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お笑い症候群

こんにちは。井上うまるです。
デザインをしたり、イラストを書いたり、たまにプログラムを書いたり、サービスのコンサルをしたり、様々な創造のお手伝いをしています。

今日は「お笑い」というテーマで昔から思っていることについて私の頭の中をまとめていこうと思います。

松本人志を語る小学生

「お笑い」というものを私が強く意識したのは、たしか小学校5年生くらいだったと思う。新聞係だった私が学級新聞に『お笑いとは何か』というテーマで論評を書いた記憶があります。細かい内容は覚えていませんがその記事の中で、小学生の未熟な語彙力で「松本人志さんは天才だ」と評したことを覚えています。

当時、(これは今でもあると思いますが)世の中では「お笑い」というものに対して、ふざけていて馬鹿馬鹿しいものといった空気があり、あまり好意的なもとされていなかったような気がします。お笑い番組を見ると頭が悪くなると言われて見ることを禁止されていたお友達もいました。私は子供ながらこの世間が抱く「お笑い」に対する悪いイメージについてモヤモヤしていたのを覚えています。


ごっつええ感じ

私の家は幸いなことにお笑い番組閲覧禁止のルールはなかったので、『ダウンタウンのごっつええ感じ』を観ることができました。松本人志さんを天才と感じたのは、まさにその番組がきっかけでした。その番組は「子供に見せたくない番組」の上位常連だったようですが、私は子供ながらに今までのお笑い番組とは何か違うと感じていました。
その感覚は単に私の短い人生の中でたまたま初めての体験だったからではなく、世の中的にも革命的なことだったのだと大人になって知ることになります。ダウンタウンはお笑い芸人の多くが憧れる存在となりました。


ドリフ的なお笑い

ごっつええ感じを観る以前の私がお笑い番組といってイメージするのは『ドリフ大爆笑』でした。
小学生の頃、おじいちゃんの家に遊びに行った時に、リビングで一緒に観た記憶があります。子供から大人まで誰もが笑えるような作りこまれたコントで、エンディングの歌を聞くと、楽しい時間が終わってしまう寂しい気持ちになったのを覚えています。
年齢的なマッチングもあると思いますが、その頃はまだ私の中では、あくまでおじいちゃんの家に行った時に観る番組という位置付けで自分から主体的に観る対象ではありませんでした。今のテレビ番組ではあり得ませんが、おっぱいポロリンなどたまにあるエッチなシーンには気まずくさせられたのも覚えています。

ドリフの陽気なオープニングは今聞いても少しテンションがあがります。当時のお笑い番組は、演劇やショーを観ている感覚に近かったような気がします。そもそもテレビ自体をあまり観ることがなかった自分にとっては、おじいちゃんおばあちゃんがいつもみている『水戸黄門』より明るくて楽しげな大人が観る番組といった認識で、まだまだ遠い存在でした。


お笑い新体験

『ひょうきん族』はたまたま縁がなく観る機会がなく、私が次に出会ったお笑い番組は『ごっつええ感じ』でした。お笑い=ドリフ大爆笑というイメージだった私にとってそれは衝撃的すぎる番組でした。

小学生の私が最も衝撃を受けたのは『ごっつええ感じ』の「帰ってきた!リアルポンキッキ」というコントでした。ガチャピンがムックを土に埋めるシーンを鮮明に覚えています。私はその作品によって、自分の中にブラックユーモアを面白がるセンスがあることに気付きました。お姉ちゃんと腹を抱えて笑っていましたが、これを面白いと思う感覚は現代でもサイコパスと呼ばれてしまう類の笑いかもしれません。当時でも大きな声で言えるものではないと子供ながらに感じていました。見てはいけないものを見ているような背徳な笑いという感覚がありました。

今で言えばおそらく「シュール」と呼ばれるジャンルに分類されるかもしれませんが、当時の自分は「シュール」や「ブラックユーモア」というジャンルも単語さえも知らないですし、そもそも東海出身の私にとっては「ごっつええ感じ」という言葉の意味すらもわかりませんでした。リアルポンキッキだって何が面白いのか当時はよくわからず面白いと感じてしまっていたのです。わけのわからなさに面白さを感じていたとも言えるのかもしれません。

「AHOAHOMAN」「学校の怪談(ウンババ)」などわかりやすくアホらしい設定なものも笑えましたが自分の中では「こづれ狼」「産卵」「とかげのおっさん」といった子供(あるいは大人にも)には全く意味がわからないものにすら何故か強烈に惹きつけられたのでした。(※「産卵」に関しては大人になって観ても嫌悪感を抱くほど人の感性に訴えるような芸術性があり、美術館でたまに出会う嫌な感じのする作品に近い感覚があります。)

