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みなおす

いつもこの時間に聴いているラジオ番組、というのが私にはいくつかある。

ある日、いつものようにいつものとある番組をラジオで(正確にはradikoのアプリで)聴いていたら、どうも今日は内容が聴くに堪えない。

いつも楽しげに喋ってくれているパーソナリティの方々のことは好きだし、彼らの今日の喋りも別に悪くはない。

ただ、この日はリスナーへ募集していたメールのテーマがいわゆる「大喜利」の要素がある、つまり「ネタ」的なメールを募るものだったのだけど、今回はどうも、その内容が「私には合わなかった」。

大体のラジオ番組、特に生放送の番組は、採用するメールの選別のほぼ全ては番組のADやディレクターに担われている。

番組の喋り手も選別することもあるだろうが、それはごく一部だったり、ほぼ選べなかったりとまちまちなようだ。

そんなわけで、私がいつもの時間に聴いている生放送のワイド番組も、メールの選別はほぼ番組担当ディレクターがしているようだ。

残念ながらこの番組を担当している某ディレクター氏と私は、笑いのツボやセンスが思いっきり合わないようだ。

なぜこのネタを面白いと思って採用したのかと、首をひねるチョイスを延々と聴かされている…そんな残念な気分に陥りやすい。

大喜利ネタメールを募った回は、特に。

そしてこの日は、私にとってその悲劇の最たるものになってしまった。

ひねりすぎて首を痛めてしまう前に、私はそっとラジオのスイッチを切った(正確にはradikoのアプリを閉じた)。


いつも聴いているラジオ番組なのに、堪らなくなって途中で切るときは、寂しさを禁じえない。

SNSと連動して聴くリスナーが多いラジオ番組は、コミュニティの役割も担っていたりもするからだ。

いつも聴いてるラジオのスイッチを切るということは、いつものコミュニティから離れていくということと、そう違いはない。


ただ、これを前向きに考えるとすれば、これは悪くはない変化でもある。

ラジオを聴き流しているだけだとしても、聴いてる側だって大切な「時間」を遣って聴いている。

ラジオを聴くために家事の時間に充てていた時間割をちょっと変更して、静かな方が捗ることをする時間にするチャンスだ。

ふと部屋の一角に目をやれば、積ん読の山。
一冊選んで表紙をめくっていく時間にする。

電波から離れても、世界はあちこちに広がっていることを体感できる。

そのことに感謝しながら。

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