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WAY DOWN WE GO

時々潔癖と言われることがある。飲み会の席でふと話す言葉から、隣に居座り絡んでくる酔っ払いのほとんどに、私は病的な潔癖症だと言われる。

TEARS DRY ON THEIR OWN

人と一緒のベッドでは寝付けないし、狭い部屋で一緒に食事したときのお互いの生活音を気遣うことを想像しただけで息がつまる。誰かと結婚して一緒に暮らしたとしても、認められるか分からない味、ふと匂う自分のにおい、相手を失望させないかという不安、思いもしない言葉や想像もできなかった厳しい現実が、きっと待っている。いずれストレスで身体が痒くなってかきむしり、涙と嗚咽が止むまでトイレで一人にしてもらうことになる。運よく結婚したとしても別々の家じゃないと、きっと私は相手を傷つけ、私も傷つけられる。誰かと一緒にいる安心感を得る代償に、いずれ他ならぬ自分が死んでいくことを確信している。

この言葉だけを聞くと、想像と現実を混同している未熟な人間だと思うだろう。結婚したら考えが変わる、同棲をしてみろ、現実は意外とそうでもないと、腐るほど聞いた言葉だ。あなたはそうかもしれないが私に適用されるかは分からないと吐くように呟いた途端に、さらりと簡潔に私は潔癖症だと片付けられる。

MY OWN

しかし、私は他人を汚いと思ったことは一度もない。母親に何度言われようと脱いだ靴を靴箱にしまえないし、飲み会があった日の翌朝の部屋は泥棒が入った跡かのように乱れて汚い。一見潔癖に見える私のことを、本物の潔癖の人が見たらおぞましいほど汚く感じるに違いない。今回のコロナの騒動でも、ウイルスの感染を想像することはなかったし、購入した消毒液は使うことなく、むしろ衛生観念など、殆どないくらいかもしれない。

ただ、一つ言えるのは、自分かそれ以外かの境界について、私は一般的な人より大胆で、強く、過敏だと感じる。一般的にはパーソナルスペースの範囲を人との許容範囲と判断することが多いだろうが、私はその範囲の広さではなく、自分の境界線に触れた時の衝撃が、きっと人よりも強い。だからこそ私は他人との接触に敏感で、負担に思い、脅威に感じる。

汚いというよりかは他人のものを使うことが負担なので、例えば会社の備品は使わない。特に会社の共用部分である電子レンジやポットやコーヒーメーカーを触るのが嫌だ。しかしコンビニのどこの水か分からないポットのお湯を使うのは何にも抵抗はない。会社の備品は目の前にいる同僚や上司の顔が浮かぶから触れたくないのだ。

これを聞いて、殆どの人は病的だと思うだろう。とにかく可哀想で哀れに思うだろうし、そもそも私のコミュニケーション能力の低さの問題だと思うだろう。でもこれは自分以外の全ての人に対して思うことなので、可哀想とか惨めとか思われたところで、どうしようもない。どうしようもないことを恨んでもしょうがない。

このような極端なプライベート感覚というのは、きっと時代の影響と、時代への甘えの産物であって、時代に許されるものでありながら実際には世の中では受け入れられない考えだろう。人と協力しない、人を許さない、人を介さないことは、社会では評価されず、絶望的に価値のないことである。一人では一人分の仕事しかできない。世の中がそう信じ切っている。自分もそう思う。きっと自分は自分ができる範囲のことしかできない。

PHANTOM

しかし、私は誰も望んでいないわけじゃない。私は誰かの一部になる望みを捨てているわけではないし、誰かを私の一部にしたい気持ちは常にある。誰かというより、他ならない彼女のことだ。

小学生の頃に唯一仲の良かった友でもなく、中高生の頃繁華街の自動販売機の影で一緒にタバコをふかした友でもなく、大学四年間関わった友でもなく、クラブで酔い潰れ始発までカラオケで語り明かした友でもなく、社会人になって悔しい思いを共にした会社の同期でもない。彼女は、恋人でもなく友人でもない、それでも私の大切な一部だった。私以外の存在でありながら、彼女の身と心は私のものだった。私の人生にとって最初で最後のパートナーだった。私はきっと死ぬ直前まで、手放したあの日のことを悔やんで心の奥で燃やすことになるはずだ。

自分以外の人間で、自分以外だと感じないのは彼女だ。彼女を構成するもの全てが私のものだと思うように、私の心も体も彼女のものだ。もう戻らない夢のような存在を、今でも求めて、懐かしみ、こうして夜の中に紛らわせ、暗闇に影を重ねて眠りにつく。

#エッセイ

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