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【小説 / Episode.1-01】息子が実家に帰ってきました -My son is back-

 閑静な住宅街にひっそりと佇むそのカフェは、真壁由紀にとってすぐにお気に入りの場所となった。

 まだオープンして1カ月足らずではあるが、南仏プロヴァンス風の外観が目を引くカフェには常に多くの客の姿があった。由紀がパート先のスーパーへと向かう際に通りかかる時も、パート仲間とお茶をするために立ち寄る時も、店内が閑散としていたことは一度もなかった。現に、今日も同僚の成冨朝子に誘われてやってきたものの、席に座るまで40分ほどの時間を要した。荷物を下ろして、店内にあるカブトムシの形をした壁掛け時計を見ると、午後3時をまわっていた。

「本当に人気なのね、平日なのにここまで混んでいるとは思わなかったわ」

 朝子は席に着くや否や、まくし立てるように話し始める。由紀は「そうよね」と愛想笑いをしながら、モダンクラフト紙のメニュー表を手に取った。

「ごめんなさいね。急にお誘いしちゃって」
「ううん、大丈夫。特に急ぎの用事もなかったから」

 業務中に朝子から「仕事終わり、ちょっと時間ある?」と声を掛けられた由紀は、よりによって今日か、と心の中で毒づいた。仕事が終わった後は、高校の同級生である池田麻衣の自宅にお邪魔する予定があったからだ。先に決まっていたのは麻衣との予定なのだから、本来であれば朝子の誘いは断るべきだろう。しかし、パート先の人間関係を牛耳っている朝子に逆らうという選択肢は、どのような形であれ由紀の中に存在しなかった。何しろ、何度も選考で落とされたうえにようやくつかんだ働き口なのだ。娘の大学受験費用の足しにするために始めた仕事を、人間関係の悪化などでみすみす手放す事態だけは避けたかった。急用が入って予定を後ろ倒ししたいと連絡すると、麻衣は快く承諾してくれた。

 50歳を目前にした由紀は、年齢という記号が思った以上にパート採用面接の妨げになったことに驚いた。いや、正直に言えば、働き口を探し始めた時から薄々自分の年齢がネックになるであろうことは想像していた。ネット検索をすれば、すぐに『50代でパートが決まらない理由』『中高年は仕事がない』といった身もふたもない言葉が目に飛び込んでくる。20年以上前、まだ新入社員だった頃の由紀に「経験こそが大事」と言い含めてきた人たちは、一体どこに消えてしまったのだろう。そもそも、27歳で結婚して専業主婦となった自分に、会社員としての“経験”などないに等しいのだけど。

「アップルパイと、ドリンクセットのカプチーノで。由紀さんは?」

 急に朝子の声が耳に入ってきて、由紀ははっとした。自分の人生を自虐的に振り返っているうちに、物思いにふけっていたようだ。まずい。朝子の問いかけを無視してしまっていたとしたら、悪い印象を与えたかもしれない。ある意味、朝子と一対一になる空間はパート採用の面接と同じくらいの緊張感と重要度があるのだ。集中力の欠如は惨事を招きかねない。

「私もアップルパイにしようかな。コーヒーはブラックでお願いします」

 由紀がオーダーを伝えると、テーブル席にやって来た、おそらく大学生と思しき女性の店員は「かしこまりました」とか細い声で答え、メニュー表を回収して立ち去った。オープニングスタッフとして採用されたばかりで緊張しているのだろうか。自信のなさそうな所作が印象に残った。

「ここのアップルパイ、すごく美味しいのよ」と、朝子が鼻の穴を広げながら由紀に話しかける。たしかに、このカフェのアップルパイは絶品だ。生地はショートクラスト・ペイストリーで、サクサクとした触感が心地よい。酸味があるアップルフィリングの隙間には、生クリームの香りがほんのりとするカスタードクリームが流し込まれている。上品なよそ行きの味がするのに、どこか家庭的なあたたかみもある。アップルパイの美味しさは朝子に言われるまでもなく知っていたが、由紀は「そうなのね。早く食べてみたいなぁ」と、初めて食べる体で話を進めた。

 それにしても、朝子が自分をカフェに誘ってきた理由は何なのだろう、と由紀は訝しんだ。大方、家事を率先してこなす夫の自慢話か、同居している義母の愚痴か、そのいずれかだろう。はたまた、最近始めたというFXの利益が出たという話かもしれない。「それにしても、朝子さんの方から誘ってくれるなんて珍しいじゃない」セルフサービスコーナーからレモン水を持ってきた由紀は、朝子にコップを渡しながら問いかけた。

「この間息子が実家に帰ってきてね。何だかいろいろとバタついていたから、たまには外で気晴らしも必要かなと思って声をかけてみたのよ」

 少々面食らった。朝子に大学生の一人息子がいるということは同僚伝いで聞いたことがあったが、朝子が誰かに息子の話をしているところを由紀は見たことがなかった。あまり息子とうまくいっていないのか、それとも息子への関心自体がそれほどないのか。由紀は、朝子の親子事情をそのように解釈していた。

「そうだったんだ。ああ、今はちょうど夏休みの時期だもんね」

 由紀がそう答えると、朝子から一瞬表情がすっと消え失せた。少なくとも、由紀にははっきりとそう見て取れた。

「夏休みで帰ってきているわけじゃないのよ。うちの息子ね、大学を休学したの」
「そう、なんだ」

 振る話の種類を間違えた、と由紀は後悔した。朝子の自尊心に傷がつくような話題だけは、何としても避けなければならなかったというのに。クッション性が高いラウンジチェアの上で、由紀はぐっと身体を固くした。だが、朝子は「別に、何か問題を起こしたとか、そんなのじゃないのよ」と、口角を釣り上げながら話し始めた。

「上京して1年が過ぎたタイミングで、いろいろとやりたいことが見つかったんだって。最初は休学の話を聞いてびっくりしたけど、本人が至って真面目に『地元じゃないとできないことなんだ』って言うから、私も応援することにしてね」

 由紀が住んでいるのは、東北の中でそれなりに規模が大きい街だ。一見すると進学先や就職先に別段困らないようなところだが、地元の高校生には東京を目指す者が多いという。先日、娘の進路指導相談で高校に足を運んだ際に担任の先生が言っていた。

「やりたいことができたのは、とても良いことじゃない」
「そうなのよ。夫の教育方針で県外に送り出したけど、最終的に自分の人生を決めるのは子ども本人だから」

 朝子の息子に関する話は、それから1時間以上続いた。由紀としては、早く帰宅して夕食の準備を始めたいところだったが、エンジンが温まってきて饒舌な朝子に対してストップをかけるわけにもいかなかった。注文したアップルパイを口に運ぶ暇を見つけるのにも苦労した由紀は、朝子とこのカフェに来るのは今日で最後にしよう、と誓った。

 店を出て朝子と別れると、由紀は自転車を預けている駐輪所へと急いだ。普段、由紀は自宅とパート先の往復に自転車を利用している。

 駐輪所に向かう途中、由紀は麻衣のことを考えていた。予定を当日にキャンセルされて、麻衣は気分を害していないだろうか。私のことを常識のない人間だと思っていないだろうか、と。

 7月の太陽は5時を過ぎても一向に手心を加えてはくれず、茹だるような暑さが辺り一帯を支配していた。体に感じる熱さとは対照的に、由紀の胸の中にはどこか寒々しい風が吹いていた。

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