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『プロジェクトμ』原版より(1)


 それから僕はもう一度窓に目をやってみる。すぐに目にとび込んでくる窓際のゼラニウムの花のピンク色はいつも僕を慰める。それを見るたびに、香港移民のミュージシャンのキャシィと暮らした頃のことを思い出すのだ。ゼラニウムの鉢はピンク色の花が好きだったキャシィのために買って来たものだった。でも僕が愛したキャシィはもういない。彼女はどうして僕から去って行ってしまったのだろう。答えは彼女にだってわからないのかも知れないさ。僕はいつも寂しそうにため息をつくだけなんだ。セラヴィ、なんてうそぶいてみたって始まらない。でも、いまは外の天気が落ち着いているようなので、僕はほっとさせられる。それに大学に傘を置き忘れてもいたんだ。明日雨に降られてはかなわない。

── タオ君、もしも宇宙がほんとうに、目に見えない輪を巡る営みから生まれているのだとしたら、いつかきっと、僕は君と再び会えるのかもしれないね。

 今月で三才になる息子は、今、この広い地球のどこにいるのだろう。この上ないくらいに可愛かった赤ん坊。キャシィの魅力だった、ふるまいに表れるインファンシィは、息子にも立派に受け継がれていたようだ。溢れるばかりのあどけなさと、それでいて知的な輝きをもった母子の、まるで幸せな子供のように素直で純粋な心に、僕はどれほど感動させられてきたことだろう。キャシィが大切そうにつまぐっていたネックレスの水晶玉のようにピュアな二人に。そして地球に祝福されて生まれた自然児のような二人に。

── タオ君、いちばん大切な人に素直に優しくしないで、失ってからその人を惜しむようなあやまちを、人間はいつになったら止められるのだろう。

 僕はため息をつき、また仕事に戻りながら、プランクやアインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルグらのことを考えてみる。今世紀の量子論の天才たちは、人間の認識に偉大な革命をもたらしてきた。そして四つの力・・・重力、電磁力、大きい力、小さい力。今も尽きない発見の宇宙。素粒子レベルのダイナミズムのフィールドには、たぶん、まだ未知の法則が多く隠れているに違いない。

                 (1994)

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