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なりたい自分

手前味噌で恐縮だが、今のわたしは子供の頃なりたくなかったものの権化だ。

未婚、ニート、引きこもり、いじめ。あっ、あとパワハラとDVもあったわ。人格者でもなければ特に努力家でもない、特筆すべき才能はないし、履歴書を埋められるのは左ページの転職履歴だけ、特技長所なんて「特になし」の四文字で済むというのに。資格免許はAT限定、ペーパーとは言わないけどペーペー初心者です、ゴールド免許更新歴がその証だ。

こんな人間になりたいはずでもなかったけれど、なってしまったのだ。子供の頃の、僅かばかりでも澄んだ目をしていた頃のわたしがいるとしたら、済まないと詫びるほかない。

人生に迷走するようになったのはいつからだったろうか、思い返してみればもうすでに幼稚園の頃には迷走していたのだ、あの頃からわたしには友人というものがなかった。
たかだか昼の給食が食べ終わらないからという理由でわたしから昼休みを取り上げ、結果として友人らと遊ぶ時間を取り上げられたことが人生という迷宮への入り口だったように思うけれど、それをやった大人たちも、あの頃は「お残しは許しまへんで」ということが友人づくりよりも大事なことで、正しい教えなのだと純粋に信じていたに違いない。
そうでなければあのときの幼いわたしが報われない。

なりたい自分はいくらでもあった、人に好かれ、同性にも異性にもモテていて、気前よく優しく明るく、前向きでひたむきで、努力家で優秀で、あの子ならやってくれるという期待を裏切らない、その全てをとは言わないまでも、ひとつ……ともいわない、謙虚に言ってふたつ同時くらいは思い描いたことはある。……うん、謙虚って便利な言葉だな。

結果として、どれも手に入らなかったし、持ってもいないと思う。
なぜなら、その結果が今のわたしだからだ。

なりたい自分とはなんぞや。

アイドルになりたいと云う。権威ある人になりたいと云う。
お金持ちになりたいと云う。うつくしい人になりたいと云う。

なりたい自分を語るのはいくらでもできる。空想・妄想ご自由に、だ。誰かに迷惑をかけさえしなければ、いくらでもやるといいと思う。むしろやってくれ、きらきらした人を見るのは眩しいけれど心は明るくなるものだ。
でもなりたい自分に本気でなりたかったら、語るだけでは何にもならない。わたしが空想の中だけでなりたい自分を描いたばかりに、何も手に入れることができなかったのがいい例だ。

今のなにもないわたしが思うことは、
なりたかったらまず「在れ」ということだ。

何者かになる前に、まず自分が何者かで在らなければならない。
そして、最初に在るべきは「自分自身で在る」ことだろうと思う。

自分というものがまず『自分』という形(なり)で立っていなければ、そこから「なりたい自分」という、黄金の衣を纏うこともままならないのではないか。いくらリカちゃんのお洋服を買い集めたところで、そのお洋服を自分が着られるわけではないのだ。自分にフィットしたサイズの洋服を手に入れて初めて、着ることができるのだ。
喩えが古くて世代がバレるがまあいい。

なりたいとは「形(なり)+たい」、つまり「形(なり=自分)の欲するもの」ってことなんだろうか。これは思いつきで言っている。
だとしても、やはりまず形(なり)が必要なのだ。
『自分』という形(なり)が。

わたしが「なりたい自分」を絵空事にしてしまったのは、自分がまずどう在りたいかを考えなかったからだ。なりたい自分になるために、今ここにいる自分がどう在ったらいいのか。そもそも、今の自分はどう在る状態なのか。その自分は、どんな自分なのか?
それらに向き合うことを、してこなかったのだ。

自分を認めることをせず、現実の自分の形(なり)を見ぬふりし、リカちゃんのお洋服だけを求めてしまったがゆえに、わたしは結局何者にもなれなかった。まさしく形無しというやつだ、形だけに。

今でも、なりたい自分は今もいくらでもある、ああなりたいこうなりたい。
でも海賊王におれはなると言いきるには、その時点でそれに見合った覚悟が必要なのじゃないか。その過程の中でおれは海賊王やめて遊び人になるわ、と言い出しても、真剣にそう思ってその覚悟が決まっていればそっちに行ったっていいと思う。でも、こうなりたいと言い切るには、まずその時点で言い切るだけの勇気がいるんじゃないだろうか。

わたしには、まだこうなりたいと言い切る勇気はない。言い切って努力できる確約がないし、わたしはわたしを信じていないし、そんなことが言えるような人間ではないという卑屈もある。

ただ、今自分がどう在りたいかは、考えていたい。
なりたい自分の前に、まず『自分』で在りたい。

強いて言うならば、『わたしは斯く在ります』と言える自分になりたい。

そして自分で在るために、今の自分の形(なり)がどうであるか、知ってゆきたいのだ。

わたしが好きなことはなんだろうか、苦手なことは、得意なことは、嫌いなことは。どんなときに嬉しくてどんなときに怒るのだろう?そういうことをシンプルに考えてシンプルに受け止めるだけでも、大変な作業だと思う。
なぜなら大人になればなるほど、言い訳のバリエーションは増えるし、増やせるのだ。そのバリエーション豊かな言い訳という泥をひとつひとつ丁寧に剥がして、わたしという形(なり)が一体何なのか、見つめ直したい。

わたしはいずれ跡形もなく消える。肉体もこの文章もこの時間も遍く時間の海の前ではただの藻屑でしかない。ただ、もしなりたい自分になれなかったとしても、わたしは斯く在りましたと言えたなら、うんと後世の研究者だかオタクだかうっかり八兵衛だかに太古の藻屑として藻屑なりの意味を見つけてもらえるかもしれない、大森貝塚の貝殻みたいに。それが別に真珠や希少種なんかじゃなくたって、意味があると言ってもらえるなら、万々歳じゃないか。

それでももし、うっかり八兵衛に「この藻屑には何の意味もなさそうですね」って言われたって、自分が斯く在ったんだからよかろうと自分で思えるなら、堂々と揺らぐことなく「藻屑ですがなにか?」って言ってやれそうな気もしてくる。

もっとも、藻屑と死人に口はないけど。

#なりたい自分