今までとは何か違うと子供ながらに感じ取り、その今までと違う「斬新さ」自体について面白いと感じたとも言えるのかもしれません。全く新しいジャンルのお笑いをみせられた私は「お笑いとは何か」について考えるようになりました。そして冒頭で話した通り新聞で発表するほどに陥りました。


お笑いとは何か

さて、大人になって「お笑いとは何か」というテーマでものを書くとすると今の私はどんなことを書くだろうか。多くの芸人さんが憧れる松本人志さんですら「お笑いってなんだろうね」とたまに言うくらいですし正解があるわけではありません。

たったひとつ確かなことがあるとするのならば「お笑いには人を幸せにする力がある」ということです。”人を”というと大袈裟ですが少なくとも私は笑いで大いに幸せになれます。当然、気分が落ち込んで笑えない日もありますが、それでも私は笑うのです。それでも笑いを求めて、声を出して笑うのです。


面白がる人生

東日本大震災でたくさんの人が死んで日本中が悲しみに包まれていた時、私も一人暮らしをしていたので大変不安な気持ちでした。押し寄せる津波の映像がテレビで映し出せれるたびに心が締め付けられて涙が出ました。直接的な被害を受けていない私もその頃は鬱々としていました。世の中全体が悲しみムードで、何かふざけたこともできないような空気になっていました。

そんな中、私は4畳半の部屋でひとり布団に入り、iPhoneにインストールした「ラップムシ」というアプリを起動しました。そのアプリは画面をタップすると用意されたフレーズが流れる音楽ゲームで「俺は」「お前は」「DJ」「マイケル」「yeah」など様々なフレーズを8ビートに合わせてタップして好き勝手にラップができます。私はこのゲームを一人でやりながらゲラゲラと笑ってしまいました。そのゲームに密かにハマっていました。当時、笑う事すら不謹慎だと思うくらいに閉じていた私の心が笑い(笑う事)によって溶かされたと体感しました。

面白くない世を面白くするのも結局自分の心次第であることは理論的にわかっていましたが、この体験を通して本格的に「笑う」という行為自体が自分の調子を整えるということがわかってきました。以降、何事も「面白がる」という姿勢が自分の幸福度をあげることに気付いたのでした。

おもしろき こともなき世を おもしろく
すみなしものは 心なりけり    -   高杉晋作
面白くない世の中 面白くすればいいのさ  - 『有頂天人生』milktab


お笑い至上主義

面白がる生き方を意識した自分の行動指針には「面白いかどうか」ということが大きなウェイトを占めるようになりました。それは面白い至上主義、お笑い至上主義とも言えるかもしれません。自分自身の感性として面白いと思う選択肢をするだけでなく、その選択肢が社会を面白くするかなども考えます。ただし、面白いかどうかというのはわりと主観的で難しい。

私はゲームコンテンツを作る身として「面白いとは何か」ということには常日頃敏感に主観と客観的な分析をして、何を面白いと感じているのかという要素分析をしています。そのように細分化して論理的に噛み砕く作業をする一方で、肝心な時には現代の言葉では言い表すことを放棄してフィーリングで面白いと思うものを選択する時もあります。

この世の全ては不確かで、ゆらぎがあり、常に変化を繰り返しているというリアリティを持つ自分にとって、真面目に考えることも感覚に任せて選ぶことも同じくらい意味があって意味がない行為なのです。

「面白ければいいじゃん」というお笑い至上主義的な考えは万人受けするものではなく真面目な人には「ふざけるな」と一蹴されるかもしれません。「お笑い症候群」という言い方で病気のように扱われるかもしれません。しかしながら私はこの病気こそが日本に残された希望の光、心の救いになり得ると思えるのです。日本人全体が私の大好きなアニメ映画『平成狸合戦ぽんぽこ』や『有頂天家族』の化け狸のように生きられたら、とても幸せで溢れる国になれる気がするのです。(ここら辺はまた別途noteにでも)



このようにお笑いのことをくそ真面目に語ること自体がお笑いに対する冒涜のようにも感じる人もいることがわかっていても尚、お笑いについてのnoteを書いている私はもう完全にお笑い症候群なのかもしれません。お笑いオタクという程、お笑いに詳しい訳ではありませんが、お笑いが持つ力を信じていて、お笑いについてつい考えてしまう病気を患っています。

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