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前回と似たような『思い込み』のハナシ

もうすぐ8月が終わります。

子供の頃や若い時は今とちがって夏が好きで、地元の夏祭りも楽しみだったし毎年海にも行っていたしなにかしら夏らしいことをやっていた気もするけど、今はもうただただ『暑い時期』という認識のみで、あまり好きな季節ではなくなってしまいました。あの頃のボクと今のボクは全細胞が入れ替わった別の人間なのです。

ボクは結構夏の歌を作るのだけど、それのどれもが室内や車内といった、エアコンの効いた中から外を見たり外をイメージしたりするものばっかりでリアルな体感がないんですね、よーく考えたら。

えっと、、前回の話の『決めつける』ことと似ていますが、今回は心配症と『思い込み』のお話。

ボクは大概において心配症で、取るに足らないことをあれこれ考えすぎたり、麻雀でも安全牌の確保が早すぎたり、、、と割と不安が多い人間だと思います。

歳をとって経験値を重ねると、人生には色んなことが起こるというのが頭に植え付けられて、それを回避するために、さまざまなパターンを考える(考えすぎる?)ようになってしまい、、それが生き方の基準になっていることが多々あります。

でも、ちょっと考えてみたらその基準って結構自分の思い込みなんじゃないかしら?

こないだ定期検診でMRIを受けたとき。

閉所恐怖症なので、本当にMRIが苦手なのですが、なんで嫌いなのかぁと思ったら、拘束されて動けないという身の自由がなくなるからで、身の自由がなくなるということ=もし何かがあったときに動けない=動けないと大変なことになるんじゃないか?という考えがベースになっていると思うんだけど、これってひょっとしたら、思い込み??なんじゃないかと考えたわけです。

MRIに入室(というのか、あれは?)する際には、手元に機械を操作している人にSOSを知らせるボタンみたいなのもあるから、どうしてもキツかったらそのボタンを押してやめちゃえばいいじゃん、つか、そもそも定期検診なんだし、緊急性もないんだから、やれるとこまででいいじゃん、ダメならまた別日にやりゃいいし、、、みたいにあまり深く考えずいい加減に立ち向かったら、気分も楽になりすんなりと検査を終えることができました。

意外と考え方ひとつでなんとでもなるものなんです。

現在活動停止中のモスキートーンズですが、そのバンドでドラムを担当している小池とこないだスタジオに2人で入りました。特に何がしたいというわけではなかったのだけど、暇だったのでドラムとギター2人で軽い気持ちでセッションをしたわけです。弾き語りかバンドでしかやったことがない曲を2人で合わせてみると不思議な『間』ができます。それは弾き語りやバンドだと感じることのない客観的に聴くとすごくスカスカになっているんじゃないかなと思えるような『間』の感覚です。

ボクは2人でやるのはなかなか難しいなぁと感じたのですが、小池の意見は全然別で、変な『間』は感じない、むしろ個人個人の音がハッキリ聴こえてめちゃくちゃいい!と。

そんなもんかなぁと録画したものを聴いてみると確かに演っているときに感じてた『間』はさほど感じずに、むしろ小池の言うようにとてもいい感じに聴こえました。

これなんかもある意味、思い込みの問題なんでしょうね。

去年の1月にコロナに罹患して以来、ワクチンの副反応以外で体調不良になったことも熱が出たこもとなく、むしろそれまでに比べて手洗いなどをよくするようになったからか、コロナ禍になってからどんどん健康になっている気もします。

世間でもコロナが流行ってからインフルエンザが減ったとかよく言われてますよね。

むろんボクもその通りだなぁと思ってましたが、よく考えたら若い頃からそんなに風邪を引いたという思い出はなくて、コロナに関係なく数年に一度くらいしか風邪を引かない人間だったんですね(扁桃炎やノロウイルスにはお世話になったけど)。

でも、なんとなーくコロナが流行ってマスクをして手を良く洗うようになったから風邪を引かなくなったんじゃないかという思い込み。

なんだかフワっとした思い込みを纏いながら日々生きていますが、しょーもない思い込みを剥がしてみるとまったく別のモノが見えてきますね。そして、思い込みから逃れると無駄な心配症もなくなるのかもしれませんね。

逆に言えば、良い思い込みで自己催眠をかければ、いつも以上に良い結果を生むのかもしれませんな。

晩年の永井荷風は全財産を鞄に入れて街を徘徊していたそうです。いくら心配症がなくなったとしても、さすがにそれはできんなぁ。(そんなに財産はないけど)

なんも考えないヤツとはお友達にはなりたくないけど、思い込みが激しいのもこれまた鬱陶しいものです。

写真:なんだ、この写真??


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