ヨルシカ「盗作」 かんそうぶん

図書カード欲しいので「#ヨルシカ_盗作レビュー」書きます。

はじめに、自分は音楽に詳しくないし、ヨルシカは「だから僕は音楽を辞めた」くらいから聞き始めたにわかだし、n-bunaさんのボカロPとしての曲もあんまり聞いていないので、見当違いなことを書くかもしれません。まあ、曲の解釈は自由ですよみたいなことをn-bunaさんが言っていた気がするので許してください。

まず、今回のアルバム名の「盗作」ですが、これは小説内にもあるようにどんなメロディも歴史の中で一度は流れたメロディなのだから、オリジナルの美しいメロディなんてものは存在しないのでは? と意味と捉えられます。

しかし、曲を聴いているとこれは「過去の自分自身からの盗作」という側面もあるのでは? と思いました。

小説の主人公が盗作を行っていた時期にあたる「レプリカント」と「花人局」では意識的に、過去曲で使ったメロディを入れているように感じました。コード進行とかの知識がなくてあれですが、とりあえず「花人局」の「覚束ぬままに夜が明けて」は「エイミー」の「流れる白い雲でもう」の部分とかなり似ています。(文字で書くと似てない…)

これを「だから僕は音楽を辞めた」のアンサーソング集である「エルマ」でやるならわかるけど、なんで今回それをしたの? と考えると盗作というのは悪く言うと過去の焼き直しを意味しているのではと思いました。

この過去やったことでもまたやるというのは、n-bunaさんの特筆される個性のひとつですよね。

今回、前作とは雰囲気が変わったように感じますが、一つ一つの要素を拾っていくと、夏の匂い・バス停・夜・花火・死別・作曲…等々、ヨルシカの曲によく出てくる要素はやっぱりあります。

ミュージシャンに限らず創作者って、あまり同じことはしたくないという気持ちがあるんじゃないかなと思うことがあるのですが、自分はそれってなんだかもったいないなあとも思うんです。受け取り側としては過去とか関係なく一番良いものを作ってくれよと。

これに近い話で小説内の、作曲者が過去に何をしていようが、作品の価値は変わらないのではないか、というくだりがあります。ここを真に受ければ、作者と作品の繋がりに意味がないという考えなわけですよね。つまり、ヨルシカの曲に頻出する要素は、ヨルシカとして求められているからではなく、単純に好きだから良いと思ったから入れているんだろうなと感じました。

変わらないのに、変化を恐れてもいない。その純粋さが信頼できます。


いやいやしかし、この作品至上主義的な話には裏があると感じます。というよりは表裏一体なのかもしれません。これはエルマへの手紙のオスカー・ワイルドのくだりでも表れています。人生が芸術を模倣していたはずなのに、結局は生活がなければ音楽は作れないのです。それこそ逆説家を気取って言えば、純粋であるべきと考えることは不純なのです。

というかそもそも、作者と作品の繋がりに何の意味もないなら、手紙も日記も小説もいらないじゃないですか。

うーん。そう考えると、曲に文脈が乗ることによる印象の変化みたいなものもこのアルバムのテーマの1つかもしれません。

n-bunaさんは文脈、行間、ハイコンテクストというものが好きに違いない、少なくとも肯定的と思います。そうでなかったら、「夏の匂いってわかるよね?」「戻らない後悔の全部が美しいってわかるよね?」「花人局って読めるよね?」とはしない気がします。

花人局の歌詞も、小説を読んでいれば妻との死別を歌っているとわかりますが、何も知らずに聴けば、彼女と別れたのかな? と受け取りそうです。上でも触れましたが、エイミーと曲調が似ていて死別の歌である点も一緒なのに、そこに乗る物語の違いで印象が全然違います。これはsuisさんの歌い方もあるとは思いますが。

「夜行」と「花に亡霊」も面白いことが起きています。このアルバムの中では主人公が幼年期を思い出している曲ですが、「泣きたい私は猫を被る」のタイアップ曲でもあるのでそちらの文脈を乗せて聴くこともできるんです。

小説の中でも、少年が月光に抱くイメージとして出てきますし、やはりこれは意識的にやっているのかなと思います。(メジャースケールのラとマイナースケールのラの話もそうかも)


だいぶ、とりとめもなく書きましたがこの作品至上主義とハイコンテクスト文化の矛盾が、美しい音を集める男自身が作品になるという形でアウトプットされたものが「盗作」なのかなあという感じです。

これを書きながら気づいたことがあるので最後に怪文書を置いておきます。


このアルバムを買ってくれ

どうぞ何回も聴いておくれ

花に亡霊の例えもあるぞ

さよなら以外全部塵

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