あの大鴉、さえも

 大学のサークルで、少し取り扱った作品が、竹内銃一郎の『あの大鴉、さえも』。3人組の独身者が、大ガラス(エア)をお宅に運ぶ中繰り広げられる不条理の世界を、言葉と視覚で楽しむ戯曲になっている。

結局このコロナ禍で実現には至らなかったので、解釈だけ滔々と語ります。


 まず、この脚本の元になったポーとデュシャンの考察から。
 ポーの詩では言語の記号性が強調されると考えた。nevermoreの様に何の意味も持たぬ鴉の発する音でもそれに解釈を付け加えてしまう。言語により区分され人間が秩序を保ったと思わせる世界は同じくその言語により簡単に破壊される不条理なものであるということである。
ここで、この脚本にどう応用されているかというと、脚本には言葉遊びが多く出てくるが、言葉の響き、五感による耳の楽しさをコメディとして取り入れつつ、何をも示さぬ無意味さをも言葉は持つということに、気づかせるのではないか(ポーのnevermore のように)。また、大ガラスという共通の了解だけで存在するように見せかけることは一見滑稽だが、私たちが言葉により、混沌を切り分け意味づけを行ない存在せしめ、それを共通の了解としていることと同じである。更に、三条はるみとルミの区分も言葉による区分化であり、言葉が物体の意味付けを行うことがよくわかる。
 次にデュシャンについてだが、その芸術作品に示されるのは、生殖を目的に据えない、その欲望自体を目的とする様なオナニズムだ。これは脚本の軸となる独身者にも勿論あり、例えば家計簿の話の時の「世帯を持つ」という規範に反する身の憂鬱と、花嫁ポルノに不毛な憧れを抱くことの相反性がある。結婚に表される生殖、発展vs性欲、オナニズムの構図、セックスと性欲の分離がもたらす不毛。また、同じく「三条はるみ」と「三条ルミ」の区分も性(欲)の対象としての区分があり道徳規範の推奨する異性と性欲の分離が顕著である。その結果、独身者は不毛なオナニーに走るしかない。
 全体として、80年代の日本の若者の三無主義的雰囲気を残しつつ、それを非難するのでなく、若者目線の軽快さをコメデイとして全面に出していますが、その軽快さは不条理で発展性のないものだということが、若者の財政状況や時々現れる孤独感、発展性のないポルノへの傾倒から醸し出され、胸を突かれる。

追記.どうしても所々の水の演出に引っ掛かりを感じていましたが、あれはまんま「誘い水」としての役割…?誘い水ってポンプの水の出をよくするために最初ポンプに入れる水の事だけれど、同時に言わずもがな誘因の意味がある。3人が入ってくる前のト書きに誘う様にみたいなことが書いてあり、いなくなると止まる、出てくるときには又…と独身者たちを誘っている。どこに?独身者の求める三条ルミの中に…。そして3人が家に入っていくとジャーっと流れる、これは誘い水が成功するとポンプからは水が勢いよく流れ出るわけです。って、こういう洒落?こじつけが過ぎますかね笑

追々記.独身者達が若者として考えてしまったが、若くない、と語る彼らをどう捉えるかは演出次第だ。十分に若くても若くなくともこの劇はできる。其々のパターンで見てみたいなあ。

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