『決めつけてしまう』ということ
個を認めるということは人を大きいくくりの中に入れて判断するのではなくて
一人ひとりにスポットを当てて考えるということなんでしょうな。
「トムはアメリカ人だから気が合う/合わない」
ということではなく
「アメリカには気が合う人も合わない人もいるけど、トムとは気が合う/合わない」
アメリカ人って大体がこういう人だから嫌いとか好きという判断ではなく、
大きなくくりを外して『個』で認識するっちゅーことですね。
男らしく、女らしくとかそういうのも全部『個』ではなく『塊』の一部として認識しようするからよくないんですね。
ひとまず、、トムってのが誰なのかはわからないですが、それはいいとして、なんとなく個を認めるような世の中になってきているはずなのにいまだにそんな話をよく聞きますね。
ま、国や人種の話は普通にナイーブな感じもあるので、こういう話は少なくもボクの周りではあまり聞かないようになってきましたが
(とはいえ、世の中にはそういう判断をする人はまだまだたくさんいます)
もっと地に足がついた例えというか、まー、よく言われていることだけどバーテンダーやバンドマン、美容師にはクズが多いとか。
彼らにクズが多いのではなく、彼らの中にクズもいればクズじゃない人もいるのです。先生や牧師さんのような聖職にまともな人が多いわけではなく、まともな人もいればクズもいるのです。
ボクはクズですが、バンドをやっているからクズなのではなくバンドをやっていてもいなくても『個』がクズだからクズなんですね。
つまり、国や人種の話はナイーブだから言わないけど、言っても良さそうな上記のような例えはついつい口に出して言ってしまう。
そのメンタルが個を認めず小さな差別を生んでいるわけですな。
偉そうに言ってますが、ボクもひょっとしたらいまだに気づかずにそういう認識をしているときがあるのかもしれませんな。
んで、差別や優越はなにかっていうと、精神的および物理的にマウントを取るということだと思うんですが、そういうのってもういらんよなぁ。
いらんとは思うけど、ボクも人間軍団の一味としてマウントを取りたがる気持ちというのはわからないくもないので、やはり身を正していかないとなぁと強く思いつつ、世の中にはもっと意味不明はマウントもありますね。
例えば、なにかについて注意をしてくる人ね。
小言みたいなこと。
仮にその人が注意を言ったり小言を言うことで利害や大事にしていることやチーム、組織や仲間が守られるというのであれば、まぁ、その注意や小言の内容は分からなくとも、気持ちは分かるんです。
落語家の師匠が弟子にいう小言とかね。
まぁわかるし、弟子入りしているし、言う方も言われる方もその図式は明確です。
でも、わからないのが全くそういうのがないのに色々と言ってくるバヤイね。
ボクのためというのであれば、それはものすごく鬱陶しい余計なお世話ですね。
教育というのであれば、それは今必要ないっすって感じなんですが、なんなんでしょうか?
解析しようとすればするほど非常に意味不明で結局こういうのも人の上に立ちたいマウント?なのかしらと思ったりします。
自分も知らず知らずのうちにそういうことを言っている老害になっているのだろうか?
気をつけねば、、と思いつつ人間ってなんか変で面白いよね。
話は戻りますが差別をするのって、勝手なイメージを描いて『決めつけ』をしてしまうことなんでしょうね。
それが外に向かえば差別になるし
それが内に向かうと、
「自分は〇〇ですがら(←だからなんかやってしまっても許してネ❤️)」
って感じで自分で自分のことを『決めつけ』て、ついつい言い訳して自分を甘やかしてしまうのかもしれませんなぁ。
結局、『決めつけ』てしまうことよりも、広い視野をもって偏らず、もっともっと想像力を持ったほうが良いんじゃないか思う今日この頃です。
写真:上野のはずれの飲み屋街
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