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『ペールブルー』と新緑の季節

1995年の今頃は地下鉄サリン事件のあと、オウム真理教に強制捜査が入ったころで毎日テレビのニュースはその話題一色でした。

「カナリヤってかなりやばくない?」

強制捜査の際に毒薬に反応するということで捜査員はその手にカナリヤをもってサティアンを捜査しておりました。
その映像を見て大学の一つ学年が上の田村くんは、そんなどーしょーもないダジャレを思いついたのでしょう。
畳み掛けるように何度も繰り替えされるダジャレにあきれられつつも、最後にはなぜか周りを笑わせてしますパワー系のしょーもないギャグ!

音楽サークルの先輩でたまにセッションバンドで一緒になるとソウルやR&Bをそのダジャレのごとくあつく歌っていて、とてもかっこいい歌い手さんでもありました。声も良かった。

あるとき、学校の中庭でボーっとしていると、田村くんが来て
この曲にコードをつけてくれない?と言って突然歌い出しました。
~♪いつになっても、いつまでも、〇〇〇〇(この部分の歌詞は忘れた)、紙飛行機♪~
一部歌詞は忘れましたが、メロディはいまだに覚えております。
牧歌的な良い曲でした。

そして、具体的なコードの話をする前にどっかに行ってしまいました。
自由な人です。

そんな田村くんから映画を撮るから手伝ってくれない?
といわれたのは95年のゴールデンウィークの前、ちょうど今くらいの時期でした。

田村くんと田村くんの同級生数人で映画を撮るから音響と簡単なBGMを作ってほしいとのこと。
8ミリフィルムで制作していて、同時に音を録ることができなかったために
ぼくが持っていた多重で録音ができるカセットデッキ(MTR)を使ってアフレコをしたり、効果音を録ったりしました。

地面を歩くシーンではマイクを手にもって校舎の裏まで行って、砂利を踏む足の音を録音したり、ちょっとしたBGMになるギターを録って映画の制作に協力しました。

映画を一緒に作っていた豊田さんという女性のことをちょっと好きになって
最初、豊田さんがボクのことを
「ウムヤシキさん」と呼んでいたのに
途中から
「ウムちゃん」と呼んでくれるようになったので、ぼくが頬を赤らめていると
そのことを田村くんに茶化されたり。

初々しく微笑ましいですなー。

映画のタイトルは『ペールブルー』

感傷的な青年が若さゆえに悩む姿を描いた短編映画のようでした。
『のようでした』と書いたのは完成形を観ていないからです。

部分部分でしか作業をしていない上に、ボクの作業は最終編集の前で終わっていたので、ボクが完成形に触れることなく上映に至ったのです。

上映は確か6月くらいに学校内の企画みたいなもので行われた思うのですが、
その時もなにか予定があったかで観に行けずじまいでした。

後日田村くんから評判良かったよ、という話だけ聞いた記憶があります。

また上映会するから、、という言葉を信じて次の機会をうかがっておりましたが、結局上映はされませんでした。
(今みたいにデジタルじゃないので、一度機会を逃すとなかなか観れないんですね)

映画制作の仲間たちと過ごしたのはわずか1ヶ月くらいかな。
ボクは学校にほぼ行っていなかったので、その後はみんなと疎遠になっていきました。

豊田さんには一度勇気をふりしぼって電話したような記憶もありますが

留守だったかしら??

豊田さんが実家暮らしだったのでその後はビビって電話しなかったような。
あるいは告白でもフラれてしまったか??
(都合の悪い記憶は得てして消えているものです)

その後、田村くんとは音楽サークルのバンドのセッションで何度が共演しましたが
一つ学年が上だった田村くんは一足先に卒業してしまい
ぼくはその後だらだらを学生生活を送ったのち、
卒業してすぐにビートクルセイダースに加入して忙しくなってしまい
大学時代の知り合いと連絡をとることもほぼなくなっていました。

田村くんが亡くなったという知らせを聞いたのは
ぼくがビートクルセイダースを辞めてしばらくした頃でした。

大学を卒業して結構時間が経っていたので、その頃田村くんがどんな生活をしていたのか、どんな悩みがあったのかは全く知らず、亡くなって数日してから、池袋で大学時代の音楽仲間が集まって田村くんを忍んで飲んだときに色々話を聞かせてもらいました。

この時期になるとふと思い出す『ペールブルー』という映画とその時の景色。
どんな仕上がりになっていたのでしょうか?

フィルムのありかもわからない今となっては、もう完成形を観る術もないのですが。

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