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肉の熱

数年振りにウエイトトレーニングを再開して、心と身体は別物なのだということを再認識した。働かせる部位以外はしっかりと固定し、12〜15回くらいで限界になるような強度でトレーニングをする。じわじわと筋肉が熱を持ち、その存在を久しぶりに感じ取ることができた。限界に近づくほど筋肉が震えて発熱する。自分の肉体が躍動する。次の日の心地のよい筋肉痛にまで、喜びを感じた。

しっかり汗をかくのも久しぶりのような気がした。学生時代は長い間ソフトボールを専攻していたので、もともと身体を動かす事が好きだった。ボールを捕って、ステップを踏んで、相手のグローブに目掛けてスローイングをする。グローブが響かせる渇いた音、ぐっと踏み込んだ時に感じる股関節のきしみ、指先に滲むゴムボールが離れていく瞬間が大好きだった。自分の身体と感覚がぴったりとはまった時、どうしようもない程喜びに満ちる。自分の神経、筋肉、細胞中から、ありがとうと言われているような気さえする。室内で飼っている犬を外へ連れ出すと急に駆け出すように、身体を思うように動かすことがこんなにも自分を興奮させることだったかと、思い知らされた。自分の身体を痛めつけることも、自分を大切にする行為の一つなのだろう。痛みをもって自らを知覚することが出来る。

毎日仕事に行って、それなりに働いて、お風呂に入ったりしても、自分の身体の存在を感じ取ることはあまりない。その間にも私の身体は、食べ物を消化したり、こうして文章を考えながら脳の中が活動しているのだろうが、自らの心臓の鼓動さえも、私にとってはどうでもよいことなのかもしれない。なんだかよく分からないけれど多分私は今生きているのだ。きっと身体に何らかの異常が出た時に初めて、私は自分の身体を省みることになるのだろう。それくらい、自分の身体は動きたいように動き、思い通りになると思っているのだ。私はビールが飲むことが好きで、飲み会に行けばジョッキで7〜8杯は飲む。食べ物はうどんや米などの炭水化物が好きで、肉や魚はあまり食べない。トイレに行くのを忘れてしまうこともあるし、食事のタイミングはバラバラだ。それだけ自分の身体に不誠実でいながら、ニキビが出来たり皮膚が乾燥して粉が吹いていると酷く不快に思う。せめて身体くらいは、できるだけ自分のわがままを受け入れてくれる存在であってほしいのかもしれない。

精神以上に、紛れもなく自分のものであるはずのこの身体が一番遠い存在に感じる。身体が何を考えているのかが分からなくなる。筋肉が千切れそうなほど動かして、胸を突き破りそうなくらい心臓を動かして、全身の毛穴から汗が吹き出ては乾いていく感覚をもって、自分の身体を感じていたい。身体を置きっぱなしにしていては、きっと、これ以上先には進めない。

#エッセイ


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