人間とヒト、そして化け物

 ヒトは人間では無い。人間はヒトである。ヒトは人間の皮を被った化け物である。その皮が死ぬまで剥がれないヒトもいれば、人生のうちのどこかで、剥がれるヒトもいる。剥がれると、世では『犯罪者』『異端児』『問題児』と呼ばれるのである。それが真の姿であるのに、不思議なものである。鏡にすら簡単に写らない真実を、人々は『異常』と呼び、狭い部屋に閉じ込める。己がいつの日かそうなることを恐れて視界から消すのだ。
 世の中には、人間という化けの皮を剥がしてしまい、その後一生被り直すことが出来ないヒトもいれば、何度も器用に脱ぎ着をするヒトもいる。化けの皮は、ふとした拍子に剥がれる事もあれば、自らの意思で剥がす事さえある。誰かに恣意的、もしくは故意的に剥がされる事もあるだろう。ヒトの皮を故意的に剥がして、正気で生きていられるかは定かでは無い。

 彼は人間の皮が薄かったのかもしれない。異端が日常の中に垣間見えた。しかし、そういうヒトなのだと、私たちは思っていた。または、思い込んでいた。彼には普通の家族がいた。同じく親馬鹿でもあった。その様はヒトらしいヒトであった。しかし何度か彼は、化けの皮が剥がれかけた。幸い、ぎりぎりで持ち堪えていたが、その奥に見えるヒトは、醜悪であった。我々は恐れ戦いた。万が一、彼が人間でなくなった時、何が起こるか知れない。まだほんの子供だった私たちは、なるべく密やかに行動を慎み、きっちりと彼からのタスクをこなした。特に私は、彼の皮が剥がれかける事態の切っ掛けでもあった為、特に、なんでもないように接しながら、様子を伺った。
 我々の巣立ちと同時に、彼も旅立った。そしてヒトが露呈し、狭い部屋に行きかけた。法の裁きのルールがよく分からない。だが、閉じ込められたとは聞いていないのだ。誰も話そうとしないし、あまりにもナイーブな内容だから、地元の新聞やテレビも大きく言わない。だが、話題が出た当時、関係者はひそひそと不謹慎だが楽しそうに話し込んだ。あの言葉の意味、あの手の意味、誰々との目線の交わし方。私は口を噤んだ。後からは何とでも言える。わたしは、思い出を思い出のままで置いておきたかった。

 私は今日も化けの皮を被る。笑顔を浮かべて、大きく手を振り、名を呼ぶ。課題をしていないと笑いを誘う。今日も、私はヒトでいる。

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