僕たちに希望はあるのか
年末年始にかけて、旧友たちに会う機会がいくつかあった。
いずれも同年代で、結婚したり、子どもが生まれたり、仕事で役職を持ち始めたりと、それぞれが人生を歩んでいる。
旧交を温めるいい時間ではあったのだが、概ね後半になるにしたがって暗い話が多くなっていったのが、不思議な共通点だった。もちろん、私の話題提供(昨年、休職した話くらいしか大きなネタがないので)が悪いという側面はあったのだが、私の身の上話だけでなく、旧友たちの話を聞いていても「この先どうするんだ」という漠然とした不安感がやはり話に挙がってきたのだ。
私が会った友人たちの境遇は結構バラバラだ。
地元で教員をやっているA、東京の大手企業に勤めるB、地元でも東京でもない地方で公務員をしているC・・・パートナーがいたり、いなかったり、子どもがいたり、いなかったりと状況は異なる。共通項は私の友人であることと同年代であるということだけなのだが、(適切な表現ではないかもしれないが)面白いくらいに将来に対する不安感は共通していた。
いわゆるquarter-life crisis(クオーターライフ・クライシス)というやつなのかもしれない。英語版のWikipediaによれば、以下のように説明されている。
また、Robinson(2015)では、さらにクオーターライフ・クライシスを4段階に分けており、特に第一段階では「今のコミットメントが実は自分が長期的に望んできたものではなかった、コミットメントは誤りであったと確信する。しかし、新たなコミットメントをするか否かを迷い、葛藤を続ける」と説明しており、なんだか今の自分にぴったりな感じさえする。
一方で、旧友たちが共通して語ったのは、もう少し生々しい悩みであったりもした。すなわち、経済的な話である。
幸い旧友たちは、その日の暮らしも厳しいほどの経済状況という訳ではない。ただ、今後のライフプランを考えたときに経済的な不安が共通してあった。
ここ最近の物価高もその不安に拍車をかけているのは間違いがないのだが、もっと根本的な現代の日本社会の構図としての問題も感じさせた。
いかんせん、東京だろうが地方だろうが、子どもがいようがいまいが共通してお金の話を語るのである。
これまでの私は、東京で消耗しているような感覚があり、地方に行けばその不安感からいくばくか解放されるのではないかという淡い期待を抱いていたのだが、日本中どこでもどんな人でも付きまとうと知らされてしまうと、そんな期待は単なる幻想に過ぎなかったのだと思い知らされてしまった。これでは逃げ場がないではないか。厄介な話である。
先日、久しぶりに保険屋と話をした。どうも保険以外の金融商品にも手を広げたようで、不動産投資の話などもしてくる。
彼らの常とう手段として、昨今の社会経済情勢を踏まえ、こういうリスクヘッジが必要ですよと話をしてくる。自分で言うのもあれだが、なまじっかマクロ経済情勢に関する知識はあるので、そういう部分は話半分でしか聞かないの。むしろ「あぁ、こういうふうに(表現は正しくないかもしれないが)不安をあおって、いろいろ契約させるんだな」と思う(嫌な客である)のだが、こういう不安感に付け込まれてしまう場合というのは少なくないし、他人事でもないのだとも思う。
具体、抽象問わずして、私たちはこういう未来に希望を抱きづらい時代を生きているのは間違いないのだろうと思う。嫌な時代だが、仕方がない。この時代で生きていくしかないのだ。
そういう訳で年の初めから、わりと暗い気持ちになっている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?