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露の庭

中心街からはずれたところに、水路から水の流れる音が聞こえる閑静な住宅街が広がっている。古くからこの土地に住む人ばかりの家や商店が並ぶその一帯から、さらに山に向かって上ったところに、地元のごくわずかな人間だけが知る、樹々に囲まれた大きな日本家屋があった。明治から改修・増築を繰り返しているその屋敷は、庭の広さを含めると敷地は千坪にも及んだ。
広い庭や、林の整備はこの家に住む者たちにの重要な仕事の一つで、それぞれに受け持つ箇所が違った。

背が高く手先の器用な野田は樹々の選定を、庭の雰囲気を変えたいときに趣向を考えるのは鬼怒川で、敷地の隅で作物を育てるのは宇都宮、桐生と越生が仕切り、ほかの者たちは容易に手が出せなかった。
日光は、手先に傷をつけることから避けられていたため、庭の仕事も家事も受け持っていなかったが、戦時中に不要不急線と国に見なされてしまったころ、自ずから家事や庭の整備を手伝うようになった。
門から玄関へのプロムナードを朝と夕に分けて掃除するのが、今ではすっかり日光の日課になっていた。軒先で、使い古した竹ぼうきの先の綻びを丁寧に整えると、引き戸の内側に入り込んだ砂を外に掃きはじめた。日本舞踊を嗜む日光は、日常にも丁寧な所作が染みついていた。床に敷かれた御影石の上を撫でるように竹ぼうきを動かす音、下駄が石に触れて微かに鳴る音だけが早朝の空気を揺らしていた。
まだ外は日が昇り切っていなかった。4時を回ったころ、まだ鳥すら鳴いてない。生きているものたちの物音は一切立ち消えて、静まり返った時間が日光は好きだった。だがその時間に起きるのにはもう一つ理由があった。
「お早う、日光さん。今日も早いね。」
廊下から、野田の声が聞こえてきた。野田の声は声量を落としていてもよく通った。野田も5時前に起き出してきては、敷地の周りをひとっ走りしてから庭仕事をすることが日課になっていた。彼は元来の働き者で、この家に来た当初から毎朝庭の様子を見るのを欠かさなかった。
「お早うございます。足元に気を付けてください、夜中に雨が降ったみたいで。」
「そうか。ありがとう、日光さんも気を付けて。」
「うん。」
日光は自分の言葉が上ずっていやしないか心配になって、視線を足元に落とした。気配を感じて顔を上げると、屈んで日光の顔を覗き込むようにしていた野田と目が合った。目があったことに満足したように、にっと笑うと、
「もう半袖は寒いかな。」
と玄関の外へ視線を移した。自然と日光の視線も外へ向いた。
今日の野田は、コットンの半袖シャツと、スポーツ用の柔らかい素材のジャージという出で立ちだった。がたん、と下駄箱からランニング用のシューズを取り出し、無造作に履いてからトントンとつま先を鳴らして支度を整える。玄関から翻るように外に出ると、大きく伸びをして、息を吸った。それから上体を捻ったり、軽くジャンプして、野田が動く度に薄暗の静かな朝の空気がかき混ぜられるようだった。引き戸の内側から、箒を動かすのも忘れて日光はそれを見つめていた。
石張りの玄関から門までは砂利が引かれ、なだらかな下り坂になっている。その後も屈伸や軽いストレッチをしばらくしてから、ざくざくと小気味良い音を鳴らしながらリズミカルに野田は坂を下っていった。小さくなっていく野田の背中が門をでて消えるまで、日光は目を離せなかった。また静寂が彼を包んで、やっと箒が動き出した。こんな時に、突然泣きたくなる衝動に駆られることがあった。その理由は彼が一番よくわかっていた。

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