、「恋愛の起源」については「イスラムがもたらした文化」であるとされることがあります。

「最初の女流トゥルバドゥールがイスラム教徒だった」とされているからです。



しかし、この場合、このローマ時代に書かれた「恋愛詩」を軽視してしまうことになります。

では、これらを踏まえてどう考えるべきでしょうか?


まだ私の中でも断言できるほどの結論が出せません。

しかし、その上でお話しします。


ずばり、

「恋愛詩」は脈々と受け継がれていた

と考えるべきではないでしょうか。


ダキテーヌ公ギヨーム9世は、自身の詩の中で

「他の作品」

という言葉を用いています。

つまり、「女性を礼讃する詩」が北南問わず脈々と受け継がれていたと考えられます。


ギヨーム9世が「流行の起源」になり得たのは、彼が「貴婦人をテーマにした」からではないでしょうか。



だから「書簡集」は

不倫がテーマではなかった

と考えられます。



北フランスは「規範的」な精神を重んじていたことは『ローランの歌』を含めた様々な文学作品で確認できます。

しかし、受け継がれていた「恋愛詩」は「抒情的」、つまり「ありのまま」の心の働きです。

北フランスの風潮とは合わず、「規範的な詩」ほど流行してはいなかった、と考えられるのではないでしょうか。


長々と鬱陶しい話ばかりでしたが、ここまで読んで頂きまして、本当にありがとうございます。

デュビーが問題提起をしたのは20世紀です。

しかし、未だに「一般認識」が根付いております。

これが

中世史の現状

です。

ネットに踊られないようにお気をつけください。

そのために、私がブログで紹介している次第であります。


この辺りも、今後YouTubeで取り上げたいと思います!

是非とも、YouTubeへお越しください!

それでは、またお会いしましょう!

お読みいただき、ありがとうございました!


モーリス・ヴァレンシーの『恋愛礼讃─中世・ルネサンスに見られる愛の形』と

ジョルジュ・デュビーの『12世紀の女性たち』から借用しています。

是非とも読んでみてください!





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