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平田篤胤の国学と民俗学


 平田篤胤(ひらた あつたね)は、江戸時代後期の学者で、古神道の祖と目される人である。戦前の軍国主義、皇国史観を導いた国家神道の創成の元祖と見なされているため、何かと悪評の対象にされやすいが、その批判は批判として、ここでは平田の呈している別の側面に注目し、これについて論じてみようと思う。まず、平田は、死後の世、仙界などの異界や、天狗、仙人などの妖怪、そして輪廻転生などの超常現象に関心を示した。民俗学の権威、折口信夫氏は、平田のこうした面を好意的に見ている。このことについて、中央公論社の平田篤胤選集の解説者である相良亨氏は、次のような旨のことを述べている。

なぜ折口氏が、このような篤胤の側面を評価したかというと、それはつまり、篤胤が、民間に信じられていたものを材料として、「人間世界の外に、日本人の考えていた、別のものがあるということを調べようとした」その姿勢を評価したからであった。篤胤が天狗や化け物に執拗な関心を示したのも、彼が民間で信じられている天狗や化け物の中に、日本の神の性質を認め、それを明らかにしようとする関心からであったというのである。この側面を捨象する時、それは平田国学の「曲解」になると折口氏はいう。しかして、平田国学のこの側面を継承することにこそ今日の民俗学のあり方があるのではないかと折口氏は考える。

 そして相良氏は、民俗学の大御所が篤胤を民俗学の先駆としている。これは篤胤解釈にとって重大な提言である、と言うのである。相良氏は平田が、民間で信じられていたこと自体をその考察の対象に選んだこと、民間信仰それ自体を対象にしたという側面に注目している。折口氏と相良氏のような視点から平田を見るとき、私には、日本の古道というものは、戦前の国家神道のような国家主義的で理念的な観点からよりはむしろ、民衆的で実質的、リアルな観点から迫った方が良いものと思われてならないのである。

 先達の本居宣長が文献学的な学問性に基づいたのに比べ、平田においては、古文献の権威は相対的に低下しており、かわって、民俗の事実が重くとり上げられている。彼の著作『仙境異聞』『勝五郎再生記』は、フィールドワーク的な性格を帯びた研究方法に基づいてなされたものである。相良氏は、平田が民俗へ関心を傾斜させたことについて、「それがまがりなりのものであっても、民衆の中にあって思索する姿勢の誕生を意味する」と述べている。それからまた、平田の研究態度には、主観的な性格が大きい。文献に入る前に、自身の内にひとつの宇宙観、宇宙解釈像を想定している。『古史徴』において、彼は次のように述べている。

すべて、神世の故実をたづね、天地初発の趣を知らむとするには、まづ天地世間の有状をよく観て、腹に一箇の神代巻のいできたる上にて、国史を拝み読み、古事記序に、乾坤初分参神作造化之首とある文、・・・・・・などを心得おきて、火にも焼まじく、水にも溺るまじき、倭魂の真柱を固立て、後に漢学を為て、学問の才をおぼえ、其余の国々の事をも探ね知り、然して後に、いとも可畏き申しすぎに似たれども、造化の首を作し坐る、三柱神の御上より、見ましけむ心になりて、此国土をしばらく離れて、大虚空に翔り、此国土を側より見たらむ心をもて考えずば、真の旨を得まじくなむ。

 彼のいう「古伝」は、さまざまな文献によって、彼によってつくられた古伝であるらしい。文献に権威を認め、その理解において真理にせまろうとする態度から、主体的な判断によってもろもろの文献を取捨折中する態度への移行には、すでに近世の儒教が示した経過であるそうだが、国学においても、本居から平田への流れの中に、それが現れているという。

 平田は、死後の世界に積極的な関心を示した。死後の世界が明確にされなければ、この世の生き方を確固としたものにすることができないと考えた。彼によれば、国つ神のまします幽冥界こそ『本つ世』であり、この世は寓世であるにすぎないから、人が生きるということは、ただこの世にかりそめに居るだけのこと、となるのである。彼の独自な思想的世界をうち立てた『霊能御柱』という書物は、まさにわれわれの精神を柱あるものとして確立するには、この死後の世界の解明によってなされなければならないという発想から書かれたものであった。また彼は『本教外伝』を唱え、正しい古伝が日本には失われ、外国にそれが伝わっていると考えていたらしい。そこから、彼は、正しい古伝を求めて外国書へ関心を持つようになった。そのなかには、中国を経由したキリスト教関係の書物もあったらしい。しかし、それはおしなべて、彼の古伝復興のために表面的に活用されたにとどまったのであり、彼自身の幽冥界観とは、根本の教義からして、相違を生じているのである。

(本稿は平成十年に執筆した手記をほぼそのまま掲載したものです)

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