池江璃花子選手が五輪内定「努力は必ず報われる」

どうも、うな祐です。今回自分のブログ“南龍武人のコラムブログ”より記事を転載させていただきます。よろしければブログの方も訪れてみてください。よろしくお願いします。

池江選手は4日行われた日本選手権兼五輪代表選考会の女子100メートルバタフライで優勝し東京五輪パラリンピック出場に内定しました。

このニュースは大きく取り上げられました。世間に感動を与えたことと思います。池江選手へのインタビューで彼女が語った言葉「100メートルで優勝できると思っていなかった。何番でもここにいられることに幸せを感じようと思ってやってきた。自分が勝てるのはずっと先のことだと思っていたけれど、勝つための練習もしっかりしてきたし、努力は必ず報われるんだなと思った」この発言が切り取られ、一部ネットで話題となり、賛否両論となっていたのでこのたびこのサイトで取り上げることにしました。

まず、賛否が分かれたのは「努力は必ず報われる」の部分でした。一方では素直に彼女を祝福し、感動を覚える人たちがいたのですが、もう一方では彼女の発言に不快を催す人たちがいたようです。私としてもこのコラムを書く上でお読みくださる人の中には不快となる人もいるだろうと思い、このコラムを書くか悩んだのですが、私の考えを述べていきたいと思いますのでお付き合いくださればと思います。

まず私自身はニュースが報じられたのを見て彼女の優勝に驚き称賛を覚えました。彼女は2019年2月に急性リンパ性白血病を患いました。当初私は彼女の五輪の夢は潰えたなと思ったことを記憶しています。なによりも命が助かって欲しいと思いました。そんな彼女が東京五輪に出場を決めたことは奇跡的だと思いました。もし映画のストーリーなら脚本としてイマイチでしょう。闘病10か月、プールでの練習1年あまりで大会で優勝というストーリーは出来過ぎだと感じてしまいます。それが現実に起こったのですから凄いことです。

やがて彼女がレースを終えてインタビューのシーンが流れました。このときに私は「努力は必ず報われる」という彼女の発言に「アッ。」となりました。世間の一部の人には心に突き刺さってしまう言葉かも。そう直感してしまったのです。

東京スポーツなどがこの発言に物議を呼んでいるとして記事にとりあげ、一部のサイトでも物議を呼ぶことになり私は予感が当たったなと思いました。問題視する人は必ず現れるだろうと思ったのです。恐らく人生において「頑張っているのに報われない」と感じながら生きている人たちの心にはこの発言が突き刺さったとみて間違いないと思っています。

一方で素直に彼女の言葉を聞いて共感や感動を覚えた人たちは人生が順風満帆であったり、挫折を経験したことがない人たちが多く該当するのではないかと思いました。「努力」は素晴らしい。と思う方は成功体験がある方だとも考えられます。

ということで池江選手の言葉が引っかかってしまった私はというと、挫折を経験している者です。だからといって私は努力を否定しているわけではないのですが、正直好きな言葉ではありません。代わりに好きな言葉に「無我夢中」があります。人が夢中になれることはそれ自体が素晴らしいことだと思っています。しかし、「努力」は他人に強いられている感があり私は好きではないのです。まだもちいるなら「頑張り」の方が好きです。自発的に意欲を感じさせる言葉だからです。

池江選手自身にとっては「努力」とは今までの自分の選手活動の経験を裏切らない素晴らしい言葉として認知なされているわけですね。だから彼女は興奮冷めやらぬなかインタビューに答えてこの「努力」という言葉が素直に出てきたのだと思います。

彼女に悪気はないのは明白です。しかし言葉そのものだけで人は傷つくことが出来る生き物です。一部の人には「努力」という言葉を良く思っていない人たちがいるということです。ある人にとっては裏切りの言葉であったり、無駄、無力、才能とセット。などと考えてしまう方がいるのでしょう。このように「努力」という言葉の受け止め方にはその人の生きざまが影響するものだと考えています。

今の日本社会においてはこの個人による「努力」は「無力」となりつつあります。何故なら日本社会は長期不況のただなかにあり、先が見えません。そんな社会で生きる人々にとって「努力」という言葉は残酷なのです。であるならばこの池江選手の言葉に不覚にも傷ついてしまった人々というのは想像以上の多数に上ってしまったかもしれません。一部の勝ち組。何不自由ない人生を送っている人を除くと昔と違い「努力」にはもはや人を傷つける意味合いが生まれてしまっている。こうなってしまった責任は経済界や政府にあることは間違いないでしょう。

今回池江選手は純粋な喜びをインタビューで発せられました。しかし物議を呼んでしまい、否定的な受け止め方をした人たちが相応の割合を占めてしまっていたことに日本社会の病を感じずにはいられません。本来社会のみんなが私も含めて「努力」を素晴らしい言葉と受け止められるような生き方が望ましいのです。みんな精いっぱい生きているのですから。ちゃんと報われる社会を目指し、作って行かなくてはなりませんよね。私もそのように生きられるように頑張りたいと思います。


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