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決めなくて良いよ

社会人になってからというものの、
何事にも判断・決断が求められるようになった。

そのようにして物事は進んでいくのだ
と理解してはいるものの、
どうもしんどい。

判断が早い。
逆・鱗滝さん。

決定力というものに比重が置かれる環境。
そしてそれが世の真理であるかのような風潮。

声を大にして言おう。
この風潮はダメだ。

即断即決にも欠点はある。

すぐに決めることだけを善として捉える個人ないし集団には誤解・誤読を見つけるフィルター機能が欠落する。

一旦受け止めることが大切。
バットで打ち返すのではなくて、
ミットで受け止める。

返球するまでに複数の動作を挟むということ。

判断の予備動作にこそ判断は存在する。
呪詞を省略しないことで呪力を底上げするように。

何をそんなに急ぐ?
「善は急げ」とはよく言ったものだが
「急くは善」とは誰も言っていない。

先ずは善であるかを判断する。
その判断が終わってから、急ぐ。

この順序を逆にしたところで
則ち善というわけでは
必ずしも、ない。

最近、「言語化」という能力が
やたらと日の目を見ている気がする。

これも決定力と同じ。
急かされている。

思ったことを言葉にするのが凄い。
誰にでもわかりやすい言葉にできるのが凄い。

確かに凄い。
でも、真理では、ない。

言葉には「伝えない」という能力もある。
非伝達も伝達である。

人間の能力を片面から見て固定化してはならない。

これは個人の考えなのだが、
説明できようができまいが、享受の質にそこまで差異は生じないと思っている。

感じた味覚を詳らかにできたところで
目の前にあるラーメンは美味しくならないし、
抱いた感情を整理できたところで
聴いている音楽は変わらない。

解像度は確かに変わる。
味覚音痴ならラーメンのスープに使われている
出汁の種類なんてわからないし、
音楽に疎い人ならそもそも今聴こえている音が何の楽器なのかもわからない。

でも、享受できている時点で
あとは知識さえ備われば
いつでも同レベルの感じ取り方はできる。

そんな程度だと思う。
「決定力」とか「言語化スキル」って。

方法論さえ備わっていれば
誰でも、いつでもできる。

先の例えに戻るが
もちろん身体的性質において享受の差異は現れる。

こんな風に思うのも自然である。
味覚障害の人間はそもそも味の違いというものすら認識できない可能性があり、
聴力の弱い人間には呼び声すら届かないこともある、と。

一応、反論を用意してある。
効けばいいのだが。

上の意見は
ここまでずっと述べてきた「決定力がある人が凄い」「言語化できる人がすごい」と
"極めて"同水準で発生している差別意識である。

周囲と同じ味を感じられるのがそんなに偉いか?
同じ音を聴けるのがそんなに嬉しいか?

「同質化の湯」、
意外と設定温度低いですよ。

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